白岩吉明オフィシャルサイト、山岳写真ネットギャラリー、「内陸アジアの貌・フンザ物語・横断山脈・ウイグルの瞳」「エヴェレスト街道」「チベットのヒマラヤ」「ランタン谷」「黙示録」「

 

 
 
 
 
 

 

                                    

                     ガンダーラ物語

 

              

 

 

 上図: 1   釈迦如来坐像   ペシャワール博物館蔵           撮影:白岩吉明

 上の釈迦如来像は、ギリシャ神殿に置かれていても違和感を覚えない程にヘレニズム色が濃い作品で、ガンダーラ美術初期の典型例と思います。ガンダーラ美術の定義は専門家の下記論に譲ります。

 「ガンダーラ美術を最も明快かつ詳細に 「ギリシャ式仏教美術」  L`Art Greco-Bouddhigueと規定したのはフランスの碩学フーシェ A.Foucher である。フーシェの見解によれば、ガンダーラ仏を見ると、眼の彫りが深く、鼻筋が通った楕円の顔、波状を描く頭髪、さらには衣の襞の表現など、いずれもギリシャ風である。しかし一方で、僧衣を纏い、耳朶は長く、髪を結って肉髻(タブサ:もとどりの意)とし、眉間に白毫(ビヤッゴウ)をつけており、顔の表情も哀調をおびた諦観の様子であって、ギリシャ神像とは異なる。ギリシャ風とインド風とが不思議に混じっており、ガンダーラ仏を創造した工人は、ギリシャ人を父とし、インド人を母に持つ、仏教徒の美術家、すなわち欧亜混血の仏教彫刻家に相違ないとみなしたのである。」 **  宮治 昭氏(みやじ あきら、1945年2月7日 -  日本の仏教美術史学者、名古屋大学名誉教授)の「Gandhara Art of Pakistan」NHK出版(1984年)の解説(P-128)から引用。

 

 

 上図:2    微笑する菩薩     パキスタン・ガンダーラ    クシャーナ時代    3~4世紀   解説抜粋:恥ずかしげに頭を傾け、微笑んだ表情の菩薩である。髪飾りは珍しく、太い花綱を正面で交差させて巻き、左右に一つずつ花のつぼみを付けている。頭頂の髪はカールしているのに対し、花綱の下には螺髪がのぞき、さらにカールした髪が両肩に垂れている。胸飾りの鎖の先端には向かい合うナーガ(龍)の頭の飾りが付いている。同種の胸飾りはガンダーラには普遍的なもので、スキタイ人の黄金製の装身具に洗礼がある。   出典:パリ・ギメ美術展(図番:16) 1996年 出光美術館

 

 

 上図は「ガンダーラ」「陸のシルクロード」と「海のシルクロード」をつなぐ「インダス川」中域にある事を示し、東西交易の繁栄の中で、「ガンダーラ」と言うイノベーションが誕生した事を示します。然し、395年のローマ帝国の滅亡と共に、「ガンダーラ」育て上げた「クシャーナ朝」は衰退し、ガンダーラ文化も此の地からやがて消えます。

 ガンダーラ美術は1世紀頃から5世紀頃にかけて、クシャーナ朝時代のインドの西北、ガンダーラ地方とタキシラで開花した仏教美術。本来仏教は偶像崇拝ではないので、ブッダを彫像で表すことはなかった。ところが、クシャーナ朝は
イラン系の民族が造った王朝であり、バクトリアから起こった国であったのでヘレニズムの影響を受け、ギリシア彫刻を模して仏像を造るようになった。ガンダーラ仏はギリシア彫刻の影響を受けているが、4世紀のグプタ朝時代になると次第にヘレニズムの影響を脱して、インド独自の様式であるグプタ様式が成立する。ガンダーラで作られた菩薩像は、その風貌、髪型にギリシア的なものが強く残り、衣文もギリシア彫刻のように動的である。一方仏像彫刻の起源に関する異説もある、仏像彫刻はガンダーラにおいて、ヘレニズム(ギリシア彫刻)の影響を受けて始まったという説は現在も有力であるが、一方で、仏像彫刻の発生をクシャーナ朝とローマ帝国の交易を背景としたローマ美術の影響であるとする説も有力であり、現在も論争が続いている。また、仏像彫刻の発祥の地をガンダーラではなく、インド独自にマトゥーラで生まれたとする有力な説もある。<高田修『仏像の誕生』岩波新書 1987>抜粋
 

                                                        ガンダーラ発祥の地・タキシラのジュリアン僧院       撮影:白岩吉明       

上図:3    菩薩立像  パキスタン・ガンダーラ  シャーバーズ・ガリー  クシャーナ時代  1~3世紀   フーシェが1895-97の発掘     解説抜粋:頭にターバンを巻き、その前にナーギニー(龍女)とガルダ鳥をあらわしている、内容はギリシャ神話に由来している。モデリングや襞の表現は、グレコ・ローマ彫刻を手本としてガンダーラの仏像が成立したことをよく示している。      出典:パリ・ギメ美術展(図番:14) 1996年 出光美術館

 

上図:4  天部頭部  ハッダ  バグ・ガイ寺院址(ガンダーラ)より採取 ストゥッコ彩色 3~4世紀バルトゥ―探検隊 1927年  解説抜粋:顔をわずかにうつむけ、右下方へ視線をおとす。瞑想的な表情ながら、若々しく清純な目鼻立ちが印象的な作。ストーパ(仏塔)の外壁を飾る仏伝あるいは本生を構成していた彫刻群の1部かと思われる。   出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

上図:5   菩薩像     8世紀   アフガニスタン・フォンドゥキスタン出土   壁画断片  高63cm   カブール博物館蔵                                   出典:世界美術大全集・3


上図:6  女子頭部  タバ・イ・カファリハ  K1(ガンダーラ) アフガニスタン ストゥッコ彩色  4~5世紀   発見:バルトゥ―探検隊 1928年   解説抜粋:首をわずかに右に曲げた女性像頭部で、冠を付け、前髪にはウェーブがかかる。瞳、唇、耳などには朱彩がの残っている。横顔は、ヘレニズム時代のギリシャ・ボイオーティア地方の都市タナグラで発見された彫刻を想起させる。また、重たい瞳、理想的な美しさ、若さの表現などはインド美術の影響によるものであろう。   出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

上図:7    微笑する菩薩     パキスタン・ガンダーラ    クシャーナ時代    3~4世紀   解説抜粋:恥ずかしげに頭を傾け、微笑んだ表情の菩薩である。髪飾りは珍しく、太い花綱を正面で交差させて巻き、左右に一つずつ花のつぼみを付けている。頭頂の髪はカールしているのに対し、花綱の下には螺髪がのぞき、さらにカールした髪が両肩に垂れている。胸飾りの鎖の先端には向かい合うナーガ(龍)の頭の飾りが付いている。同種の胸飾りはガンダーラには普遍的なもので、スキタイ人の黄金製の装身具に洗礼がある。   出典:パリ・ギメ美術展(図番:16) 1996年 出光美術館

 

上図:8   飾られた仏陀像   8世紀  アフガニスタン  フォンドゥキスタン出土  粘土 高51cm
パリ・国立ギメ東洋美術館  
出典:世界美術大全集・3

 

 上図:9   執金剛神胸像   ガンダーラ  彩色粘土  2~3世紀  解説抜粋:執金剛神は、ヴァジュラ(金剛杵)を持して仏陀の守護を司る神で、本像も右手にヴァジュラ(上半分は欠失)を執る。ヘラクレスの子孫とされるアレクサンダー大王にならって獅子の毛皮を被り、その前足を胸前に交差させるなど、その形姿は西方的でヘレニズムの影響をよく残している。   出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

 上図:10   如来頭部  パキスタン カルカイ(ガンダーラ) 片岩 3世紀  アルフレッド・フーシェ探検隊 1895-97年   解説抜粋:ガンダーラ美術は、ヘレニズム文化の影響を受けながら、それを巧みに消化して、独自の作風を作り上げた。この像の場合も、静謐さをたたえた表情などに、その特色がよくうかがえる   出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

  上図:11   浮彫ディーパンカラ本生ず断片   アフガニスタン  シュトラク(ガンダーラ) 片岩
解説抜粋:物語形式の画面構成ではなく、燃燈仏立像を中心に大きく据えた礼拝像形式だ。現在では、仏の足先と光背、台座の一部、メーガの蓮華を投げ上げる姿、仏の為に跪いて自らの髪を水たまりに敷く姿のみが現存する。シュトラクタは現在のアフガニスタンの首都カブールの北に位置する。この地域で作られた仏像は、正面性の強いやや寸詰まりの造形で、カービシー様式と呼ばれる。おそらく主尊もそうした様式であろう。また、カービシー地方ではディーパンカラ本生の作例が数多く知られている。     出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

  

上図:12   メーガ姫像   スワット美術館蔵    撮影:白岩吉明

   手に蓮の花を持つ上画像は、仏陀の前世の物語「燃燈仏本生」の中の花売り娘メーガと思います。メーガは来世で仏陀を生みます。「メーガは買い求めた蓮華の花を燃燈仏に散華しよとしますが、人込みで近寄る事が出来ませんでしたが、幸いに、降雨があり人込みが解け近付く事が出来、燃燈仏の頭上に蓮華を散華するとメーガの蓮華だけが燃燈仏の頭上で留まりました、そこで、燃燈仏よりメーガに来世は仏陀になるだろうとの予言を賜りました」  はメーガの物語の一節。

 

上図:左・13:釈迦像   右・14:鬼子母神像   スワット美術館蔵    撮影:白岩吉明

  鬼子母神は,夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将八大夜叉大将(パーンチカ、散支夜叉、半支迦薬叉王の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母であったが、これらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていた。そのため多くの人間から恐れられていた。それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子のピンガラ(Piṅgala,氷竭羅天、嬪伽羅、氷迦羅、畢哩孕迦)を乞食(こつじき)に用いる鉢に隠した。彼女は半狂乱となって世界中を7日間駆け抜け探し回ったが発見するには至らず、助けを求めて釈迦に縋ることとなる。そこで釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し、鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、そうすればすぐにピンガラに会えるだろう」と言った。彼女が承諾し,三宝に帰依すると、釈迦は隠していた子を戻した。そして五戒を守り、施食によって飢えを満たすこと等を教えた。かくして彼女は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となった。盗難除けの守護ともされる。

 

 上図:15   浮彫女子頭部  ハッダ  タバ・イ・カファリハ(ガンダーラ)  アフガニスタン  砂岩彩色  3~4世紀   バルトゥー探検隊 1928年  解説抜粋:頭飾りと大きな首飾りをつけた女性の頭部。頭上にはわずかながら樹枝が残っている。民間信仰の豊饒神と深く関わる樹下の女性像が仏教にも取り入れられた。マーヤー夫人がルビニー園のショーカ樹の下で釈迦を生む仏誕の場面もその反映といえよう。  出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

上図:16   托胎霊夢   スワット美術館蔵    撮影:白岩吉明

下右 托胎霊夢  「托胎霊夢」とはマーヤー夫人が白象が右脇から胎内に入り込む夢を見て太子を懐妊したという話です。白象は太子が変身したものです。白象はガンダーラでは円盤内に表されます。ガンダーラの円盤は、マーヤー夫人の夢の中での象ですよということなのか、それとも、白象は太子そのものですから光背として付けたのでしょうか。それというのも誕生直後の太子に光背がある物もあるからです。通
常、マーヤー夫人は左脇を下にして横たわっておりますが、此の図のように右脇を下にしているのは珍しくこれでは象が胎内に入り込むのに苦労したことでしょう。


下左 占 夢 「占夢」とは仏陀の生母となる王妃のマーヤー夫人から白象が右脇から胎内に入り懐妊したという托胎霊夢の話を聞いた王が、早速バラモンに不思議な夢を占わせたところ生まれてくるのは太子で将来は転輪聖王か仏陀になられるであろうと予言いたしました。中央の玉座に座るのが王で左側で椅子に腰を掛けているのが王妃で右が占い師でありましょう。 *9

上   太子の前世は兜率天の菩薩で神々が太子に白象となって地上界に降下することを懇請場面。
                         
 www.eonet.ne.jp/~kotonara/y%20bunkatu-1.htm仏陀の生涯 (eonet.ne.jp)

 

 上図:17  浮彫仏伝「出家踰城」図  ガンダーラ  ストゥッコ  3~4世紀   解説抜粋:出家への思いが日々募る太子は、29才の時ついに妻子を置いて城を出る決心をする。画像の上部分は、出家直前の寝床を離れる場面で、太子の背後に妻のヤショーダラーが寝ている。下の区画は出城の場面で、中央に光背を負った太子が城を出る姿を表している。下半分を欠失しているが、太子の愛馬カンタカに袴がっていたのだろう。   出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

上図:18  釈迦誕生  スワット美術館蔵    撮影:白岩吉明

   マーヤー夫人は里帰りして散歩中、ルンビニ園で急に産気づき無優樹の樹枝を右手で掴むと右脇腹から太子が誕生いたしました。夫人の右脇腹ではなく右腹からの誕生と見えますが。太子をうやうやしく受け取るのはインドラで、その後ろで合掌礼拝するのはブラフマーでしょう。マーヤー夫人の右隣で介添えする女性は夫人の妹君で太子の継母となるマハープラジャーパティーでしょう。マーヤー夫人は太子そのものである白象が右脇から胎内に入り同じ右脇から太子が誕生されたのは処女懐胎を表現しているのでしょうか。マーヤー夫人ポーズはインド古来の樹神ヤクシーのポーズを真似られたものでしょう。腰のくびれによりバスト、ヒップの豊満さが一層強調されておりますが我が国ではあまり眼にかかれない女性像であります。

 

 

上図:19  托胎霊夢  スワット美術館蔵    撮影:白岩吉明

   釈尊は地上に生まれ降りる直前までは,トウシタ天(兜率天)という天上世界に住み、シュヴェーターケートゥ(浄幢菩薩)と呼ばれていた。そこではブラフマン(梵天)、インドラ(帝釈天)、四天王、天人天女や多くの神々と一緒であった。天上では神々が協議の結果、王妃マヤが選ばれた、このような物語は大乗仏教の勃興とともに創作され、釈尊の神格化と超人化が進んでから成立した内容である。シュヴェーターケートゥは天上から地上に降りる時期が熟したので、6本の牙のある白象に姿を変えて、母となる王妃マヤの右腕から体内に入った。釈尊の父王シュッドウダナ(浄飯王)のカビラヴァストウの城内で、マヤ夫人は快い眠りの中でこの白象のことをはっきり夢にみていた。この白象の夢をみて受胎したので托胎霊夢というという。
                         
忘れへんうちに Avant d’oublier: 托胎霊夢 (avantdoublier.blogspot.com)

 

 上図:20   釈迦如来立像・部分  パキスタン タフテー・パイ(ガンダーラ)片岩 1~2世紀
解説抜粋:通肩に衣をまとい、頭光を負い、大きく見開いた目、口髭、流麗な衣紋文線など、初期ガンダーラ仏の特徴を具えた作例である。  出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

 上図:18   タフティ・バイ山岳寺院    撮影:白岩吉明

 タフティ・バイ山岳寺院はペシャワールから80Km東のマルダーンの町郊外の山上にあります。遺跡の発掘は1867年にイギリスの軍により始まり1929年に現状の姿になりました。伽藍は登院・僧院・講堂・禅堂・三塔院からなり、山中にも建物が多数散在する構造です。造営年代は4期に分かれ、紀元前1世紀~紀元7世紀にわたると推定されてます。タフティ・バイは「源泉の玉座」の意味で、小高い丘に湧く泉に由来すると言われます。湧き水の他、中庭の貯水槽に僧房の屋根からの雨水も貯めた様です。寺院は、5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興した中央アジアの遊牧国家であるエフタルに侵攻されましたが、山上にある地の利に依り無傷で済んだ歴史を持ちます。水源を確保した寺院の設計が異民族の侵略に耐えた要因かと思います。その後も此処は密教の中心地として7世紀まで存続しました。此処を樋口隆康氏(日本の考古学者。1919年生まれ、京都大学教授)は「色々の種類からなる仏教寺院の構成を、最も典型的に具現したものとして注目される」としています。建築でけでなく、この寺院からは各時代のガンダーラ様式の仏像が数多く出土し、世界各地の博物館に収蔵されてます。此の地のペシャワール博物館・スワット美術館には取り分け優れたものが多く保存されてます。私が撮影した其のごく一部を此処に添付しました。

 

 

 上図:19  タフティ・バイ山岳寺院出土の釈迦如来像  3~4世紀  パキスタン、ガンダーラ、タフティ・バイ出土  片岩  高222cm  パキスタン・ラホール博物館蔵   出典:世界美術大全集・3

 

 上図:20   タフティ・バイ山岳寺院    撮影:白岩吉明

 余談ながら「ガンダラーラ美術の見方」(山田樹人氏:早稲田大学美術史:里文出版・1999年)の含蓄有る文を、抜粋しながら下に掲載しました。古代インドでは、眼に見えないところに真理があり、修行によって物事の本質を理解する「真理の探求」がなされた。表面上に現れている「何時・何処で・誰が・何をしたか」ということは、重要視されなかった。・・・・・・・・・・このような思想の中で生まれた仏教は「経典」も文字で書かれることはなく、「口承」によって伝えられた。して、釈迦の姿が描かれることもない・・・・・この「空観」を受け継いで・・・・大乗仏教は、その影響下に展開される。・・・数学上の「0:ゼロ」の発見も又、インド人によるもので、「0」の発見によって「マイナス」があることも理解され、西欧数学の糸口となった、だが、「0」を発見したインド人が、数学者なのか哲学者なのかも、又、いつ発見されたのも分かっていない。「0」はアラビア人によって西欧に伝えられたのは7世紀のことであった。」

 

上図:21

  地域の概念図     作図:白岩吉明

 

今日私たちがガンダーラ美術に接する事が出来るのは、ヨーロッパの考古学調査の成果によるもので、其の発端の一部を紹介します。

    「中央アジア探検の始まり」の解説

  1890年、英国インド軍の命を受けてタリム盆地にやってきたバウアー大尉は・・・・・・ある日、何気なく古文書を買ってみる気になった・・・・・彼がたまたま購入した古文書は、実はとんでもない掘り出し物だった。そしてこの掘り出し物が引き起こした衝撃は、全ヨーロッパから全世界へと広がり、やがて中央アジア探検という大きな時代の流れを生み出すきっかけとなった。・・・・・・この古文書、実はインド古代のブラフミー文字で書かれたもので、英国のインド学者ヘルンレ(Hoernle, A.F.Rudolf)による解読の結果、紀元5世紀頃にまで遡る古い文書であることが判明した。それ以前にインドで発見されていたどの文書よりも古いものだったのである。・・・・・・バウアーが購入したことからバウアー文書と呼ばれるようになったこの古文書の発見以来、・・・・・・バウアー文書の発見から第一次世界大戦までの20年余りの間、中央アジア探検にはスウェーデン、イギリス、ドイツ、フランス日本、ロシアの各国探検隊が続々と参入し、埋蔵文化財の獲得競争を繰り広げることになった。この競争は、少しでもよい情報を入手して他の探検隊に先んじようという、探検家自身やその出身国の名誉をかけた競争でもあった。

 

下図:22  ガンダーラ史概要       作図:白岩吉明                                                 

 上図:23  バーミアン石窟全景  出典:「ガンダーラ美術紀行」林良一著・時事通信社1984年  

下左図:24  東大仏(38m大仏)  6~7世紀  アフガニスタン バーミヤン州   出典:図17同

下右図:25  西大仏(55m大仏)  6~7世紀  アフガニスタン バーミヤン州   出典:図17同

上図:26  飛天図 6~7世紀 アフガニスタン  バーミアン洲  H 洞仏龕張り出しぶ西側壁 

下図:27  坐仏列と楽天 6~7世紀 アフガニスタン バーミヤン州  i洞仏龕頂上壁

                                              出典:世界美術大全集・3

上図:28   弥勒菩薩立像  2~3世紀  パキスタン ガンダーラ  シクリ出土  片岩   高120㎝  パキスタン  ラホール博物館     出典:世界美術大全集・3

 

下図4点:図29~32  ガンダーラの地ミンゴーラにて  撮影:白岩吉明  

 上図:33     釈迦如来坐像(苦行像)   2~3世紀  パキスタン  ガンダーラ  シクリ出土片岩  高84cm   パキスタン。 ラホール博物館   出典:出典:世界美術大全集・3

 

上図4点:34~37   ブトカラの遺跡    上図はインダス川の支流・ジャンビル川。その上はブトカラの遺跡の画像3点。ブトカラの遺跡は此の川沿いにあります。この遺跡は紀元前3世紀頃に建立され規模は大きく、大仏塔の周りに200基以上の小仏塔が並び、周壁がそびえ、その周囲の外に僧院があったと考えられています。                                                                           撮影:白岩吉明

  パキスタンののスワート地方,ミンゴーラの南東約 1kmにある仏教遺跡。1956年からイタリア隊が調査。囲壁をもつ聖域の中心には前3世紀頃建立された仏塔 (大ストゥーパ) があり,6回の増改築が確認された。そのまわりには奉献塔や僧院があり,多数の彫刻や浮彫が発見された。外には居住区もある。付近のブトカラ II遺跡は 61~62年に調査された墳墓遺跡で,一般に2段に造られた土壙中から火葬,土葬の人骨が発見されている。

    詳しくは「スワートにおける仏教寺院の仏塔基壇の形態と変遷について」が下記にあります                                       https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/75/648/75_648_495/_pdf

 

上図:38     弥勒菩薩坐像   グレコローマンスタイルの菩薩像   スワット美術館蔵   撮影:白岩吉明

  「グレコローマンスタイル」はローマ時代につくられたギリシア風美術の総称。紀元前31年のアクティウムの海戦でギリシアを屈服させたローマは,造形芸術においては被征服者であるギリシア人の美術を継承した。彼らはギリシア美術を様式的に発展させてローマ独自の美術を生んだが,他方では,過去のギリシア美術を手本にすべきもの,古典的なものとして賛美し,模倣した。そして公共施設,聖域,宮殿,私邸を飾るために,おびただしい数の美術作品をギリシア人の地から運び込んだが,それだけではなお足りず,ギリシアの美術作品を当代の美術家たちに大量に模倣させた。

 

上図:39    如来頭部   3~4世紀   アフガニスタン・ハッダ出土  ストゥッコ  パリ、国立ギメ東洋美術館蔵    出典:世界美術大全集・3

 

下図9点:40~48   ガンダーラ文化発祥の地:ミンゴーラ点景    撮影:白岩吉明       

  ここはスワット谷の南岸奥のミンゴーラ、村の歴史を物語る仏塔(ストーパ)が畑の中に座ります。仏塔は、釈迦(紀元前6世紀の人)が入滅し荼毘に付された際の「灰土や容器を祀る塚」が起源と思われます。塚は釈迦の入滅時10基造られましたが、其の10基を、100年後に生まれた第3代マウリア朝のアショーカ王は壊し、8万4000に細分化し、仏舎利として、各地に配りました、配分は王のテリトリーの誇示だったのでしょう。此の王は古代インドでは仏教の守護者として崇められました。この時代、釈迦の教えとして偶像崇拝否定の思想は守られていて、当然仏像も存在していませんでした。時が過ぎ、ギシャのアレキサンダー大王はインド征服の夢を抱きガンダーラの地にまで至りました(紀元前4世紀)。この時、仏教文化はギリシャ文化に出会いギリシャの偶像文化の影響を受けます。その後、地中海文化圏ではギリシャは滅び、ローマ時代(紀元前30年~紀元330年)と成り、    ギリシャはローマ帝国の統治下と成ります(文化面はローマはギリシャ文化を模倣)、此の頃に仏像が生まれます。初期の仏像にはギリシャ様式が色濃く残るのは此の事が理由です。ガンダーラの仏教美術の特徴は「ギリシャ様式」です。仏像の誕生で、仏教は釈迦の教えである偶像崇拝否定から、偶像崇拝に舵を切りました。謎はローマ帝国の消滅と、時を同じくしてガンダーラ美術も衰退した事です、恐らくローマの経済活動が絡んでいたのではと推察します。

 上図は「シャンカルダール大塔」高さ30mと「ガレガイ磨崖仏」高さ約3m。ガレガイ磨崖仏は道端に2000年近く佇む姿には感慨深いものが有りますが、風化や破損が激しく、風前の灯の状況です。其れに加え、2021年の米軍のアフガン撤退で此の地へのタリバン侵攻が活発化し、偶像破壊が顕著化しています。紀元前4世紀のアレキサンダー大王の此の地への侵攻ルートを、今はタリバンが使ってます。下図は畑に堂々と栽培される「大麻草」です。

 

 

上図:49  カニシカ王   スワット美術館    撮影:白岩吉明       

     カニシカ王はガンダーラ文化創設に最も寄与した人物と言えます

  カニシカ王についての解説「寺院センター」の下記文章に譲ります https://jiincenter.net/kanishka/

 カニシカ王とは、中央アジアからガンジス川流域を支配し、仏教を保護したクシャーナ朝の中で最も名の知られた王です。漢訳仏典では音写して迦膩色迦などと表記されます。在位は144年頃~171年頃と考えられています。この時代にガンダーラ美術がおこりました。カニシカ王が仏教を保護したことは多くの仏典に記録されています。その伝説によれば、カシミール地方にシンハという王がいて、仏教に帰依してスダルシャナと称して出家し、カシミールで法を説いていました。カニシカ王は彼の噂を聞いてその説法を聞きに行き、仏教に帰依するようになったといいます。各地に仏塔を建造したことが知られているほか、仏典の第四回結集(第三回とも)が行われたとも伝えられています。カニシカ王は中部インドに遠征軍を派遣しますが、その国の王は和平交渉を行い、カニシカ王は3億金を要求します。その国の王は支払えないと回答すると、カニシカ王は2億金を減額する代わりに、宝の「仏鉢」と、サーケータ出身の詩人アシュヴァゴーシャ(漢:馬鳴。弁才比丘)を送るように要求しました。アシュヴァゴーシャはその国の王に諸国に仏道を広める道理を説き勧めました。その国の王は2つの宝をカニシカ王に与えることにし、アシュヴァゴーシャは、カニシカ王の手厚い待遇を受け、大臣マータラ(漢:摩吒羅)、医師チャラカ(漢:遮羅迦)と並んで「三智人」とされ、カニシカ王の「親友」となり、精神的な師となったと伝えられます。生誕 130~170年頃カニシカ王とは、中央アジアからガンジス川流域を支配し、仏教を保護したクシャーナの中で最も名の知られた王です。漢訳仏典では音写して迦膩色迦などと表記されます。在位は144年頃~171年頃と考えられています。この時代にガンダーラ美術がおこりました。カニシカ王が仏教を保護した事は多くの仏典に記録されています。その伝説によれば、カシミール地方にシンハという王がいて、仏教に帰依してスダルシャナと称して出家し、カシミールで法を説いていました。カニシカ王は彼の噂を聞いてその説法を聞きに行き、仏教に帰依するようになったといいます。各地に仏塔を建造したことが知られているほか、仏典の第四回結集(第三回とも)が行われたとも伝えられています。カニシカ王は中部インドに遠征軍を派遣しますが、その国の王は和平交渉を行い、カニシカ王は3億金を要求します。その国の王は支払えないと回答すると、カニシカ王は2億金を減額する代わりに、宝の「仏鉢」と、サーケータ出身の詩人アシュヴァゴーシャ(漢:馬鳴。弁才比丘)を送るように要求しました。アシュヴァゴーシャはその国の王に、諸国に仏道を広める道理を説き勧めました。その国の王は2つの宝をカニシカ王に与えることにし、アシュヴァゴーシャは、カニシカ王の手厚い待遇を受け、大臣マータラ(漢:摩吒羅)、医師チャラカ(漢:遮羅迦)と並んで「三智人」とされ、カニシカ王の「親友」となり、精神的な師となったと伝えられます。

                          

上図:50  カニシュカ1世 金貨(スタテール)   出典:平山邦夫シルクロード美術館

  仏教を手厚く保護したクシャン朝のカニシカ1世が発行した金貨 (他にも同種の収蔵品あり)。表の面は拝火壇とカニシカ王が表される。裏面には大きなマントを広げて走る有翼の風神(アネモスと銘記)が表されている。この風神の図像は古代ギリシアに端を発し、ガンダーラ、中央アジア、中国から日本まで姿を変えながら伝播した。

 

上図:51   パーンチカ坐像    2~3世紀   パキスタン・ガンダーラ  ターカール出土 片岩 
高151cm    パキスタン・ラホール博物館   
出典:世界美術大全集・3

 

 上図:52   釈迦菩薩坐像  2~3世紀  パキスタン・ガンダーラ  サリ・バロール出土 片岩高69cm  パキスタン ペシャワール博物館     出典:世界美術大全集・3

 

上図:53 スワット谷から見たスレイマン山脈アレクサンドロス大王が越えた山脈。

 「前4世紀後半、アレクサンドロス大王が東方遠征の際にインダス川流域に達した。インドの統一国家出現の大きな契機となっアレクサンドロス大王の東方遠征によってペルシア帝国が滅亡した。大王はさらに東進し紀元前327年、現在のアフガニスタンからインダス川流域に到達した。アレクサンドロス大王はインダス川流域地方の小国を次々と征服した。さらにインダスを越えてインド内部に侵攻する勢いであったが、部下の将兵は戦いに疲れ、マケドニアに戻ることを主張したので、大王も引き返す事となる」

下図:54 インダス川のスワット地方(紀元前327年アレクサンドロス大王が到達したインダス川)及びこの地域の説明図

上図:55  ナンガバルバット・西面 

 「ナンガ・パルバット」はウルドゥー語で「裸の山」の意味で、その周囲に高い山がないことに由来する。nangaとは、サンスクリット語でnaked、bareの意である。南側のルパール壁は標高差4800 mと世界最大の標高差を誇り、また屈指の登攀難壁である(初登攀はラインホルト・メスナーとギュンター・メスナー)。西側のディアミール壁も困難な壁である。南西稜は「マゼノリッジ」と呼ばれ、13 kmの間に7000 m峰を6つ、6000 m峰を2つ含むヒマラヤでも最大級の稜線となっている。ヘルマン・ブールが1953年7月3日に初登頂するまでにドイツ隊が何度も挑み、多くの遭難者を出したことから「人喰い山」と恐れられた。

下図:56   ナンガバルバット基部のインダス川支流帯、この下流に「チラスの岩絵」がある。

上はヒマラヤ山脈最西端に位置するナンガバルバット峰(8126m)です。2000㎞に及ぶヒマラヤ山脈は此の地で終わります。「チラス」は此処の下流50Km程の処に有ります。此の地を境に右側の山域は「ヒマラヤ山脈」・左側は「スレイマン山脈」「ヒンズークシュ山脈」です。「チラス」は山脈の境界,詰まりプレートの衝突現場事と云う訳です、此処に先史時代からの岩絵が在る事にドラマを感じます。「ヒンドゥー・クシュ」は「インド人殺し」の意味のペルシャ語だそうで。ペルシャで奴隷とされていたインド人が、ヒンドゥー・クシュを越えて脱出を図るも、山が険しく、脱出が叶わず悲劇に至る事が語源だそうです。

 

  下図:57・58  チラスの岩絵


 インダス川沿いに走る道の歴史は紀元前5000年からと言われます、「チラスの岩絵」とこの道の関係は考古学者のKarl Jettmar関連の文に、次の様に有ります。「20,000以上の壁画やペトログリフ(ペトログリフ(英語:petroglyph)とは、象徴となる岩石や洞窟内部の壁面に、意匠、文字が刻まれた彫刻のこと。 ギリシア語で石を意味するペトログリフ(彫刻)の造語である。 日本語では線刻(画・文字)と呼ばれたり、岩面彫刻、岩石線画、岩面陰刻と訳される。)がパキスタンのギルギット・バルティスタン州(旧称:北方地域)を通るカラコルム・ハイウェイ周辺に存在する。これらはフンザとシャティアル(英: Shatial)との間にある主要な10カ所に集中している。彫刻は様々な侵入者、商人、巡礼者により持ち去られ、また破壊された。もっとも初期のものは紀元前5000年から1000年にさかのぼる。これらには動物や3人の男、そして狩猟者たちが自分より大きな動物を狩っている様子が描かれている。これらの彫刻は石器で岩に掘られており、経過年数を表す厚い緑青に覆われている。考古学者のKarl Jettmarはさまざまな碑文から読み取られる歴史をつなぎ合わせ、その発見をRockcarvings and Inscriptions in the Northern Areas of PakistanとBetween Gandhara and the Silk Roads - Rock carvings Along the Kara」koram Highwayに記録した。」

下図:59  チラス有史以前の遺跡   スワット美術館蔵    撮影:白岩吉明    

 

上図:60    弥勒菩薩 坐像   2~3世紀  パキスタン・ガンダーラ  サリ・バロール出土 片岩 高88cn    パキスタン・ペシャワール博物館蔵   出典:世界美術大全集・3

 

下図:61    釈迦如来 立像  1~2世紀  パキスタン・ガンダーラ  マーマーネ・デリー出土片岩  高92.7cm    パキスタン・ペシャワール博物館   出典:世界美術大全集・3

上図:62  仏教美術の誕生と伝搬図       作図:白岩吉明

下図:63  アレキサンダー大王の東方遠征図  

 

上図:64  古代文明の推移 

下図:65  内陸アジア美術と大乗仏教美術遺跡の時代推移    作図:白岩吉明

 

 上図:66  持盃男子像  パキスタン・スワート北部・マッタ(ガンダーラ)  石膏  高33cm 2~3世紀解説抜粋:イラン風の容貌をした男子像で、フリギア帽をかぶり、右手に盃を執る。ガンダーラでは、釈尊の生涯を描いた仏伝の高浮彫の中に、クシャーン族やイランの供養者が数多く表現された。本像は、クシャーン族の供養者かパルティア時代のイラン系貴族を表したものであろう。この像はおそらくヘレニズム美術における戦の神であるアレースを原型としたものであろう。  出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

上図:67    浮彫仏伝「勉学」図  パキスタン ガンダーラ  片岩 2~3世紀  高25cm  巾22cm    解説抜粋:シッダールタ太子(青年時代の釈尊)は、出家するまでの29年間を王城で過ごし、学問や武術に精進したという。此の浮彫では、椅子に座って石板を膝の上に載せ、勉学に励む太子の姿が、学友や待童とともに表されている。太子の後頭にはすでに頭光が付き、神聖な存在であることが明示されている。太子の背後の人物が手にする石板の表面には、カロ―シュティー文字(古代の西北インドなどで用いられた文字)が見える。    出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

上図:68   執金剛神を従える仏陀   スワット美術館蔵   撮影:白岩吉明 

 上図は「SWAT MUSEUM」図録に「Buddha accompanied by Vajrapani」とあります。「執金剛神を従える仏陀」が訳で、執金剛神は金剛杵を執って仏法を守護する仏教の護法善神で、起源はギリシャ神話のヘラクレスと言われます。ヘラクレスは「獅子の毛皮を身に纏い、手に棍棒を持つ髯面の男」で、ガンダーラ美術では仏陀の脇役としてヘラクレスが配置されます。ちなみにギリシャ神話では、ヘラクレスは悪の力に対する人類の偉大な保護者です。この作品は仏教にヘレニズム文化(ギリシャ文化がオリエント各地 の文化と融合して生まれた文化)が色濃く残る貴重な作品です。仏教はこの作品より500年以上前に、此の地の東方1800Kmで生まれまれました。当初仏教では仏陀を人間の姿を表すことは禁じられてました。その教えが此の地に至り、ヘレニズム文化と融合しビジュアル化し、ガンダーラ文化として開花しました。此のビジュアル化は以後の仏教伝搬に大いに役立ったようです。上記の執金剛は中国・日本では「忿怒相で身体を甲冑で固めた武神」で紹介され、日本では奈良・東大寺の三月堂の塑像(国宝)で親しまれ、更に京都・金剛院の木造は快慶の手による鎌倉時代の作品となってます。

 

 上図:69   釈迦如来坐像  1~2世紀  パキスタン・ガンダーラ出土 片岩高52㎝  ベルリン、インド美術館蔵     出典:世界美術大全集・3

 

下図:70   釈迦菩薩坐像  2~3世紀  パキスタン・ガンダーラ  サリ・バロール出土  片岩
高69cm   パキスタン ペシャワール博物館蔵   
出典:世界美術大全集・3

 

上図:71   古代美術・大乗仏教美術の発祥地    制作:白岩吉明

 

上図:72   浮彫仏伝「仏誕」図  パキスタン スワート南部(ガンダーラ) 片岩 高22cm  巾58.5cm厚9cm  2~3世紀  アルフレード・フーシェ探検隊 1895-97年   解説抜粋:ガンダーラ美術では、ストーパ(仏塔)の壁面などに釈迦の伝記すなわち仏伝を浮彫することが頻繁に行われ、釈迦の生涯の主要な事跡が様々なかたちで表現された。此の浮彫では、向かって右半分に、釈迦がルンビニー園でマーヤー婦人の右脇下から生まれたという、仏誕の場面が表現されている。左半分には、中央に、未来の仏陀である弥勒菩薩の坐像がひときわ大きく表され、右半分の仏誕の情景と対をなしている。出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

上図:73    釈迦如来坐像  2~3世紀 パキスタン・ガンダーラサリ・バロール出土 片岩 高75cm  パキスタン・ペシャワール博物館蔵   出典:世界美術大全集・3

 

上図:74・75・76   タキシラ・ジュリアン僧院   タキシラまたはタクシラは、パキスタン・パンジャーブ州にあるガンダーラ時代に始まる遺構で、その歴史は紀元前6世紀まで遡ることが可能であり、六派哲学の一つであるヴェーダーンタ学派、また、インドの仏教の中心の役割を果たしてきた。1980年にユネスコの世界遺産に登録された。タキシラは歴史的に3つの重要な交易路が交差する場所に位置していた。1つはマガダ国の首都パータリプトラから続く道であり、1つがバクトリアやペシャーワルといった北西から続く道、最後の1つがシュリーナガル、マーンセヘラー、 ハリープル渓谷を経由してシルクロードへとつながる道である。タキシラは、パキスタンの首都イスラマバードの西、もしくはラーワルピンディーから北西にそれぞれ約35kmの、グランドトランク・ロードから少し外れた場所にある。
歴史
伝説上では、タクシャシラという王国がタキシラを中心とする地域を支配したとされる。サンスクリットでは、タクシャシラとは、タクシャ王に所属する土地を意味する。タクシャは、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するバラタの子供とされる。また、インドを代表するもう1つの叙事詩『マハーバーラタ』では、クル王国の戴冠がタキシラで行われたと伝えられている。
タキシラの始まりは、アケメネス朝における一州として出発している。時代としては、ダレイオス1世の時代とされているがアケメネス朝によるタキシラの支配は長いものではなかった。また、パンジャーブ州には考古学上、アケメネス朝時代の遺構は残されていない。 紀元前518年にアケメネス朝の支配が始まったとされる。 ダモーダル・ダルマーナンド・コーサンビーの説によれば、タキシラとは「大工」を意味する「タクシャカ」という言葉と関わりがあり、この「タクシャカ」はナーガ族の別称であった。紀元前326年、アケメネス朝を征服したアレクサンドロス大王がヒンドゥークシュ山脈を越え、インダス川流域に侵入した。当時のパンジャーブ地方は小王国が乱立していた状態であり、タキシラを支配していたアーンビ(英語版)(ヒンディー語: Ambhi、古代ギリシア語: Taxiles)は、アレクサンドロスに加勢した。その結果、アレクサンドロスは、パウラヴァ(Paurava)の王で政敵ポロスを撃破することに成功した。その後、アレクサンドロスは、将軍エウダモスを派遣しサトラップとして派遣していたペイトンをインドから引き上げさせた。紀元前321年、チャンドラグプタが現在のパンジャーブ地方を含む北西インドの征服に着手を開始した。その後、チャンドラグプタは、マウリヤ朝を建国するにいたった。タキシラを含むパンジャーブ地方は、マウリヤ朝の支配下に入った。チャンドラグプタの孫であるアショーカ王の時代には、タキシラは仏教の中心地となった。とはいえ、必ずしもタキシラ自体は、マウリヤ朝に完全に服従していたというわけでもなく、たびたびマウリヤ朝に対しての反乱が起きた。

 



下図5点:77.78.79.80.81    ペシャワールにて 

                                        カニシカ王以前のペシャーワル
ペシャーワルは、カイバル峠からわずか50kmという地理的条件から古代より多くの民族の支配を受けてきた歴史を持つ。紀元前6世紀にはガンダーラの王国の支配を受けた。また、ハラッパーを中心とするインダス文明やバクトリア地方とを結ぶ結節点の役割を果たしてきた。歴史学者のTertius Chandlerによると、紀元前100年ごろには、ペシャーワルの町には12万人の人口を誇り当時では世界で7番目に大きな都市であったという。ヴェーダの文献に従うとプシュカラヴァーティと呼ばれる町が『ラーマーヤナ』の時代にあったとされる。しかし、この町の存在自体は考古学の研究においては妥当ではないとされる。記録に残っている歴史では、ペシャーワルにおける最古の都市は、サンスクリットで「人間の都市」を意味するプルシャプラ(Purushapura)がクシャーナ朝によって建設されたことから始まる。クシャーナ朝以前のペシャーワルは、ハカーマニシュ朝、アレクサンドロス3世の大帝国の支配を受けていたと考えられている。アレクサンドロス3世のディアドコイであるセレウコス1世はチャンドラグプタと争い、インドからの撤退を余儀なくされた。その後、ペシャーワルはマウリヤ朝の支配を受け、マウリヤ朝の時代に仏教が伝来した。ペシャーワルを含む地域は、グレコ・バクトリア王国の王en:Eucratides I(在位紀元前170年から159年)によって支配され、のちに、インド・グリーク朝へと発展を遂げた。インド・グリーク朝は現在のパキスタンから北インド一体を支配するにいたった。その後も中央アジアから多くの民族(パルティア、イラン系諸民族)がペシャーワルに侵入した。その中で、最も有名なのが、インド・パルティア王国を建国したとされるゴンドファルネスである。彼は、紀元前46年にペシャーワルへの侵攻を開始した。

 

 

 

上図:82   東大仏仏龕天井構図描き起こし図   アフガニスタン、バーミアン洲 (名古屋大学報告書に基ずく)                                                                 82・83出典:世界美術大全集・3

下図:83   弥勒菩薩坐像   7世紀   アフガニスタン、バーミアン洲  E洞仏龕頂上壁  

 

 

上図:84   バッカス(ディオニュソス)頭部  3~4世紀  パキスタン・ガンダーラ出土 ストゥッコ高21cm    ニューデリー・国立博物館蔵 

                                                                       84・85出典:世界美術大全集・3

下図:85   王侯頭部   クシャン朝(2~3世紀)  パキスタン・伝ガンダーラ出土  テラコッタ

上図:86   浮彫如来坐像   ガンダーラ  ストッッコ彩色  高51.5㎝  巾53.5cm  3~4世紀  解説抜粋:通肩に衣をまとい、禅定印を結び、円形の頭光を負って、方形台座上に坐する。三葉形の龕は、4弁の花文と草文様で飾られ、上部のアーチ形の両端にはガルーダの頭部が表せる。             出典:シルクロード大美術展・東京国立博物館・1996年

 

上図:87    焔肩仏坐像   クシャン朝(3~4世紀)  アフガニスタン・ショトラク出土  片岩  高59.8cm     カブール博物館蔵 

下図:88    舎衛城の双神変図(仏伝浮彫)   (2~3世紀)  アフガニスタン・バイターブァ出土 片岩  高81cm   パリ・国立ギメ東洋美術館蔵

88・89出典:世界美術大全集・3

 

                    「ガンダーラ物語」  コンセプト 

 

上図は「ガンダーラ」が「陸のシルクロード」と「海のシルクロード」をつなぐ「インダス川」中域にある事を示し、東西交易の繁栄の中で、「ガンダーラ」と言うイノベーションが誕生した事を示します。然し、395年のローマ帝国の滅亡と共に、「ガンダーラ」育て上げた「クシャーナ朝」は衰退し、ガンダーラ文化も此の地からやがて消えます。

 ガンダーラ美術は1世紀頃から5世紀頃にかけて、クシャーナ朝時代のインドの西北、ガンダーラ地方とタキシラで開花した仏教美術。本来仏教は偶像崇拝ではないので、ブッダを彫像で表すことはなかった。ところが、クシャーナ朝は
イラン系の民族が造った王朝であり、バクトリアから起こった国であったのでヘレニズムの影響を受け、ギリシア彫刻を模して仏像を造るようになった。ガンダーラ仏はギリシア彫刻の影響を受けているが、4世紀のグプタ朝時代になると次第にヘレニズムの影響を脱して、インド独自の様式であるグプタ様式が成立する。ガンダーラで作られた菩薩像は、その風貌、髪型にギリシア的なものが強く残り、衣文もギリシア彫刻のように動的である。一方仏像彫刻の起源に関する異説もある、仏像彫刻はガンダーラにおいて、ヘレニズム(ギリシア彫刻)の影響を受けて始まったという説は現在も有力であるが、一方で、仏像彫刻の発生をクシャーナ朝とローマ帝国の交易を背景としたローマ美術の影響であるとする説も有力であり、現在も論争が続いている。また、仏像彫刻の発祥の地をガンダーラではなく、インド独自にマトゥーラで生まれたとする有力な説もある。<高田修『仏像の誕生』岩波新書 1987>抜粋

 

                   

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負ってません。この問題は最終章「黙示録」で考察してます。内陸アジアには持続可能な社会の雛型が有史前から連綿と続いています。
 

 
 
初心者ホームページ作成