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     内陸アジアのルネッサンス:3

 

                                                                   西欧より千年早い美の創造

                 古代シルクロード物語

 

                      地獄絵・幽霊が無かったころ

                                                         女性美で仏を表現した時代

上図:1 供養菩薩 初唐(618~712年) 莫高窟:第401窟 北壁東側   解説抜粋:蓮台に立つ菩薩は左手に華盆を持ち、右手は垂下して天衣をとるしぐさで、細くくびれた腰部をかすかにひねる三曲法の姿態にあらわされる。細くひかれた眉や伏目がちのおもだちは、いかにも優しく穏やかであるが、小さく結んだ口は意志的ですらある。菩薩は耳環・胸飾・肩飾で飾られ、薄物の天衣をゆるやかに垂らすその表現もなかなか優雅である。なを題記によって、壁画は武徳5年(622)頃に描かれたことがわかる。
出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊   画像No:7  解説:P 243

 

上図:2 文殊  隋(581~618年) 莫高窟:第276窟 西壁南側  解説抜粋:樹下蓮台上に文殊菩薩が両手を胸前にかかげ、口を半ばに開いて維摩詰の問いに答える姿である。顔部・手先・裙・天衣等にみられる描線は的確で、菩薩の温雅なさまがよく捉えられる。
出典:中国石窟 敦煌莫高窟(二巻) 1981年:平凡社刊  画像No:122 解説:P 256~7

注釈:維摩詰(ゆいまきつ)はインド毘耶離城に住む長者で、弁才無礙をもって聞え、在俗の身ながら、仏の教えを深く理解していた。ある日、衆生の病をもって病む彼を見舞う文殊との間に、大乗の妙理を示す問答を展開する。本図は、『維摩経』に説くこの劇的な場面を描いたもの。本図の右半分には初老の居士形にあらわされた維摩詰の像がある。なを、本図ではこの画像の右半分に位置する維摩詰(ゆいまきつ)の像は、菩薩を主役とするために、省いた。

 

上図:  阿弥陀浄土変相部分  初唐(618~712年) 莫高窟:第71窟 北壁  解説抜粋:中尊阿弥陀仏の左脇に侍従する供養菩薩を示し、蓮華座上に坐して上体をひねるもの。あるいは安楽座をとって頬杖をついて思推するものなど、その姿態はいかにも自由で変化に富む。その中の一部。”蛾眉”と形容されるような美しく弧を描いた眉、切れ長の目、やや厚みがあって小さく結んだ唇など、濃淡と肥痩を生かした描線は特筆され、初唐期の絵画にあっても格別優れた作柄を見せる。
出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊  画像No:84 解説:P 258

 

上図:4 器を造る僧侶の描写 .DARSTELLUNG EINES MÖNCHS, EIN GEFÄSS HERSTELLEND.出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien : vol.5 」p0063  中央アジアの仏教古代後期

 

上図:5  ザバク龍王倚像  ホータンあるいはソグト? テラコッタ 高61.5  7~8世紀    ペトロフスキー コレクション

出典:シルクロード大美術展 1996年:東京国立博物館  発行・読売新聞社  画像No:22/p37

 

上図:6  思惟形菩薩  初唐(618~712年) 莫高窟:第57窟 西壁龕内南側  解説抜粋:龕内に描かれる像は概して簡潔な表現で、墨線を主とした描写で彩色もとりたてて華やかさは見られない。ただその描線は的確で、それぞれの表情や姿態を巧みにとらえ印象的である。
出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊  画像No:10 解説:P 244

 

上図:7  女子供養者  盛唐(712~781年) 莫高窟:第225窟 東壁南側  解説抜粋:盛唐時代に描かれた女子供養像で、像は跪坐して柄香炉を持つ姿で、墨線の濃淡・肥痩を刻みに生かした白描としてあらわされ、頭髪やこれを束ねる布、内衣や衣の衿にごく淡く賦彩する。小さく結んだ唇に紅をさしているのも効果的で、盛唐時代の熟達した絵画技法をうかがわせる。
出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊  画像No:170 解説:P 272

 

下図:8  仏説法図  隋(581~618年) 莫高窟:第394窟 南壁西側  解説抜粋:宝藍の下、八角形の須弥座に坐する仏の左右に2菩薩2比丘が侍従し、上方には散華奏楽する4飛天があらわさせる。左右相称の簡素な構成ながら、構図的に良くまとまっている。描写手法の上からは、白色を下地として細く土紅色で描き、その上に淡く賦彩するだけで、仕上げの描線などは施さない。仏・菩薩・比丘などプロポーションも整い、飛天の動きも軽やかで美しい。
出典:中国石窟 敦煌莫高窟(二巻) 1981年:平凡社刊  画像No:156 解説:P 260

下表出典:中央アジアからの仏教伝搬(click)

中央アジアからの伝道
2世紀中ごろに、カニシカ王治下のクシャナ朝が中央アジア方面に伸長し、今日の新疆、タリム盆地のカシュガル・ホータン・ヤルカンドを統治下に置くに至った。その結果、文化的交流が非常に盛んになり、すぐに中央アジアの仏教徒の宣教師が中国の首都の洛陽や、時には建業でも活動するようになった。その地で彼らは翻訳作業によって有名になった。彼らは部派仏教の仏典と大乗仏典の両方を漢訳した。37人の翻訳者が知られている。

安世高、パルティア人の王子で最初にアビダルマ仏典を漢訳した(148年–170年)ことで知られる
支婁迦讖クシャナ人で最初に大乗仏典を漢訳した(167年–186年)
安玄、パルティアの商人で、181年に中国で出家した
支曜(185年頃)、クシャナ人の仏僧で、支婁迦讖に次ぐ訳経僧第二世代である
康孟詳 (194年–207年)、康居出身者では最初の訳経僧
支謙(220年–252年)、クシャナ人僧侶で祖父が168–190年に中国に移住した
康僧会(247年–280年)、現代のハノイ周辺で中華帝国の最南端だった交趾出身で、ソグド人商人の息子
曇諦 (254年頃)、パルティア人の僧侶で『曇無徳羯麿』を漢訳した。
帛延 (259年頃)、亀茲の王子
竺法護(265年–313年)、クシャナ人で一族は代々敦煌に居住していた
安法欽 (281年–306年)、パルティア系の僧侶
室利蜜多羅 (317年–322年)、亀茲の王子
鳩摩羅什(401年頃)、亀茲の僧侶で最も有名な訳経僧の一人
仏図澄 (4世紀)、中国宮廷で顧問となった中央アジア人の僧侶
達磨 (440年–528年)、楊衒之によれば、中央アジア系の僧侶で、楊衒之は520年頃に洛陽で彼と出会った
という。達磨は禅宗の開祖であった。
ガンダーラ出身の五人の僧侶が485年に扶桑(海を越えた「極東の国」、おそらく日本)へ旅し、そこで仏
教を紹介した:
かつて、扶桑の人々は仏教について何も知らなかったが、宋の大明二年(西暦458年)に罽賓から五人の僧侶
が船でこの国にやってきた。彼らは仏教の教えを広め、仏典や仏画を紹介してまわり、俗世に執着すること
をやめるよう人々に勧めた。結果として扶桑の慣習が変わった。
(原文: 「其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風
俗遂改。」 『梁書』、7世紀)
闍那崛多(あるいは志徳、(561年–592年)、ガンダーラ出身の訳経僧
実叉難陀(652年–710年)、ガンダーラ地方ウディヤーナ出身の訳経僧
般若(810年頃)
カーブル出身の訳経僧で日本の空海にサンスクリットを教える。

仏 教 伝 搬 シルクロードを通じて仏教は陸路により中国にもたらされた。この仏教のシルクロード伝播が始まったのは2世紀後半もしくは1世紀と考えるのが最も一般的と言える。最初に中国の仏僧(完全に外国人)による仏典漢訳が行われたのは記録されている限りでは2世紀のことで、クシャナ朝がタリム盆地の中国の領土にまで伸長したことの結果ではないかと考えられている。4世紀以降、法顕のインド巡礼(395年–414年)やそれに次ぐ玄奘のインド巡礼(629年–644年)にみられるように、中国からの巡礼者たちが原典によりよく触れるために、彼らの仏教の源泉たる北インドへと旅をするようになった。仏教のシルクロード伝播は中央アジアでイスラームが興隆する7世紀ごろに衰え始めた。

        下図出典:https://hisbell.com/asuka/buddhism/(click)

初期の伝播
記録に残っている限り最初に仏典が漢訳されたのは西暦148年、パルティアの王子で仏教に改宗した安世高の中国渡来に伴ってのことである。彼は洛陽における仏教寺院建立に尽力し、仏典の漢訳を体系づけ、結果的に、数世紀間続くことになる中央アジアの仏教徒の伝道の最初の波を証言する者となった。安世高が翻訳した仏典は基本的な教義、仏教の瞑想、アビダルマなどの事項に関わるものであった。パルティア人の在俗信徒で安世高付近で活動した安玄も菩薩道に関する初期大乗仏典を漢訳した。大乗仏教を最初に広く中国に伝えたのは支婁迦讖(164年ー186年ごろ活動)で、彼はガンダーラの古代仏教王国出身であった。支婁迦讖は『八千頌般若経』のような重要な大乗経典を漢訳しており、同程度に貴重なものとして、三昧のような話題や阿閦如来の瞑想に関する話題を扱った大乗経典を漢訳している。こういった支婁迦讖の翻訳は初期大乗仏教に関する知見をもたらし続けている。

   下図出典:仏教の広がり (click)

 

  上図:9  天請問経変相部分  中唐(781~848年) 莫高窟:第158窟 東壁南側  解説抜粋:図は釈迦が王舎城の祇園精舎に止住して、諸天衆の問いに答え、説法するありさまを描く。
出典:中国石窟 敦煌莫高窟(四巻) 1981年:平凡社刊  画像No:73 解説:P 256~7

 

上図左:10 奉納された仏画の中の施主(図106),観音菩薩の極楽浄土を描く。敦煌「千仏洞」の蔵経洞

上図右:11 古代の絹に描かれた刺繍画,弟子と菩薩の間にいる仏陀,および下部に喜捨した人が礼拝している様子を表す,敦煌「千仏洞」の蔵経洞より発見。

出典:10・11 スタイン, マーク・オーレル著作 「On Ancient Central-Asian Tracks : vol. 」中央アジア踏査記 : vol.1・P0413/0349

 

  上図:12  弥勒浄土変相部分  中唐(781~848年)  莫高窟:第159窟 南壁東側  解説抜粋:説法弥勒仏のかたわらに献花する供養菩薩。両手に華盤を捧持して胡跪する姿は敬虔で、くっきりと引かれた眉に切れ長の眼、花びらのように小さく結んだ唇の面立ちも愛らしい。肉身を白粉で塗り、宝冠・胸飾等朱で賦彩し、天衣などには緑青が用いられており、朱や墨による輪郭の描線も簡略ながら、その姿態を的確にとらえている。
出典:中国石窟 敦煌莫高窟(四巻) 1981年:平凡社刊  画像No:86 解説:P 259

 

上図:13 タクラマカン砂漠を覆う雲海(空撮)   撮影:白岩吉明

下図:14 土漠の中の古城跡:トルファン       撮影:白岩吉明

上図:15    ヘブライ語免罪符断簡  敦煌莫高窟  紙本墨書  22.4X15.4   9世紀 ペリオ探検隊、
1906-09年    
解説抜粋:敦煌文書には、中国語、チベット語、ソグト語、ウイグル語、ホータン語など、様々な言語で記された膨大な写本類がある。本品もそのうちの1つで、ヘブライ語で記された珍しい祈禱文書である。文中には、旧約聖書のイザヤ書と詩編が引用されている。このようなヘブライ語文書が存在することから、当時、ユダヤ人が敦煌周辺にまで来ていた可能性が考えられる。
出典:シルクロード大美術展 1996年:東京国立博物館  発行・読売新聞社  画像No:42/p48

 

 上図:15 北壁龕頂北側部分  菩薩  盛唐(712~781年) 莫高窟:第148窟  解説抜粋:3体の菩薩はともに蓮華に坐して合掌するもの、右手に方形の宝印を執るもの、右手で頬を支え思惟するものなど思い思いのポーズを示し、そらぞれに”大力菩薩”“執實印菩薩””思惟菩薩”の傍題が認められる。
出典:中国石窟 敦煌莫高窟(四巻) 1981年:平凡社刊  画像No:32 解説:P 250

 

上図:16  天部頭部  7世紀    ショルチュク   解説抜粋:小型の天部形像の頭部で、頭頂に髪飾りを付け、額上中央の髪がガンダーラ仏のようなアーモンド形となるのはショルチュク地方に多い。本例の様な図像的な特徴のない菩薩または天部形像はこの地域で多数発見された。
出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 132

 

 下図:17 タクラマカン砂漠の西端とパミール山脈   撮影:白岩吉明

上図3点:18  マニ教経典断簡  紙本着色 8~9世紀 ホッチョ    解説抜粋経文を赤と黒のエスタンゲロ文字(古代アッシリア帝国・ペルシア帝国からアッバース朝時代にいたるまで、中東のリンガ・フランカ(国際共通語)でした)で写経し、その間に絵画部分を挿入する形をとっている。下画像の男性4人はそれぞれ「像頭」「猪頭」「高髯」「高い飾り」のついた宝冠をつけ、ヒンドゥー教のガネーシャ、ヴァラーハとしてのヴイシュヌ、ブラフマ―とシヴァを表現するものと言われている。マニ教とヒンドゥー教の密接な関係が想像できる。上画像の左図は写経している場面と考えられる。上図像の右には、四弦の琵琶を横抱きにしている人物が二人、植物文をあらわす緑色の敷物の上に座っている。なを、上の画像は、本コレクション中、最大のマニ経写本断簡で、色彩が鮮やかに残る美術的にも高い価値をもつ写本断簡だ。         出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊:P 174~177

  

 上図:19 ドイツ・トルファン探検隊行程図   出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊:P 222~3

 

上図:20 女性供養者群 GRUPPE VON STIFTERDAMEN.

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien : vol.5 」P0099  中央アジアの仏教古代後期

 

上図左:21 仏陀 ショルチュク  BUDDHA, SCHŌR-TSCHUQ

上図右:22 仏陀坐像 ショルチュク ササン朝風装飾の台座  SITZENDER BUDDHA Schōr-tschuq; Thron mit sassanidischer Ornamentik.

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien : vol.1」P00113・0111 “中央アジアの仏教古代後期 プロシア王国トゥルファン探検隊の成果.”

 

 上図:23  釈迦霊山説法図 盛唐(712~781年) 莫高窟:第103窟  解説抜粋:釈迦の右脇に侍従する比丘・菩薩を示し、美しく飾った宝藍の下、蓮華座上に脇侍菩薩が交脚の姿で坐しており、これとともに水瓶や華盤を持った諸菩薩が従う様である。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊  画像No:152 解説:P 269

 

上図:24  男神半身像  8~9世紀   ヤールホト   解説抜粋:総身青色であることから悪鬼と解されることもあるが、恐ろしげな表情はなく、耳も尖っておらず、口辺に微笑も感じられるので神像であろう、両手を振り上げて斜め下を見遣る仕草は驚きの表情であろうか。天衣や装身具は肉身部の完成後、別につくられたものを貼り付けられていた。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 146

 

 上図:25  菩薩半跏像  北魏(439~532年)  莫高窟:第257   解説抜粋:半跏思惟する本像は弥勒と考えられる。宝冠の一部を損傷するが保存状態はよく、冠の左右に垂らした冠檜や、頬に触れる指先、あるいは沈思する表情などに、独特の柔らかな表現が見られ、これに従事した画工たちの熟達した筆使いが見て取れる。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(一) 1981年:平凡社刊  画像No:39 解説:P 233

 

 上図:26  仏説法図  初唐(618~712年)  莫高窟:第322   解説抜粋:双樹と宝蓋の下、左右に諸菩薩を従え仏が説法する図は莫高窟の早期および隋代に多く見られるもので一般に弥勒仏に比定される。侍従する菩薩は開敷の蓮華、蓮茎を持つものなど思い思いのポーズになり、その容姿はふくよかで、いかにも健康的な美しさを見せる。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊  画像No:18 解説:P 245

 

上図:27  菩薩立像  北魏(618~712年)  莫高窟:第437 方柱南龕東側  解説抜粋:ほっそりとした体躯や広い額に大きく弧を描いた眉、浅い眼窩、細い鼻梁、小さな口によって形ずくられる優しい面立ちはトムシュクなどに見られる西域塑像の伝統を思わせる。ただ、高い宝冠をつけ、両肩から垂れた天衣を腹部で交差させる服飾は、中原風であり、像にはこれら2様が混在している。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊  画像No:63 解説:P 237

上図:28  タクラマカン砂漠の南西端とカラコルム山脈との接合部(空撮) 過っては此の接合部が緑豊かな生活空間で、多数の小国から成るネットワーク社会が構築されてました。     撮影:白岩吉明

 

上図:29  有翼人物像 祀堂M. IIIの腰羽目のテンペラ画、ミーラン       “セリンディア 中央アジアおよび中国西端部における探検の詳細報告.”   
出典: スタイン, マーク・オーレル著作 「Serindia : vol.4」p0095

          下記出典:  http://dsr.nii.ac.jp/kids/asobu/nurie/nurieList/mono1/mono1.html(click)

  スタインが考えた“有翼人物像”の秘密
“有翼人物像”は1907年にスタインが発掘したミーラン遺跡
での発見によるものです。彼はこの壁画を「翼のある天使」と呼びました。スタインは“有翼人物像”はギリシア神話に出てくる翼を持った、青年エロスが先祖だと考えました。ひみつ理由のひとつは、この天使像が西洋の原始キリスト教の教会の天使像に似ていることです。理由のふたつ目はミーランに比較的近いガダーラ地方のギリシアふう仏教美術の彫刻では、エロス像を模した彫像が見られたため、ミーランに、その影響があっても不思議ではないと考えた事です。またスタインは、発掘したこの仏塔の近くで、同じように、西洋風デザインの人物像を見つけてます。 ギリシア風仏教美術は、ミーランにまで伝播していたのです。

    

上図左:30 ストゥッコのフレスコ画の一部、碑文入り、寺院D. IIの壁より、ダンダン・ウィリク(第九章第二、八項を参照)PORTION OF FRESCO PAINTING ON STUCCO, WITH INSCRIPTION, FROM WALL OF SHRINE D. II, DANDĀN-UILIQ.

上図右:31 板絵、住居址より、ダンダン・ウィリク(第九章第二、八項を参照)PAINTED PANEL, FROM RUINED DWELLING, DANDĀN-UILIQ.

出典:30・31 スタイン, マーク・オーレル. “古代コータン シナトルキスタンにおける考古学的探検の詳細報告.”スタイン, マーク・オーレル著作 「Ancient Khotan : vol.2 」中央アジア踏査記 : vol.2P0129

 

 上図:32      涅槃変相部分  中唐(781~848) 莫高窟:第158窟 南壁西側   解説抜粋:涅槃の会衆の悲痛のさまが描かれている。涅槃の地に戻った大迦葉とその他の仏弟子の慟哭の様子をあらわしている。仏弟子たちの悲しみの表情は相当誇張されているものの、まことに動きに富んでいる。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(四巻) 1981年:平凡社刊  画像No:64 解説:P255

 

 上図:33  飛天  隋末~唐初  莫高窟:第390  南壁上部中央  解説抜粋:天空を流雲・天華とともに飛翔する容姿は躍動感に満ちている。飛天それぞれの動きは、いわば起承転結の妙を発揮した感があり、プロポーションもよく、天衣のなびく姿も流麗である。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(二巻) 1981年:平凡社刊  画像No:168 解説:P 262

 

上図:34  菩薩 絹本着色  9~10世紀   ホッチョ   解説抜粋:背中にまで伸びる長い紐、花文、火炎宝珠、宝石類を配した高い豪華な冠を被った菩薩像である。額には白毫がみられ、耳飾り、首飾りをつけ、肩に垂髪が懸かっている。頭光と身光には同心円が引かれ、その曲がり具合から見てこの菩薩はもともと坐像であったとみられる。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 184

 

上図:35 古城跡:トルファン     撮影:白岩吉明

 

 上図:36  如来坐像  塑像彩色 8世紀  ホッチョ   解説抜粋:トルフアン地方の仏教寺院内のストーパに設けられた多くの仏龕の中には、塑像が安置されていたと推察される。本像もその様な龕に入れられていたものと考えられる。両手で定印を結んで坐す如来像。定印の結び方は手の甲を外側に向ける特殊なもの。衣の表に金箔を押し、裏面には緑色を塗る。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 199

 

 

上図:37  菩薩頭部 塑像彩色  6世紀   キジル   解説抜粋:等身大の菩薩像の頭部、豊かな頭髪を朱色と緑色の髪飾りで括り、その上に円形装飾が2個あらわされる。さらにその上に髪を結ってていたのだろう。目頭から弧を描いて立ち上がる浅い溝からがずか外れて眉が描かれ、上目遣いに三白目となる瞳は正面ではなく右上方を見つめている。眉間に引かれた朱の縦線は西域塑像の菩薩や天部像に多い。アーリア系の人種を思わせる顔貌はキジルの初期壁画にも見られ、6世紀に遡る作と考えられる。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 111

 

 上図左:38 寄進者像を描いたウイグルの寺院幡  UIGURISCHE TEMPELFAHNE MIT BILDNIS EINES STIFTERS.

上図右:39 壁画断片 寄進者像 ウイグル族の王侯  BRUCHSTÜCK EINER WANDMALEREI: STIFTERBILDER UIGURISCHER FÜRSTEN.

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien : vol.3」P0095・0089 “中央アジアの仏教古代後期 プロシア王国トゥルファン探検隊の成果.”

 

 上図:40  本性  壁画  7世紀前半   キジル   解説抜粋:樹の前で菩薩が長剣で自らの首を切り落とそうとしている。菩薩の前には、白布で体を巻いて赤子を抱いた女性がひざまずいている。本性の一場面には違いないが、その話が何であるかはあきらかではない。ラピスラズリの青と珪酸銅の緑の対比が鮮やかである。この窟は、キジル石窟独自の様式を完成させた時期の代表的な石窟で有名だ。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 73

 

 上図:41  菩薩部分  盛唐(712~781年)  莫高窟:第23窟  西壁龕内南側  解説抜粋:供養菩薩、左手に蓮華、右手に柳枝をとる姿で、彩色はすでに変色するが、大きく強靭な輪郭線は良く残り、眉と目の間が広く、当時の菩薩あるい人物像に特徴的な表現を見ることが出来る。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三) 1981年:平凡社刊  画像No:158 解説:P 270

 

  上図:42  激しい水流を物語るトルファン台地。        撮影:白岩吉明 

 

 上図:43  館音菩薩  盛唐(712~781年)  莫高窟:第14窟  南壁西側  解説抜粋:観音は背もたれのある座に、頭光・身光を付して結跏・趺坐する姿になり、腹前で定印を結ぶ。真正面からこれをとらえ、宝冠を戴き、裸の上半身に頸飾り、細長い天衣などを飾る。なお緑青色で塗られた背もたれには、回文を連続させた図案が描かれる。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(四) 1981年:平凡社刊  画像No:169 解説:P 271~2

 

 上図左:44     破壊された壁画に描かれた頭部  KÖPFE AUS ZERSTÖRTEN WANDGEMÄLDEN.

上図右:45   天井画の仏像BUDDHABILD AUS EINEM DECKEN-GEWÖLBE

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien : vol.5」P0073  P0083 “中央アジアの仏教古代後期 プロシア王国トゥルファン探検隊の成果.”

 

 上図:46  菩薩  盛唐(712~781年) 莫高窟:第148窟  北壁龕頂西側部分  解説抜粋:蓮華に坐す1体の菩薩が、右手で左肘を支え、左手は頬を支えて思推する姿になり、傍題に”定自在王菩薩”とある。  出典:中国石窟 敦煌莫高窟(四) 1981年:平凡社刊  画像No:31 解説:P250

 

 上図:47  供養菩薩像  盛唐(712~781年) 莫高窟:第384窟  西壁龕内北側  解説抜粋:蓮華に跪いて静かに合掌する姿につくられ、肌の質感をはじめ、敬虔にに供養する心情が巧みに表出され盛唐後期の彩塑を代表する一例と言ってよい。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(四) 1981年:平凡社刊  画像No:22 解説:P249

 

 上図左:48  如来立像  板絵  7世紀  キジル   解説抜粋:白色下地を施した長方形の板に、如来立像と左足元に供養者を描く。跪いて合掌する供養者は、首飾り、袖口、裙周りに飾りのをつけている、ただし、この人物の正体は不明だ。如来は右手を垂下して五指を伸ばし、供養者の頭に触れようかという勢いを示す。板裏には、亀慈語(キジゴ:B種トカラ語)のテキストに基ずく文章が北トルキスタンのブラフミー文字で一面に記されている。


上図右:49  如来立像  板絵  6世紀  キジル   解説抜粋:白色下地を施した長方形の板に、如来立像を描く。腰と首のところで逆S字型に体をひねったいわゆる三屈法のポーズで、右手は第一・二指を捻じる説法印を結び、左手は衣の端をつかむ。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊 画像・解説:P 93・90

 

 上図:50  供養菩薩像  盛唐(712~781年) 莫高窟:第328窟  西壁龕内北側  解説抜粋:蓮台上に左足を立てて跪坐し、両手はその仕草から、なんらかの供物を捧持していたと思われるが、今は手指から先は欠損する。菩薩の体躯・容貌とも遊戯坐の脇侍菩薩と同様で、落ち着いた優雅な作風をみせる。写実性の追求とともに塑像技術がこの時期一段と発展したことをうかがわせる。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(四) 1981年:平凡社刊  画像No:119 解説:P263

 

上図:51 図版 I、IIと共に入口の左壁を構成する。 / 間にある図の補足のため、図版 VII- VIIIを参照。Bildet mit Tafel I, II die Wand L. vom Eingang. / vgl. Tafel VII- VIII zur Ergänzung des Zwischenstreifen
出典: 画像:グリュンヴェーデル, アルベルト著作Alt-Kutscha : vol.1」P0252   “古代クチャ 紀元後8世紀の仏教石窟壁画に関する考古学的および宗教史学的調査.” 国立情報学研究所

 

 上図左:52  供養者  壁画  7世紀後半  キジル   解説抜粋:キジル石窟の第二峡谷の第2窟(別名日本人屈、中国編号第179窟)から収取。日本人屈という命名は、ドイツ隊よりも前に、日本隊が調査に着手していた事に由来するらしい。壁画断片の裏に釘書きされた文字などから判断して、第1次大谷探検隊が調査、採取したものの、未回収のまま放置していた壁画断片を、ドイツ隊が発見し、これをドイツ隊の収集品に加えたらしい。

上図右:53  祈願図部分  壁画  9世紀  ホッチョ   解説抜粋:2人の尊格は、どちらも唐草文の外周を持つ円形頭光を背負い、天衣、装身具、着物や身のこなしなど、すべてが優美である。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社 画像・解説:P 84・171

 

 上図:54  古代の遺跡が眠る灼熱の台地タクラマカン砂漠       撮影:白岩吉明

 

マニ教経典断簡    紙本着色  8~9世紀  ホッチョ      解説抜粋 下図:56 下図画面右側には経典が6行にわたって赤文字で記載され、左側には三日月形の装飾の付いた冠を被り右手で緑色の魚が入った皿を持ち、左手は第1、2指を捻じているふんどしだけの人物と、鎧を着て鳥の羽で出来ているような冠を被り、右手は鉞(まさかり)を支え、左手は右側の人物と同じ印を結ぶ人物が描かれている。開いた口には牙が2本見られ、鎧姿であること、武器を持つ事から仏教の天部像にあたるマニ教の尊格であると判断される。2人とも頭光を背負い、武人の方は蓮華座に坐している。肉身には隈を刷き、朱線で描き起こしている。
解説抜粋上図:55 上図は下図の右側に位置し、ふんどしを身に着けた少年が、両手を垂らして画面の枠に持たれ掛かった様に立っている。額に巻き毛があり、細い鉢巻をしている。α寺院址から発見。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集  1991年:朝日新聞社刊:P 178~9  

 

 上図:57   飛天  北魏(439~534年)  莫高窟:第260窟 北壁 説法図伽藍西  解説抜粋:莫高窟北初期の飛天は、腰から足にかけて筆の穂先のように柔らかく流れ、裙と同方向にになびいている帯とあいまって、しなやかに飛翔する流動感を表し、初期の飛天に見られたぎこちなさは消失している。このような飛天の様式は西域から影響を受けたと考えられ、肉身に施された墨染と裙の先端を刀の先のように鋭角に描く表現は、クチャにあるクズル・ガハ石窟に描かれた飛天と共通する。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(一) 1981年:平凡社刊  画像No:59 解説:P237

 

  上図:57  阿弥陀浄土変相部分  初唐(618~712年)  莫高窟:第71窟 北壁  解説抜粋:中尊阿弥陀仏の左脇に侍従する供養菩薩を示し、蓮華座上に坐して上体をひねるもの、あるいは安楽坐をとって頬杖をついて思いをめぐらすなど、その姿勢はいかにも自由で変化に富む。”蛾眉”と形容されるような美しく弧を描いた眉、切れ長の目、やや厚みがあって小さく結んだ唇など、濃淡と肥痩を生かした描線は特筆される。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三) 1981年:平凡社刊  画像No:84 解説:P258

 

上図:58  菩薩立像部分  盛唐(712~781年)  莫高窟:第45窟 西壁龕内南側  解説抜粋:聡敏な青年僧、阿難の姿。腰を軽くひねって、その体つきはいかにも自然で量感にあふれ、人体の構造を的確に把握しているのがうかがわれる。特に顔部は塑像の特徴が発揮された柔らかなモデリングで、伏し目がちの眼差し、鼻翼と唇の両端を切れ込ませたいかにも智慈豊かな面立ちである。唐代前期における彩塑の秀作のひとつに数えられよう。

出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三) 1981年:平凡社刊  画像No:129 解説:P264

 

 

 

  「内陸アジアのルネッサンス」  コンセプト

      最初期の仏教では釈迦は人間の形で表されることはなく(不表現、英:aniconism)であり、仏教のシンボルによって描写されてました。理由については諸説ありますが、主なものしては以下のようなものが挙げられます。
   仏教以前に主流であったバラモン教が偶像を必要としなかったので造像の発想自体が無かった。
    反偶像主義 - 釈迦入滅後数百年間は、「眼に見えるもの、手に触れるものは本質と異なる」という考えが主流であったので、釈迦を表現すること自体が忌避された。
   涅槃に至った仏陀は超人的な存在と考えられたので、象徴的に表現せざるをえなかった。
三十二相八十種好に特徴を全て再現するのが困難、あるいは再現するとグロテスクなものになるため。
 ④ 仏陀の可視的な人体表現が忌避されたことで、暗示的な象徴表現はより一段と洗練されていった
(説話のシーンにおいて他の人物は人間として描かれていたにもかかわらずである)、この傾向は紀元2世紀まで続いた。紀元前3世紀に石像が登場する以前、木像や金属像があったとの仮説もある。

                      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E7%BE%8E%E8%A1%93
 上図:スジャータ―の乳粥供養(左)と降魔成道(右) 1世紀 サータヴァーハナ朝 サーンチー第1塔北門欄楯 釈迦は左端に彫られている菩提樹によって暗示されている。

上図の(スジャータの供養・成道図)の様に釈迦が菩提樹で暗示されたのは、釈迦は美化の対象だったからでしょう。その後の古代仏教美術で、釈迦が人間の姿で表現されるようになってからは、釈迦が女性美で表現されました。此れも(美化される釈迦)として、自然な成り行きに思えます。…白岩理論

 

 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負ってません。この問題は最終章「黙示録」で考察してます。内陸アジアには持続可能な社会の雛型が有史前から連綿と続いています。
 

 
 
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