白岩吉明オフィシャルサイト、山岳写真ネットギャラリー、「内陸アジアの貌・フンザ物語・横断山脈・ウイグルの瞳」「エヴェレスト街道」「チベットのヒマラヤ」「ランタン谷」「黙示録」「

 

 
 
 
 
 

 

                             内陸アジアのルネッサンス:1

 

                                                            西欧より千年早い美の創造

                古代シルクロード物語

 

                    地獄絵・幽霊が無かったころ

                                                   女性美で仏を表現し時代

上図:1 菩薩立像(部分) 隋(581~618年) 莫高窟:第416窟 西壁内南側  解説抜粋:宝冠・胸飾・天衣など装身具は比較的簡単で全体に塑造の特徴が発揮された柔らかなモデリングだ。右手に持つのは払手(ほっす)のようだ。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(二巻) 1981年:平凡社刊   画像No:29  解説:P 242

 

上図:2   仏説法図右脇侍菩薩(部分)  莫高窟第57窟  南壁中央  初唐(618~712年)  解説抜粋:この図は、保存の優れていること、その姿の優美なことでまきとに出色の出来を示す。菩薩は宝冠・胸飾・耳環・腕釧などの装身具によって美しく飾られ、薄物の裙を長く垂れて。身体の重心をやや右足にかけ、頭をかしげて腰を曲げた軽い三曲法の姿勢で蓮華座上にたつ。・・・・肘を屈した右手は掌を返して連珠の神線をとり、しなやかに曲げた指はいとも優雅である。肉身は淡く肌色に彩色し、わずかに伏目になった目蓋と頬・頤には、うっすらと紅を差し、透き通るような肌を表現している。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(巻) 1981年:平凡社刊   画像No:13  解説:P 244

 

上図:3 神と乾闥婆 GOTT UND GANDHARVA.

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「 Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien 」中央アジアの仏教古代後期 vol. :P 0012  1922年刊

別称:ガングルヴァ立像) 6~7世紀  キジル石窟第13窟出土  (ベルリン国立美術館・蔵) 左は全身白色系で、王子の宝冠をかぶる裸体の天神、右は全身黒色系で、王女の王冠をかぶり、チョッキ風の胴着ツートン・カラーの裳をつけ、美しく着飾ったガンダルヴァが描かれている。天界の調べが響き渡り、香り豊かな天界の生気が充満しているように感じる。    緑色部解説: 「飛天の道」:P61 吉永邦治著 2000年刊:小学館刊       

(追記:上記壁画には、縦横に多数の 、ほぼまっすぐな「傷」がある。これは、ルコック隊が、壁画を漆喰ごと乱暴に剥ぎとって、ドイツに持ち帰ったときの傷で文化財に対する当時の姿勢が伺える。ル・コックは現地で採取した360kg以上にのぼるフレスコ画・像ほかの文化財をのこぎりで切りとって305箱に詰めてベルリンまで運んだ。彼は之を、貸し出しと称し、この「貸し出し」について、探検当時のトルキスタンの紛争によるものとル・コックは正当化している。文化財の一部はプリンツ・アルブレヒト通りの民族学博物館で1944年まで展示されていたが、ベルリン大空襲によって重大な損壊を被った。上図も現存していないと思う。ここの画像は、ルコックの1922年の著作からの物。)

 

図:4 菩薩胸像 クムトラ石窟 7~8世紀 クチャ (ペリオ探検隊:1906~09) 解説抜粋:クムトラ石窟から将来された菩薩像。クムトラ石窟は、華麗な壁画の数々で知られているが、現存する彫刻遺品は少なく、本像はその貴重な一つに数えられる。藁などが混じるやや粗い土で成形されたためか損傷部分が多いものの表面には当初の彩色がよく残っている。

出典:シルクロード大美術展 1996年:東京国立博物館  発行・読売新聞社  画像No:101/
p98

 

上図:5 菩薩半跏像(部分) 晩唐(848~907年) 莫高窟196窟 須弥壇北側  解説抜粋:丸彫りの技法も一段と発展を遂げている。唐代後期の彩塑で今日まで保存されたものは甚だ少ないが堂々として落ち着いたたたずまいで遊戯坐するこの菩薩像は、彫塑としても充実したモデリングを示し、白く艶やかな肉身の賦彩とあいまって、晩唐期の彩塑の代表作とするに恥じない。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(巻) 1981年:平凡社刊   画像No:182  解説:P 273

 

 上図:6  菩薩上半身像 7~8世紀 ショルチュク  解説抜粋:上半身裸形で、そこに多くの装飾品を着けているので菩薩像として間違いないだろう。頭髪正面中央にアーモンド型の髪をあらわし、その上に髪飾りを付け、垂髪は捻じれながら垂れ、肩でカールして懸かっている。端正な顔立ちはいかにもこの地方らしい。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 133

 

上図:7 菩薩立像(部分) 中唐(781~848年) 莫高窟:第159窟 西壁龕内北側  解説抜粋:半眼を開き唇を堅く結んだその相貌も端然としている。特に本像では肉身部に塗られた白粉がなお艶やかだ。顔部をはじめとして全体にモデリングが豊かであるが、形式化の傾向が見られ、顔立ちにもいくらか感覚的冷たさはあるものの、莫高窟・中唐期の彩塑の典型をしめしている。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(四巻) 1981年:平凡社刊   画像No:79  解説:P 257

 

上図:8 菩薩交脚像(部分) 北涼(421~439年) 莫高窟:第275窟 西壁  解説抜粋:早期における最大の彩色された塑像である。面相・衣制に西方様式を写そうとする努力が見られる。

出典: 同上(一巻) 1981年:平凡社刊   画像:No:11  解説:P 229

 

図:9 楽伎図(部分) 唐(618~904年) トルファン・アスターナ230号墓  解説抜粋:長安3年(703)に埋葬された脹礼臣の墓から発見された舞楽屏風の1つ。六弦琴を手にした美人の姿。額に化粧をほどこし、頬と唇には紅を刷き、艶やかに飾り立てているのは、この頃に流行した化粧法をそのまま再現したものであろう。均整がとれた肢体や、華麗きわまる装いなどに特色があり、当時の卓越した表現技巧を目のあたりにする。

出典: 中国出土壁画全集(七巻:新疆・寧夏・甘粛) 2012年:国書刊行会刊   画像、解説:P 66

 

  下記地図データ出典:上図:新・シルクロード展/NHKプロモーション       中図:(click)         下図:(click)

上図:10 は内陸アジア中央に位置するタクラマカン砂漠(タリム盆地)の様子です、砂漠は6000~7000m級の万年雪の山脈に囲まれています。万年雪は砂漠の周辺を潤し、人移動の回廊をつくり、シルクロード文化を育みました。此の地の歴史は凡そ4000年近く前には存在していたと確認されてます。

                              下表は古代シルクロードの時代位置です。

             

              ここに並ぶ画像は、内陸アジア5~8世紀の美術作品です

  表題を「内陸アジアのルネッサンス」としたのは此の地で、仏陀のエピソードをソースに古代文明復興のモーションあったからです。西欧では、此の地の千年後の14世紀に、中世暗黒時代脱皮の欲求が文芸復古を呼び、西欧全土に広がります。改革のエネルギーが 宗教改革を成し、産業革命を産み、資本主義を生み、世界大戦へと深化します。

    其の世界大戦前夜の19世紀末~20世紀初頭、列強諸国は 内陸アジアの領有を画策し、学術踏査を理由に探検隊を送り込みます。その探検隊により砂漠から掘り出され千年の 眠りに終止符を打たれたのが、此処で見る画像です。余談乍ら、 ルネッサンスが産んだ現代社会は「神」は「株価」に変わり、株価は「権力・戦争」の源泉です。何れもルネッサンスが産んだ価値観です。

     画像は、タリム盆地と雪の山脈間のオアシス路(概略6千Km)の、分散型ネットワーク上で産まれ、帝国の侵攻で或日砂漠に消えた、儚い夢の残滓です。

  作品は千余年の眠りを経て20世紀初頭に、内陸アジアの砂漠から発掘されたもので、作品のモチーフは仏陀の物語です。物語は永らく語り継がれた後、紀元前3世紀頃に文字化され其の3~4百年後にギリシャ文明の影響を受け、ガンダーラの地で、石像表現に至り、其の後また幾百年後にタリム盆地で彩色美術に進化しました。其れが此処にご覧の作品群です。

 

 

上図:11   女子胸像  5~6世紀  トムシュク  トックズ・サライ・小寺院跡Ⅰ  粘土  高15cm  ペリオ探検隊・1906-09        解説抜粋:華やかに飾られた衣装が注目される、此処に見られる服制は、西域各地の壁画や浮彫に表現された類例と共に、かってのこの地域の風俗を探る手掛かりとなる。

出典: シルクロード大美術展  東京国立博物館 1996年:   画像No:61  解説:P 71

 

                                                   空撮図    撮影:白岩吉明

上図:12 はタクラマカン砂漠と山脈の空撮図で、左図は天山山脈、右下はカラコルム山脈とタクラマカン砂漠の境界域風景です。右上は地上図で、黄砂に染まるタクラマカン砂漠です。

   

上図:13 脇侍菩薩 北周(557~581年) 莫高窟:第438窟 西壁南側  解説抜粋:菩薩像の脇に立つ脇侍菩薩。姿勢が柔らかく、両頬がふっくらとして唇がつぼみ、少女のような可憐さがあり、人を魅了させる。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(巻) 1981年:平凡社刊   画像No:157  解説:P 250


 

上図:14 天部胸像  7世紀   キジル   解説抜粋:等身より少し小さめの天部形像の頭部と胸部。両肩に多量の髪が垂れかかる。上向加減の顔面に配された目鼻口がややノッペリとしている。上目遣いの目は、この地域特有の表現だ。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 112

 

左:上図:15 如来坐像  8世紀 ホッチョ   解説抜粋:両手で定印を結ぶ如来坐像。ストーパなどの壁面に穿たれた仏龕内に安置されていたものの様だ。衲衣は朱色に彩る、衣端に群青色が見られるが、あるいはこれは衣の裏なのかも知れない。欠失部があるけれど、どこか動きと表情の感じられる美しい像である。

右:上図:16 男神半身像  8~9世紀 ヤールホト   解説抜粋:両手を振り上げて斜め下を見遣る仕草は驚きの表情であろうか、右手の欠落部から、葦を束ねたものを芯とし、そのまわりにスサ入りの粘土が付けられているのが観察できる。天衣や装身具は肉身部の完成後、別につくったものを貼り付けていた。

出典:同上  左上図:15 画像・解説:P200     右上図:16 画像・解説:P 146

 

上図:17 阿闍世王 王妃 行雨大臣 7世紀前半 キジル  解説抜粋:キジル石窟(中国編号第224窟)から採掘された壁画。現在、この壁画断片は3人の人物を配列しているが、これが本来の配列でないことは、互いの人物の背景が連続しないこと、人物の体の大きさが違うことから明らかだ。左端の肌の白い人物は阿闍世王、中央は王妃、右端は行雨大臣。大臣が王や王妃に講説する場面。

出典:同上  画像・解説:P79

 

上図:18 ドイツ・トルファン探検隊行程図 1902年11月~1914年2(プロシア王国トゥルファン探検隊) 

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊   画像:P222

 

上図:19              黄砂のタクラマカン砂漠を行く羊飼い   撮影:白岩吉明

 

上図:20 壁画断片、第2号窟、ベゼクリク、

出典:  画像:ルコック, アルベルト・フォン著作 Chotscho」:vol.1:P 0137 1913年刊

ベルリンの民族学博物館に現地にあったとおり復元された壁画類(ベゼクリクの大壁画やキジルの仏舎利図など)は、空襲(注釈:第2次世界大戦時のベルリン大空襲)のため壊滅したが、疎開された分はいまダーレムの博物館に復元して陳列され、ベルリン・族学博物館の名も復活している。現在残っているものは、壁画類は戦前の2分の1、塑像類は3分の2といわれるが、それはル・コックらの伝統を受け継いだドイツの学者たちのねばり強い努力の結果と言えよう。 

出典:「中央アジア探検史」:P469 深田久弥著 2003年:白水社刊

 

上図:21 第2次世界大戦のベルリン大空襲で破壊される前のベルリン民族博物館ベゼクリクの壁画の展覧会の様子。

出典:ルコック, アルベルト・フォン著作 「Auf Hellas Spuren in Ostturkistan : vol.1」P0110

 

上図:22 祈願図no.6、第9号窟、ベゼクリク  (上記壁画には、縦横に多数の 、ほぼまっすぐな「傷」がある。これは、ルコック隊が、壁画を漆喰ごと乱暴に剥ぎとって、ドイツに持ち帰ったときの傷で文化財に対する当時の姿勢が伺える。ル・コックは現地で採取した360kg以上にのぼるフレスコ画・像ほかの文化財をのこぎりで切りとって305箱に詰めてベルリンまで運んだ。)

出典:  画像:ルコック, アルベルト・フォン著作 「Chotscho」ホッチョ(高昌)」:vol.1:P 92   1913年刊


上図:23  如来説法 8世紀 クムトラ  解説抜粋:仏は蓮華座に結跏趺坐し、袈裟を偏但右肩にとっている。二重の光背を負い、身光の内圏は、あたかも焔がゆらめくかのように彩色されている。仏は僧に対して説法しており、僧は左膝をたててひざまずき、両手で器をささげている。この僧も衣を偏但右肩にまとい顔には生々しいひげがある

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊   画像・解説:P 120

 

上図:24 回鶻公主供養図 莫高窟:第98窟 東壁腰壁北側 五大(907~960年)  解説抜粋:この像は泰國の曹議金の夫人であり、議金とともに本窟造営の願主となった公主にほかならない。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(五巻) 1981年:平凡社刊   画像No:12  解説:P 108

 

上図:25  天部頭部 8~9世紀 センギム  解説抜粋:女性をあらわすように見えるが、眉根を寄せ目を見開いているあたりは尋常ではなく、鬼神であろう。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊   画像・解説:P 216

 

上図:26 シルクロード図  出典:NHKスペシャル・新シルクロード 2004年刊 日本放送出版協会

 

上図:27 タクラマカン砂漠を囲む山脈      空撮:撮影:白岩吉明

下図:28 タクラマカン砂漠と天山山脈        空撮:撮影:白岩吉明


上図:29 ベゼクリク千仏洞のあるトルファンの深い谷       撮影:白岩吉明

上図:30 天山南路周辺の仏教遺跡地図       出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊 P 223

 

下図:31 ベゼクリク千仏洞  出典:NATIONAL GEOGRAPHIC 2004/2  

上図:32  下図:33 トルフアンの城跡        撮影:白岩吉明

上図:34  ホータン王書簡  紙本墨書 963年 ホータン出土    ペリオ探検隊(1906-09)発掘解説抜粋:この書簡は最近の研究により、ホータン王の李聖天が曹元忠に白玉を送る旨を記したものであることがわかった。朱印が2ヶ所に押されており、右の印は「通天萬壽」はホータンの年号(963~67)と関連している。900年代中葉、カシュガルを征服したイスラム勢力の脅威にさらされたホータンは、保全のため沙州を治めていた曹氏と軍事同盟、姻戚関係を結ぶ。しかし、その後ホータンはイスラムの支配下にはいることになる。  出典:シルクロード大美術展 1996年:東京国立博物館  発行・読売新聞社  画像No:27/p40

 

上図:35 絹の幡、菩薩を表す、「千仏洞」より、敦煌(第二十三章第五項;第二十五章第二項を参照)

出典:画像:スタイン, マーク・オーレル著作 「Serindia 」セリンディア: vol.4 P 0171  1921年刊

 

上図:36 右上2点  寺院D. Xで出土した板絵、ダンダン・ウィリク(第九章、第四、八項を参照)   出典:スタイン, マーク・オーレル著作「Ancient Khotan」(古代コータン) : vol.2 P 0137  1907年刊 

上図:37 右下 テンペラ画(M. III. 003)、 祀堂M. IIIの壁より、 ミーラン(第十三章第三、九項を参照) 出典:スタイン, マーク・オーレル著作 「Serindia」(セリンディア) : vol.4 P 0099  1921年刊 

上図:38 左2点 広目天像と文珠菩薩像  広目天像と文珠菩薩像      出典:スタイン, マーク・オーレル著作 「The Thousand Buddhas 」(千仏):vol.1 P 0112  1921年刊 

  

上図:39  住居址で出土した板絵 D. VII. 6 (4/5)の表、ダンダン・ウィリク(第九章第六、八項を照 )
出典:スタイン, マーク・オーレル著作「Ancient Khotan」(古代コータン) : vol.2   P 0131 1907年刊

 

上図:40 大迦葉(だいかしょう) 7世紀 キジル    解説抜粋:大迦葉は釈尊の十大弟子のひとり、大迦葉(マハーカーシャバ)の頭部を描くが、涅槃図あるいは荼毘図の一部分であったと考えられる。大迦葉は釈尊が入滅したその時、釈尊の傍にいなかった。彼は、バーヴァ―からクシナガラへ至る道中で釈尊が7日前に亡くなった事を聞き、さっそくクシナガラに駆けつけ釈尊の遺骸を新しい布でつつみ、鉄の油槽に入れ、香料の薪を用意して、荼毘に付したという。その大きな悲しみが伝わる刻みな絵だ。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊   画像・解説:P 85

 

上図:41 壁画断片 MALLA(王侯?)の頭部     BRUCHSTÜCK EINER WANDMALEREI: KOPF EINES MALLA=FÜRSTEN (?)

出典:ルコック, アルベルト・フォン著作「Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien 」(中央アジアの仏教古代後期 ): vol.3  P:0067

 

上図 左:42 双身如来幡(そうしんにょらいはん) 8世紀 ホッチョ    解説抜粋:一組の足に、体が2つある如来立像を描く幡で、共通する円形の頭光と舟形身光を負い、蓮台にのっている。敦煌莫高窟の第64・81・84窟にも双身仏が見られる。

上図 右:43 如来立像 6世紀 キジル  解説抜粋:白色下地を施した長方形の板に描かれた如来立像。頭光と長円形の挙身光を背負い、三屈法のポーズで立つ姿だが、足元には蓮台が見えない。単純ながら堂々とした如来像であり、6世紀に遡る作例だ。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊   画像・解説:P 85

 

上図:44 ウイグル王女 9世紀 ベゼクリク   解説抜粋:ルコックは、画面右端の短冊形銘文を「喜びの王女の肖像画」と解読している。2人とも左右に大きく張り出すように髪を結い、吉祥文の飾りをあしらい、大きな耳飾りをつけ、頬や額に化粧をしている。

出典:同上  画像・解説:P 159

 

上図:45 左上4点 「ロシアのZ」の寺院、壁画、 ホッチョ(高昌)    出典:ルコック, アルベルト・フォン著作 「Chotscho」ホッチョ(高昌):vol.1:(東トルキスタンのトゥルファンにおける第一次プロシア王国
探検重要発掘品)P 0059
  1922年刊 

上図:46 右上 飛ぶ鴨(FLIEGENDE ENTEN)、  出典:ルコック, アルベルト・フォン著作 「Die Buddistische Spatantike in Mittelasien」:vol.5:(中央アジアの仏教古代後期 プロシア王国トゥルファン探検隊の成果).P 0077   1913年刊(ベルリン)

上図:47 右下 女性供養者群(GRUPPE VON STIFTERDAMEN). 出典:同上 

上図:48 舞踏童子像 9世紀 ホッチョ   解説抜粋:裸の童子は、両手を翼のようにひろげて領巾をつかみ、足を交差させてつまさき立つポーズをとる。難しい姿形にもかかわらず、かたに破綻がないところは作者の技術を示すものだ。墨線でかたどられた肉身は堂々とした張りがあり、童形特有のプロポーションもよく把握されている。童子の面貌などからは、中国からの影響が強く感じられ、特に豊かな肉親表現には唐様式の反映をみる。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊   画像・解説:P 172

 

上図:49月  比丘 莫高窟第280窟 西壁南側 隋(581~618年)  解説抜粋:西壁の都合10体の比丘は釈迦の十大弟子をあらわしていたものと見られる。西壁のこれらの図は白色を地として、紅や青の顔料を多用しており、仕上げの描線が明確でない没骨風に描かれ、他の壁画とは幾分趣をことにする。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(巻) 1981年:平凡社刊   画像No:111  解説:P 255

 

上図:50  女子供養者 莫高窟第329窟 東壁南側 初唐(618~712年)  解説抜粋:静かなたたずまいが印象的である。長袖の上に丸首を纏い、裙を胸高につけたその姿は、当代の俑をおもわせ、太い眉に切れ長の目、小さく結んだ口は端正な趣がある。

出典:同上(三巻) 画像No:48  解説:P:250

 

上図:51  供養菩薩 莫高窟第420窟 西壁龕内北側 隋(581~618年)  解説抜粋:緑色の縁どりのある紅色大衣をまとい、両手に蓮花を棒持して、やや俯き加減に深思するさまである。眉や唇の描線は達者で、菩薩の静かに深思する姿をよく捉えている。

出典:同上(二巻) 画像No:67  解説:P:248

 

上図:52 莫高窟第384窟 西壁龕内南側 盛唐(713~765年)  解説抜粋:顔立ちがふくよかでプロポーションがよく、またその姿態、衣の処理も自然で、更に造立当初の姿をとどめている。

出典:同上(四巻) 画像No:21  解説:P:248~9

 

上図:53  女神(壁画)  9世紀  ゼンギム  解説抜粋:大変技巧的に結い上げた髪に様々な装飾を加えた女性が、胸前に供物をおせた盤を捧げ持っている。墨の下描き線に彩色を加え、朱線で描き起こしている。髪の毛の装飾、着物の縁、天衣等に金を用い、茶色の背景に対して華やかである。

出典ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊   画像No:157  :P 215

 

下図:54  光るタクラマカン砂漠      撮影:白岩吉明

上図:55 菩薩(女性)上半身像 7~8世紀 ショルチュク   解説抜粋:ショルチュクはクチャからトゥルファンに至る街道の中間に位置する町だが、近くにナクシャトラ洞窟があることで著名だ。本像は此の窟から発見された。本像は乳房を露わすので、菩薩像よりもむしろ在俗の女性かとも思われるが、頭上の髪飾り、耳飾り、両肩にかかる垂髪、天衣は他の菩薩像と一致している。まるく張った顔面に広い額と切れ長の目を配するのはこの地方の特徴だ。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊   画像・解説:P 133

 

 

「内陸アジアのルネッサンス」  コンセプト

         ここに並ぶ画像は、内陸アジア5~8世紀の美術作品です。

  表題を「内陸アジアのルネッサンス」としたのは此の地で、仏陀のエピソードをソースに古代文明復興のモーションあったからです。西欧では、此の地の千年後の14世紀に、中世暗黒時代脱皮の欲求が文芸復古を呼び、西欧全土に広がります。改革のエネルギーが 宗教改革を成し、産業革命を産み、資本主義を生み、世界大戦へと深化します。

    其の世界大戦前夜の19世紀末~20世紀初頭、列強諸国は 内陸アジアの領有を画策し、学術踏査を理由に探検隊を送り込みます。その探検隊により砂漠から掘り出され千年の 眠りに終止符を打たれたのが、此処で見る画像です。余談乍ら、 ルネッサンスが産んだ現代社会は「神」は「株価」に変わり、株価は「権力・戦争」の源泉です。何れもルネッサンスが産んだ価値観です。

     画像は、タリム盆地と雪の山脈間のオアシス路(概略6千Km)の、分散型ネットワーク上で産まれ、帝国の侵攻で或日砂漠に消えた、儚い夢の残滓です。

  作品は千余年の眠りを経て20世紀初頭に、内陸アジアの砂漠から発掘されたもので、作品のモチーフは仏陀の物語です。物語は永らく語り継がれた後、紀元前3世紀頃に文字化され其の3~4百年後にギリシャ文明の影響を受け、ガンダーラの地で、石像表現に至り、其の後また幾百年後にタリム盆地で彩色美術に進化しました。其れが此処にご覧の作品群です。

 

 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負ってません。この問題は最終章「黙示録」で考察してます。内陸アジアには持続可能な社会の雛型が有史前から連綿と続いています。
 

 
 
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