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   古代シルクロード美術の源流

 

 アジャンタ石窟  スキタイ  バクトリア

 

          地獄絵・お化け・幽霊が無かった時代

 

        アジャンタ石窟の巻

 

                 画像出典:アジャンタ・石窟寺院と壁画:平凡社刊:1971年刊

上図:1  蓮華手(観音)菩薩(1)  部分  第1窟  後廊左部    解説抜粋:有名な「美しい菩薩」の図で、彩色も比較的よく残り。素晴らしい宝冠を戴くが装身具は割合簡素で、右手に青い蓮華を持ち、身体を三曲させたいわゆるトリバンガのポーズをとって立つ。あらい縞目ののある腰衣をまとうだけの裸で、美しい均整のとれた、しかし肩幅広く腕も太い堂々たる身体つきである。やや俯き加減の顔容は、大きい波形の連眉、切れ長の眼、ハイライトで強調された鼻筋、引き締まった口元など、みな穏やかで気高く且つ理知的な輝きを込めており、胸前に上げて蓮華の茎を持つ右手の表情に富んだ魅力的な形も特筆される。

上図はアジャンター石窟群の中で最も美しいと言われている壁画で、天井には他に菩薩や伝説を物語として表現した絵で覆われています。中でも上図の蓮の花を手に持っている「蓮華手菩薩」は仏教絵画の傑作とされていて、後に造られた仏教遺跡の壁画や他の国の仏教絵画の中にもアジャンター石窟の絵と似たようなポーズを見ることができます。そしてこの壁画は、日本が世界に誇る世界遺産「法隆寺」の壁画のモデルにもなりました。   https://skyticket.jp/guide/109619
 

上図:2  マハージャナカ本生 部分(3)   第1窟左廊   解説抜粋:青年マハージャナが国王の一人娘シーヴァリーに迎えられて国王となり、人々がこれを祝福して歌舞などを演じたという場面。  

 

上図:3  マハージャナカ本生 部分(5)   第1窟左廊   解説抜粋:上図2に続き、王が多くの宮女等に囲まれた中で王妃と熱心な議論に入っているらしい場面。

 

 上図:4  マハージャナカ本生 部分(6)   第1窟左廊   解説抜粋:上図3に続き、騎馬の王子を真ん中にして宮門を出て行く行列の図。

アジャンターの石窟寺院群は、紀元前2世紀前後には開窟されていました。2世紀にいったん放棄されますが、3~5世紀に大乗仏教が普及するに伴って、再度開窟されます。この時に彫刻や絵画が多く作成されました。しかし、ヒンドゥー教が発達すると、仏教は取り込まれて衰えていきます、やがて、グプタ朝によるヒンドゥー教の国教化によって、この石窟寺院群は7~8世紀頃に放棄されてしまい、密林の中に埋もれることとなりました。
 

  上図:5  三道宝階降下 部分(1)   第17窟 仏堂前室左壁   解説抜粋:像に乗る諸国の王とその軍隊の中、佛の天上からの降下と言う大奇跡に、驚異の眼を向ける表情豊かな顔・顔。

 

 上図:6  マハージャナカ本生 部分(4)   第1窟左廊   解説抜粋:男女多数を訪れた王が合掌して敬意を表している図。

 

 上図:7  飛天の群れ   第17窟 正面廊   解説抜粋:白っぽい姿の主神はおそらく神々の王インドラ(帝釈天)であろう。男女の楽神を数人従え、空中を飛翔しながら散花供養するところを表している。宝冠を戴く主神は身体を斜めにして飛び、首飾りも瓔珞も衣もみな彼方になびいて飛翔の速度感を示しており、その周りにはそれぞれ違った楽器を奏でる男女の飛天が、空中を遊泳する。

 

 上図:8  ヴィドゥラ賢者本生  部分(3)   第2窟 右廊   解説抜粋:龍女は美しく身を飾り、ダンスしたり歌ったりしながら、夫としてふさわしいものの出現するのを待つ。壁画ではこの場面をブランコに乗る龍女として描いている。

特にアジャンターの壁画は、純インド的な仏教美術の完成された段階のもので、グプタ朝での仏教の隆盛を伝えている。仏教はこのころ中国との交流も盛んになり、グプタ様式の仏像彫刻は中央アジアのバーミヤンなどを経て、北魏の雲崗の石窟寺院にも影響を与えた。また、6世紀には仏教は日本に伝えられ、仏教美術は飛鳥時代の法隆寺金堂の壁画にグプタ様式の影響を見ることができる。
                          https://www.y-history.net/appendix/wh0201-077.html

 

 上図:9  マハージャナカ本生(7)  部分(3)   第1窟後廊左部   解説抜粋:状座の上に安坐する髪を振りほどいた高貴な男性に、大きい水壺で潅水している情景であり、その右に女性が侍立してそれぞれ盤(装身具を載せる)・宝冠・払子を持っている。王宮内の生活の一場面。

 

 上図:10  三道宝階降下  部分(3)   第17窟   仏堂前室左壁   解説抜粋:はある年の雨季3ヶ月間を、説法のために地上に降下し、そこに出迎えた諸国の王以下多数の人々に説法をしたと伝える。図はその降下地サーンカーシュヤで、諸国の佛弟子(本図)に説法をした。

 

 上図:11    王の行列   第17窟  正面廊   解説抜粋:城門の方に進む王の行列に続く王妃の一行の図。

アジャンター石窟群の壮大さは、当時の王の力を物語っている。紀元前2世紀から1世紀のものもあるが、多くは紀元5世紀半ばにインド中央部を広く支配したヴァーカータカ朝のハリシェーナ王の時代に造られ、一時期は数百人の僧侶が洞窟で生活していたという。

 

 上図:12  三道宝階降下  部分(2)   第17窟   仏堂前室左壁   解説抜粋:はある年の雨季3ヶ月間を、説法のために地上に降下し、そこに出迎えた諸国の王以下多数の人々に説法をしたと伝える。図はその降下地サーンカーシュヤで、諸国の王(本図)に説法をした。

 

上図:13  下図:14 インドの主要な王朝の多くは、地球史上最大級の火山噴火によって広く玄武岩に覆われたデカン高原で誕生した。岩肌に彫られた彫刻や碑文は、初期インド社会に関する最も優れた記録の一つだ。古代の町アジャンター近郊には、暗色の玄武岩をくり抜いた石窟が30ほど点在している。絵画、柱、彫像で飾られた思いのほか壮麗な外観は、ヨルダンのペトラ神殿やイタリア、ポンペイのフレスコ画を想起させる。アジャンター石窟群の壮大さは、当時の王の力を物語っている。紀元前2世紀から1世紀のものもあるが、多くは紀元5世紀半ばにインド中央部を広く支配したヴァーカータカ朝のハシェーナ王の時代に造られ、一時期は数百人の僧侶が洞窟で生活していたという。

            https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/stories/22/051400033/

 

 上図:15  ヴィシュヴァンタラ本生  部分(1)   第17窟 左廊   解説抜粋:王子ヴィシュヴァンタラは、慈悲深くしばしば布施を行って貧窮者を救い人望が高かった、図は、30篇ほどある王子の物語の中の、王子と王子にかしずく侍女。

 

 上図:16  ヴィドゥラ賢者本生  部分(4)   第2窟 右廊   解説抜粋:ヴィドゥラはクルKuru國の王ダナンジャヤに仕える賢明な且つ有徳の誉れ高い大臣であった・・・・訳あり、王は娘にヴィドゥラ賢者の心臓を取って来る様に頼む、図はその物語の1場面だ。

 

 上図:17  シンハラ物語  部分(2)   第17窟 右廊   解説抜粋:商人の頭の子シンハラが率いる商船隊が難破し羅刹島に漂着し、そこの美女に化けた鬼女にたぶらかされ、子をなし、その後、美女に化けた羅刹島の鬼女が「一夜国王以下宮内の人間を全部食い殺してしまう」。之に反攻し「国王となったシンハラは像軍を主力とする軍隊で渡海攻撃し勝利する」長編物語の一場面。

 

 上図:18   ヴィシュヴァンタラ本生  部分(2)   第17窟 左廊     解説抜粋:ヴィシュヴァンタラ王子は、慈悲深くしばしば布施を行って貧窮者に人望が高かった。ある時、国の宝とする大像を毘沙門の乞うままに与えたことから、国外に追放されることになる。図は、王宮から追放され出て行く王子ら一行の馬車の前に集まった毘沙門の一行の部分図。

 

下図:19  蓮華手(観音)菩薩(2)  部分  第1窟 後廊右部   解説抜粋:宝冠は黄金製らしくきわめて豪華な作りに成り、上体を傾けた宝珠髪や腕の飾りも見事である。三屈法のポーズをとり、雄偉で男性的で迫力に富む。その顔容もきついまなざし、厚い下唇で特徴ずけられ、彩色とあいまってはなはだ威厳がある。この菩薩は、その手に蓮華を持っていて、蓮華菩薩に違いない。また宝冠に化佛らしいものも描かれている以上、観音と見なせる。

 アジャンター石窟群は仏教美術を代表すると言っても過言でない、精密な壁画や精巧な彫刻が残されている世界遺産です。ワーグラー川に沿うように全部で30以上にも及ぶ石窟が彫られていて、何世紀もの時間をかけて造られていったことから、アジャンター石窟寺院からは仏教美術の変化や移り変わりなども読み取ることができるでしょう。

 

 

 

 

           スキタイの巻

 

出典:1:Central Asian Art  the Museum of Indian Art    Berlin,SMPK

        2:GRAND EXHIBITION OF SILKROAD BUDDHIST ART

        3:世界美術大全集:小学館:1999年刊行

                                 

 上図:1  豹形飾り板  スキタイ(前7世紀末~前6世紀初) ロシア、クラスノダル ケレルメス1号墳出土  金・琥珀・練りガラス  長32.6cm 巾6.2cm  サンクトペテルブルグ・エミルタージュ美術館

下図:2  義兄弟盟約文飾り板  スキタイ(前4世紀後半)  ウクライナ、ケルチ  クル・オパ古墳出土  金  長5,0cm 巾3,7cm  サンクト・ペテルブルグ・エミルタージュ美術館   

  

 上図:3  王権神授を表した壁掛  スキタイ・シベリア(前5世紀末~前4世紀初)  ロシア、アルタイ  バジクリ5号墳出土  フェルト:全体450×650cm  サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

上図:4   石人像  スキタイ(前5~前4世紀)  ノヴォヴァシリエフカ9号墳出土  石  高195cm ペレヤスラフ・フメルニツキー、ウクライナ民族美術館

 

 上図:5   有角有翼馬形帽子飾り  サカ(前4世紀末~前3世紀初)  カザフスタン、イッシク古墳出土  金  高10cm 巾17,5cm    カザフスタン歴史・考古学・民族学研究所

スキタイ文化の動物意匠金属器。 騎馬遊牧民であるスキタイ人の文化は、騎馬の技術、馬具、武器に施された動物紋などが特徴である。紀元前1000年紀に中央ユーラシアに広く影響を与えた。前7世紀~前6世紀のスキタイ人の首長を埋葬した墳墓(クルガン)が発掘され、おびただしい金製品が発見された。特に多くの枝に分かれた角を持つうずくまった鹿や豹や、さまざまな姿勢で戦う猛獣を組み合わせた、「動物意匠」と言われる形態をとる金や青銅の製品は、スキタイ文化の高度な到達度を示してる 。                           https://www.y-history.net/appendix/wh0401-005.html

下図:6   鹿形飾り板  スキタイ(前7世紀末~前6世紀初)  ロシア、クラスノダル地区コストロムスカヤ1古墳出土  金  高31cm 巾19cm    サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

 

上図:7   獅子文胸繋  スキタイ・シベリア(前4世紀初)  ロシア、アルタイ、パジリク5号墳出土, 亜麻織物、フェルト、毛皮、金箔、錫  全長80cm 巾7cm  サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

下図:8   ライオン浮彫り  アケメネス朝(前5世紀)  イラン、ペルセポリス  

 

上図:9   豹形飾り板  スキタイ(前8世紀)  ロシア、トゥヴァ、アルジャン古墳出土, 青銅 クィズィル、トゥヴァ国立博物館

下図:10   山羊を襲うグリフォンを表した鞍覆い  スキタイ・シベリア(前5世紀末~前4世紀初)  ロシア、アルタイ、パジリク1号墳出土, フェルト、毛皮、金  全長119cm 巾60cm  サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

 

上図:11   スキタイの日常生活と動物闘争文胸飾り  スキタイ(前4世紀中頃)  ウクライナ、ドニェプロペトロフスク、 トルスタヤ・モギーラ古墳出土 金 径30.6cm  キエフ、ウクライナ歴史宝物博物館

下図:12   スキタイ戦士文壺  スキタイ(前4世紀前半)  ウクライナ、ケルチ、クル・オパパジリク古墳出土,  高13cm  サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

 

紀元前8世紀から前3世紀ごろ、カフカス地方の北側、黒海北岸からカスピ海北岸のヴォルガ川までの草原地帯で活動した騎馬遊牧民で、スキタイ文化と言われる高度な金属文化をもっていた。彼らの文化は草原の道(ステップ=ロード)を経て東方にも広がり、中央アジアのパミール高原の東西からモンゴル高原、中国北部にも及んでいる。その全盛期は前6~前5世紀ごろであった。ユーラシア大陸の騎馬民族として最初に登場する民族であり、スキタイ文化は西アジアのヒッタイトなどから鉄器の製造をまなび、それを東方に伝え、他の遊牧騎馬民族に大きな影響を与えた。スキタイはペルシア人からはサカ人と呼ばれていたが、言語的には同じイラン系民族に属すると考えられている。スキタイ人の存在はギリシアの歴史書にも現れ、ヘロドトスの『歴史』では詳しく記述されている。現在、南ロシア、ウクライナからクリミア半島にかけての黒海北岸から中央アジアにかけて、彼らの墳墓が多数発見されている。紀元後3世紀ごろに始まったゲルマン民族の活動の中で、東ゴート人が勃興し、よってスキタイは滅ぼされた。

                            https://www.y-history.net/appendix/wh0401-005.html          

 

 

上図:13   鹿を襲うライオンを表した短剣の鞘  アケメネス朝(前5世紀)  タジキスタン、タフティ・サンギーン出土 象牙 径27.7cm 巾11cm  ドゥシャンベ、タジキスタン科学アカデミー附属 Aダーニシュ記念歴史研究所

下図:14   短剣と鞘覆い  (1世紀後半)  ロシア、ロストフ、アゾフ、ダーチ1号墳出土  金、鉄、ザクロ石、紅玉髄、トルコ石  短剣:長36.5cm 鞘覆い:27cm   ロシア、ロストフ、アゾフ博物館 

上図:15   有角獣形頭飾  匈奴(前4世紀)  陜西省神木県納林高兎出土  金  高11.5cm  西安、陜西省博物館

下図:16    豹形飾り板  スキタイ   (前7世紀末~前6世紀初)  ピョートル・コレクション    金  長10.9cm  巾9.3cm    サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

 

上図:17    水鳥を襲う獅子グリフォンを表した馬面  スキタイ・シベリア   (前5世紀末)  ロシア、アルタイ、パジリク2号墳出土  角  長20.6cm     サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

下図:18   怪獣と闘う獣人と趺坐をかく人物文首輪  サマルタイ  (1世紀末~2世紀前半) ロシア、ロストフ、コビャコヴォ10号墳出土  金・トルコ石  径21cm  高5.5cm   ロシア、ロストフ博物館   

 

スキタイ人は、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国を結ぶ広大な貿易網であるシルクロードで重要な役割を果たし、おそらくこれらの文明の繁栄に貢献したとされる。定住していた金属加工職人はスキタイ人のために携帯用の装飾品を作り、スキタイの金属加工の歴史を形成していた。これらのオブジェは主金属製で残っており、スキタイ独特の芸術を形成している。

上図:19   スキタイ人物文壺  スキタイ   (前4世紀)  ウクライナ、ヴォロネジ、チャスティエ3号墳出土  銀  鍍金  高9cm     サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

下図:20   動物文首輪  サマルタイ  (1世紀) ロシア、ロストフ、ホフラチ古墳出土  金・トルコ石 ・サンゴ・ガラス  径17.8cm  高6.3cm   サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

 

 

上図:21   聖樹と有翼神・動物文の剣と鞘覆い  スキタイ   (前7世紀末期)  ロシア、クラスノダル地区ケレルメス1号墳出土  金・鉄  長47cm   サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

下図:22   動物闘争文帯飾り板  スキタイ・シベリア  (前4世紀~前3世紀) ピョートル・コレクション  金、トルコ石、サンゴ  長19.5cm  巾13.3cm   サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

紀元前7世紀、遊牧騎馬戦士として恐れられたキンメリア人を駆逐して一気に歴史の舞台へ駆け上ったスキタイ人。とはいえ、文字を持たない彼らの実像は、ヘロドトスらギリシャ人の書き残した資料で知る以外、多くが謎に包まれたままでした。しかしスキタイ人は、豪華な金製品が出土することから「草原の
ピラミッド」とも呼ばれる古墳を、黒海北岸、現在のウクライナに数多く残しました。この古墳から出土する副葬品は、高い美意識によって完成された
スキタイ独特の造型感覚にあふれ、美しいだけではなく、スキタイ人の神話や生活など、さまざまな情景が描かれていることから、スキタイ人の謎を解き明かす貴重な資料にもなっています。

               http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3nd_tenjiannai_11tokubetsu005.htm                 

 

上図:23   アンフォラ形リュトン  スキタイ (前4世紀末)  ウクライナ、二コボル、チェルトムリスク古墳出土 銀 鍍金  高70cm  径40cm    サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

下図:24   グリフォン頭部形竿頭飾  スキタイ (前6世紀末~前5世紀初)   ロシア、アディゲヤ、ウルスキー・アウル2号墳出土  青銅  径26cm   サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館


下図26    アキレウスの生涯を表したゴリュトス覆い  スキタイ (前4世紀末)  ウクライナ、二コボル、チェルトムリク古墳出土  金  高46.8cm   サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

 

 

 

                  

             バクトリアの巻

 

グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃 - 紀元前130年頃)は、ヒンドゥークシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バルフを中心として建てられたギリシア人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つ。グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂した。名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシア人のバクトリアという意味で、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれるが、地方としてのバクトリアと混同しないよう、ここではグレコ・バクトリアとする。

上図:1     アフロディテ女神立像  前2世紀  トルクメ二スタン、旧二サ出土  大理石  高60cmアシュハバード、  トルクメ二スタン国立歴史博物館

下図:2    女神坐像   バクトリア青銅器文化 (前2000~1800年頃)  アフガニスタン北部出土、クロライト 石灰岩  高12.4cm   滋賀県、MIHO MUSEUM

 

上図:3     王侯頭部   グレコ・バクトリア(前3~前2世紀)  タイキスタン、タフティ・サンギーン出土 粘土 高16cm     ドゥシャンベ、 タジキスタン科学アカデミー附属A,ダーニシュ記念歴史研究所

下図:4    メルクリウス分銅   1~2世紀   アフガニスタン、べグラム出土  青銅  高8.4cm     パリ、国立ギメ東洋美術館
 

中央アジア、現在のアフガニスタン北部のアムダリア川上流域をバクトリア地方という。アケメネス朝ペルシアの領土であったが、前3世紀、アレクサンドロスが征服し、バクトリア王国を建設、ギリシア人を入植させた。ヘレニズム諸国の一つとしてのバクトリア王国のもとでギリシア文明とイラン文明の融合が進み、インドからの仏教も受け入れた。前139年にスキタイ系遊牧民トハラ人によって滅ぼされ、その後バクトリアにはイラン系大月氏国の支配が及んだ。
バクトリアはもともとは地域名であり、アムダリア川上流、ヒンドゥークシュ山脈の北側に広がる盆地をさす。現在のアフガニスタン北部にあたり、その北に隣接するソグディアナとともに東西と南北の交易路が交差する交易の中心地であった。前550年にイラン高原に成立したアケメネス朝ペルシア帝国がこの地に進出し、ソグディアナとともにその支配下に入った。

                                                          https://www.y-history.net/appendix/wh0101-121.html 

グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃 - 紀元前130年頃)は、ヒンドゥークシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バルフを中心として建てられたギリシア人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つ。グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂した。名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシア人のバクトリアという意味で、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれるが、地方としてのバクトリアと混同しないよう、ここではグレコ・バクトリアとする。

 

 

 

上図:5     ヘルメス柱像   グレコ・バクトリア(前2世紀)  アフガニスタン、 アイ・ハヌム出土  大理石、高77cm     カブール博物館

下図:6    王侯または兵士頭部   前2世紀   トルクメニスタン  旧二サ出土  粘土  高45cm  アシュハバード、  トルクメニスタン科学アカデミー
 

 

上図:7      王侯頭部   クシャン朝(2~3世紀)   ウズベキスタン、 ダリヴェルジン・テべ出土、  テラコッタ  高49.5cm     タシュケント・芸術科学研究所

下図:8     キュベレ女神像円盤   グレコ・バクトリア(前3~前2世紀)   アフガニスタン、 アイ・ハヌム出土  銀、鍍金  径25cm  カブール博物館

上図:9      アウロスを吹く楽人像   2~3世紀   ウズベキスタン、 アイルタム出土、  石灰岩  高40cm     サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

下図:10    女性立像  2世紀   トルクメニスタン、 旧ニサ出土  大理石  高51cm  アジュハバード、トルクメニスタン国立歴史博物館

 

ガンダーラへの進出 バクトリア王国は、前2世紀中ごろ(前155年)即位したメナンドロス王のもと最盛期となり、イラン高原のパルティアとは友好関係を保ち、インドのマウリヤ朝の衰退に乗じてインドの西北まで侵入した。これによって、ヘレニズム文化がインドに及び、ガンダーラ美術が生まれたとされてる。しかし、近年は、ガンダーラ美術はギリシア文化単独の影響ではなく、イラン文化やローマ文化の複合的な影響の下に生まれたと考えられるようになっている。

ヘレニズムとガンダーラ美術 アレクサンドロス大王の東方遠征を契機にギリシア文明がオリエント文明と「融合」してヘレニズム文明が生まれ、さらに北インドにもヘレニズムが広がり、ガンダーラ地方においてギリシア彫刻が採り入れられて仏像が作られるようになった、という理解は、現在においても大筋としては間違いではないが、前4世紀のアレクサンドロスの東征と、後1世紀後半からのガンダーラ美術の成立の時間差からして、両者の関係は直接的ではないことに注意しておこう。介在したのがギリシア人国家のバクトリアが、前1世紀に北西インドにも進出したことであった。それにともない、ヘレニズムとガンダーラ美術の関係についても見直しがされている。https://www.y-history.net/appendix/wh0201-062.html
                          

 

上図:11     牡牛の分銅   バクトリア青銅器文化(前2000~前1800年頃) アフガニスタン北部出土  鉛  高26  長32.4cm      滋賀県、MIHO  MUSEUM

下図:12    立ち飾りの冠  前1世紀後半~後1世紀前半   アフガニスタン、 シバルガン、 テリヤ・テべ6号墓出土   金、トルコ石  45x13cm   カブール博物館

 

上図:13    左:狩猟文椀  銀  10x10.8cm   右:幾何学文椀  銀  10.2x12cm   バクトリア青銅器文化(前2000~前1800年頃) アフガニスタン北部出土  滋賀県、MIHO  MUSEUM 

下図:14   農耕図椀(全体、展開図)  バクトリア青銅器文化(前2000~前1800年頃) アフガニスタン北部出土  銀  12.6x9.9cm  滋賀県、MIHO  MUSEUM  
  

上図:15   2頭の怪獣を押さえる英雄を表したこめかみ飾り (前1世紀後半~後1世紀前半) アフガニスタン、シバルガン、ティリヤ・テべ2号墓出土  金、トルコ石、ラピスラズリ、ザクロ石 (各)長12cm  巾6.5cm    カブール博物

下図:16   ヒッポカンポス様の剣鞘鐺(こじり)  グレコ・バクトリア(前2紀期)  タジキスタン、 タフティ・サンギーン出土  象牙  6.7x11.8cm    ドシャンベ、タジキスタン科学アカデミー附属A.ダーニッシュ記念歴史研究所  

 

上図:17   楽人像   2~3世紀  ウズベキスタン、 アイルタム出土  フリーズ浮彫リ、 石灰岩高40cm     サンクト・ペテルブルグ、エミルタージュ美術館

下図:18   舎利容器  1~2世紀  アフガニスタン、 ビーマラーン出土  金  ガーネット  象牙  6.7cm    ロンドン、大英博物館蔵  

 

上図:19    グレコバクトリアの通貨

商業  グレコ・バクトリアは商業と手工業の中心で、商業の発展は多数発見されたコインでうかがい知ることができる。その絶頂期にあたるのがデメトリオス1世(在位:前190年 - 前167年)の時代であり、当時のバクトリアには南はインド、東は中国、西はパルティア,エジプト,ローマの商人が集まり、各地のあらゆる商品が取り引きされた。また、当時から絹は西方文明地域の支配階級にとって不可欠な物資となっており、張騫が西域に至るより以前からもシルクロード交易が行われていたことになる。主に取り扱われる商品としては北方の皮革・毛織物,インドの香辛料,甘味料,金銀,宝石,貴石,ガラス,薬品,金属製品,象牙などであり、その商品は一旦バクトリアに集められ、取引された後に各地へ運ばれた。つまりバクトリアは中継市場として機能していたのである。同時代の世界貿易の中心地として、エジプトのアレキサンドリア、西北インドのサガーラが挙げられる。

 

下図:20    アーチの下の二人の女性像(部分)   1~2世紀   アフガニスタン、  べグラム出土  象牙  高34cm  パリ、国立ギメ東洋美術館

 

上図:21    パルティア人王侯頭部   クシャン朝(1世紀)  ウズベキスタン、  ハルチャヤン出土   粘土  高23cm    タシケント、  ウズベキスタン国立近代美術館

下図:22    釈迦如来坐像   2~4世紀   ウズベキスタン、  ファヤーズ・テべ出土  石灰岩  高72cm  タシュケント、 ウズベキスタン歴史博物館

 

      古代シルクロード美術の源流   コンセプト

 

  ①  BC1:インド・デカン高原で「仏陀の物語」をビジュアル化した「アジャンタ石窟」 

  ②  BC8AC3:中央アジア草原遊牧民=スキタイの金属工芸技術 

  ③  BC5AC2:バクトリアとギリシャ文明の影響を受けたグレコバクトリアの美術

              ①②③を此処では紹介しています

 

  ④  ①②③はやがて「大乗仏教」を思想的根拠とした「ガンダーラ文化」を生みます。

「大乗」の思想は「誰でもが参加出来る」で、この地域で之を実現します。美術ばかでは無く、「大乗」の思想的のエネルギーは地域の広域経済圏を構築し、この地域に「グローバリズム」を生みます。社会構造は王政・奴隷制のままながら、この地域に知識・人・物の流動性と経済発展をもたらし、其れを象徴する美術が、今日私達が目にする「シルクロード美術」です。シルクロード美術の東の終着地は漢の「長安」です。

  ⑤  「大乗仏教」「ガンダーラ文化」を求め漢の皇帝は使者を送ります「仏教経典が伝えられたのは3世紀の西晋  時代」です。

  ⑥  「古代シルクロード」は①②③④⑤の経緯から出来た交易ルートかと思います。

 

 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負ってません。この問題は最終章「黙示録」で考察してます。内陸アジアには持続可能な社会の雛型が有史前から連綿と続いています。
 

 
 
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