白岩吉明オフィシャルサイト、山岳写真ネットギャラリー、「内陸アジアの貌・フンザ物語・横断山脈・ウイグルの瞳」「エヴェレスト街道」「チベットのヒマラヤ」「ランタン谷」「黙示録」「

 

 
 
 
 
 

                                 

         内陸アジアのルネッサンス:2

 

                                                              西欧より千年早い美の創造

                古代シルクロード物語

 

                     地獄絵・幽霊が無かったころ

                                                  女性美で仏を表現した時代

上図:1 菩薩立像(部分) 盛唐(712~781年) 莫高窟:第194窟 西壁内南側  解説抜粋:伏し目がちの眼、両端をくぼませ小さく結んだ唇、ふっくらとした両頬など、その豊満な顔立ちはあたかも優れて美しい嫋やかな女性を思わせる。衣裙の上に彩画される花文も、華麗な絹の刺繍を彷彿とさせ、見事である。無駄のない的確な処理も、塑像技法の熟達を示している。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(四巻) 1981年:平凡社刊   画像No:44  解説:P 251~25

 

上図:2 菩薩立像 隋(581~618年) 莫高窟:第420窟 西壁南側  解説抜粋:充実した全体の纏まりと柔らかい肉好きが調和した、敦煌における隋の典型を示している。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(二巻) 1981年:平凡社刊   画像No:62  解説:P 247

 

上図:3 菩薩(部分) 初唐(618~712年) 莫高窟:第57窟 西壁内南側  解説抜粋:概して完結な表現で、墨線を主とした描写で彩色もとりたてて華やかさは見られない。ただその描線は的確で、それぞれの表情や姿態を巧みにとらえ、特に菩薩の開敷蓮華をもつ手指の表現や、細くひかれた眉と切れ長の目による穏やかな面立ちは印象的である。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊   画像No:11  解説:P 244

 

上図:4   壁画断片 頭部のないディガンバラの像   

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「 Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien 」中央アジアの仏教古代後期 vol.

 

上図:5 菩薩立像(部分) 盛唐(581~618年) 莫高窟:第420窟 南壁内東側  解説抜粋:後舖も少なく、ほとんど当初の姿を伝える菩薩像。顔部は角ばったモデリングで、眼窩を広くつくり、まっすぐに伸びた鼻梁、腫れぼったい瞳、深く切れ込んだ口元、隋代菩薩の面貌の典型を示す。肉付けは微妙な起伏までを表現してはいないが、ぜんたいをおおまかにつかんでその動きを良く捉えている。多少の変色・退職はあるものの、造立時の鮮やかな姿を偲ぶことができる。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(二巻) 1981年:平凡社刊   画像No:64  解説:P 247~248

 

上図:6 飛天(部分) 盛唐(581~618年) 莫高窟:第39窟 西壁  解説抜粋:釈迦入滅に際して天上より降下して、これを供養する飛天を示す。それぞれ華盤や蓮茎をとって、彩雲に乗り急降下するさまで、長くなびいた天衣や裙はまことに流道感にあふれる。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊   画像No:151  解説:P 268

 

上図:7 中央アジアの古代寺院の壁画  

出典:アンドリューズ, フレッド・ヘンリ著作「Wall Paintings from Ancient Shrines in Central Asia : vol.2“中央アジアの古代寺院の壁画オーレル=スタイン卿によって発見された”.出版:1948年 

 

上図:8 供養菩薩(部分) 西魏(535~556年) 莫高窟:第285窟 西壁  解説抜粋:ここの供養菩薩は、裙をつけ裸形の上半身に天衣をかけるもの、袈裟をまとうものが交互に並びそれぞれが自由なポーズをとる。細かく強靭な描線が、画工の熟達した腕を思わせる。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(一巻) 1981年:平凡社刊   画像No:115  解説:P 244

 

上図:9  執金剛神  500年頃   キジル石窟(中国編号第77窟)   解説抜粋:左手に持っているのが金剛杵、高く上げてた右手には払子を執っている。彼は上半身裸で、腰衣をまとう他は、さまざまな装身具、たとえば首飾り、耳飾り、瓔珞(ようらく)、ひせん、腕釧(わんせん)などを身に着けており、とりわけ鳥の羽根や垂飾りなどで飾り立てた宝冠は見事である。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 63

 

上図:10 左2点  寺院D. Xで出土した板絵、ダンダン・ウィリク(第九章、第四、八項を参照)   出典:スタイン, マーク・オーレル著作「Ancient Khotan」(古代コータン) : vol.2 P 0137  1907年刊 

上図:11 右  住居址で出土した板絵D. VII. 6 (4/5)の裏、ダンダン・ウィリク(第九章第六、八項参照)

出典:スタイン, マーク・オーレル著作「Ancient Khotan」(古代コータン) : vol.2 P 0133  1907年刊 

 

 

上図:12  観経変相(部分) 舞楽 中唐(781~848年) 莫高窟:第112窟 南壁内東側    解説抜粋:仏前の台上で美しく着飾った1体の舞人が琵琶を背にし、右足を高く引き上げつつ身体をやや右に傾け楽に合わせさも楽しげに舞躍する姿がある。舞人は背後で琵琶を弾じながら琵琶を翻して舞うという極めて難しい技を演じており、これは舞踏史を研究する上からも資料と言わねばならない。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(二巻) 1981年:平凡社刊   画像No:54  解説:P 253

 

上図:13  トルファン古墳群    撮影:白岩吉明

 

上図:14  広目天像と文珠菩薩像  

出典:スタイン, マーク・オーレル著作「The Thousand Buddhas」千仏) vol.1 P:0122  副題:中国西端の敦煌石窟寺院の古代仏教絵画 出版年:1921  出版地:イギリス/ロンドン 巻数:1冊    (解題:敦煌莫高窟将来の仏画を収めた多色刷りの大型図録。スタインはこれらの仏画を第2次中央アジア探検(1906~08年)において収集した。L.Binyonによる論文「敦煌画および仏教絵画に占める位置」と、計48点の仏画に関するスタインの解説を含む)

 

上図:15  大唐西域記(巻第二)1巻 敦煌莫高窟  4世紀 紙本墨書 全巾:28x388.4m   ペリオ探検隊、 1906~09年   解説抜粋:中国の高僧玄奬(602?~664)は貞観3年(629),求法のためインドへと旅立った。中央アジア、カシミールを経てインドへ入り、当時のインド仏教を学び、16年後中国に戻り、皇帝(太宗)の勅命を受けて翌年「大唐西域記」12巻を著した。本書は、旅行中に見聞した地誌で、その正確かつ詳細な内容は、今世紀初めに競って西域を踏査した各国探検隊にとっても極めて貴重かつ有益な資料であった。       

出典:シルクロード大美術展 1996年:東京国立博物館  発行・読売新聞社  画像No:29/p41

 

上図:16  北壁龕頂西側(部分) 菩薩  盛唐(581~618年)  解説抜粋:蓮華に坐する1体の菩薩が、右手で左肘を支え、左手は頬を支えて思惟する姿になり、傍題に”定自在王菩薩”とあるほか,下方の1体にも”大嚴菩薩”と読める傍題が付されている。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(四巻) 1981年:平凡社刊   画像No:31  解説:P 250

 

上図:17  トルファンの深い谷  撮影:白岩吉明

 

上図:18  スウェン・ヘディンの中央アジア探検総覧図  出典:深田久弥「中央アジア探検史」P395

 

上図左:19 ムスターグ・アタ(空撮)        上図右:20 カラコルム山脈(空撮) 撮影:白岩吉明

下図:21  スウェン・ヘディンが登ろうとした「ムスターグ・アタ峰:7500m」  撮影:白岩吉明

上図:22  ヘディンの1893年の3度目のシィルクロード探検路(へディンはムスターグ・アタに登ろうとしたが失敗したとある)  

下図:23  へディン見たであろうカラコルム山脈とタクラマカン砂漠との接合部  撮影:白岩吉明

 

                                    下図:24~27  ヘディンの学術報告書

下図:24 左上 タリム盆地における砂漠・ステップ・森林分布図。       出典:スウェン・ヘディン著作Scientific Results of a Journey in Central Asia、1899-1902 : vol.2」 1899-1902年の中央アジア旅行における科学的成果 : vol.2 P0501

下図:25 右上 東トルキスタン盆地に流れ込む河川の流域図。        出典ヘディン著作Scientific Results of a Journey in Central Asia, 1899-1902 : vol.2」P0655

下図:26 左下 東トルキスタンの人口の分布図。    出典:スウェン・ヘディン著作「Distribution of the Population of East TurkestanP63

上図:27 右下 住居M、楼蘭の建築物が直立して立っているポプラの木、カミッシュの束。  

出典ヘディン著作Scientific Results of a Journey in Central Asia, 1899-1902 : vol.2」P0813   「タマリスクによってどのように建てられたか卓見を示してくれている。中央には一組のドアが開け放たれている。ドアの木枠は、半分は砂に埋もれているが、全体はそっくりそのまま残っている。左手には、ドアのない戸口がある。前景には、砂の薄い層があり、家の風を遮る側に溜まっている。背景には、ヤルダン砂漠の向こう側に広大な景色が広がっている。」        

 
下図:28 カラコルム山脈とタクラマカン砂漠の接合部の空撮図   撮影:白岩吉明

上図:29  如来坐像  8世紀   ホッチョ   解説抜粋:トルファン地方の仏教寺院内のストゥーパに設けられた多くの仏龕(ずし)の中には、塑像が安置されていたと推定される。本像もそのような龕に入れられていたものと考えられる。両手で定印を結んで坐す如来像。定印の結び方は手の甲を外側に向ける特殊なもの。目鼻が下方に寄る西方的なつくりの面影がある。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 141

 

上図:30  ヘディンのスケッチ4点

 

上図:31  文殊変相(部分) 第36窟 南壁西側  五代(581~618年)  解説抜粋:五大には人物の造形に明らかな変化があり、面部は一般に上下につまった丸顔を呈し、賦彩が淡く、かつ明快で潤いに富む一方、線描による造形が強調され、描き起こされた描線は側筆を多用して簡潔かつ強靭である。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(五巻) 1981年:平凡社刊   画像No:25  解説:P 210~211

 

上図:32   ヴィシュヴァンタラ王子本生  7世紀前半  キジル  解説抜粋王子が婆羅門に対して、わが子を布施しているところである。この話は、例えば南伝の「ジャータカ」では最後の547番目に置かれる長い話であるが、2児を渡す場面をもってこの話を代表させることが多い。キジル石窟やクムトラ石窟の壁面では、本図と同様に王子が婆羅門に2児を渡す場面が多い。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P 74

 

上図:33  阿弥陀浄土変相(部分) 第372窟 南壁西側  初唐(618~712年)  解説抜粋:左の白で描く菩薩は、大勢至菩薩。中央の交差脚で坐す、黒で描く菩薩は文殊菩薩。菩薩の顔部や体躯に施される墨染は莫高窟では早期から種々の手法で行われ、変化に富む。初唐に至っては隋代の手法に中厚の新たな染法を加味して、ハイライトから暗部にかけて彩度を漸減させ、より現実的で立体感に富む描写を見せる様になる。菩薩のさまざまな織模様が、入念精緻に描かれてところも興味深い。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊   画像No:56  解説:P 251

 

上図:34 天山山脈(空撮図)    撮影:白岩吉明

上図:35 シルクロード精図と敦煌・莫高窟の位置     

地図出典:「スウエン・ヘディンと楼蘭王国」展・図録・1988年・西武百貨店他

 

上図上:36 敦煌・莫高窟の配置配置図:中央部拡大図

上図下:37 敦煌・莫高窟の配置配置図:全景   莫高窟は鳴沙山東側の崖に全長1.6Km 5層にわたって穿たれた大規模な石窟群。紀元は366年。現存している石窟は492窟、壁画の総面積はおおよそ4万5000平方メートル、塑像は2000尊を越える。       

図面出典:中国石窟 敦煌莫高窟・付属図面 1981年:平凡社刊

 

上図:38 左  絹本著色、千手観音とそれに従う神像を表す、敦煌「千仏洞」より、敦煌(第二十三章第七項;第二十五章第二項を参照)  

出典:スタイン, マーク・オーレル著作「Serindia : vol.4」” 中央アジアおよび中国西端部における探検の詳細報告.”P 0143   

上図:39 右  二観音像    

出典:スタイン, マーク・オーレル著作「The Thousand Buddhas : vol.1」“千仏 中国西端の敦煌石窟寺院の古代仏教絵画.” P 0100 

 

上図の4点:40 敦煌・莫高窟の1907年当時の姿      出典: スタイン「Serindia : vol.2」P0271

 

上図の上:41 敦煌・莫高窟の1951年当時の姿   
上図の42(カラー) 敦煌・莫高窟の現在の姿

 

上図:43  阿難像(部分) 第328窟 西壁南側  盛唐(712~781年)  解説抜粋:プロポーションも良く、特に頭部は適切なモデリングを見せ、仏のかわらにあって静思するその眼差し、意志的な口元など、俊秀の青年比丘の形貌容姿、さらにその気高い精神性までをも巧みに表現している。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊   画像No:116  解説:P 263

 

上図:44  飛天(部分) 第39窟 西壁南側  盛唐(712~781年)  解説抜粋:釈迦入滅に際して天上より降下して、これを供養する飛天を示す。華盤や蓮茎をとって彩雲に乗り急降下するさまで、長くなびいた天衣や裙はまことに流動感にあふれている。虚空には天華が満ち、赤や緑など五色に彩られて、釈迦の涅槃は荘厳にしてこの上ない。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊   画像No:150  解説:P 268

 

 

上図左:45   人物立像龕 木造彩色  8世紀  ホッチョ   解説抜粋:この2人の人物が誰かという図像的解釈は大変難しい。向かって左の人物が右手に槍を持ち、下半身に短い褌を穿くことからこれをバーンチカと見、手をつなぐ右側の人物をその妻ハ―リティ(鬼子母神)とする見解があが断定は出来ない。

上図右:46   比丘形坐像龕 木造彩色 9世紀  ホッチョ  解説抜粋:縦長のストーパ形をした開閉式の仏龕に収められた剃髪の比丘像で、左足を踏み下げにして坐している。右手は胸前に挙げて珠をもち、右手は腹前に構える。尊名は分からない。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示集 1991年:朝日新聞社刊 画像・解説:P190,191

 

上図:47  トルフアンの城跡    撮影:白岩吉明

上図:48  供養者  壁画  7世紀後半  キジル  解説抜粋:供養者がひざまずき、褐色の布切れを持った左手を振り上げている様子を表す。供養者はもじゃもじゃの頭に頭巾状のかぶりものをつけ、上半身裸で、緑色の領巾をまとい、腰に灰色の裳をつけている。本図は、地味な画風が特徴で、キジル石窟壁画が様式化され、華麗となる以前の制作と考えるのが妥当の様だ。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P84


上図:49  トルフアンのストーパ    撮影:白岩吉明

上図:50  マニ教徒  壁画 8~9世紀  ホッチョ  解説抜粋:白い円盤状の前飾りのある冠をつけ、後ろに白い布を垂らしている。まん中で分けた髪の毛を肩まで伸ばし美しいもみあげのカールを見せる。よく似た表情の3人の女性像の部分で、耳飾りだけをつけている。目の周囲や、唇、眉毛に用いられた墨線が印象的だ。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P168


上図左:51    飛ぶアプサラ(天女)FLIEGENDE APSARA.  

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「 Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien 」 vol.5 p0085“中央アジアの仏教古代後期プロシア王国トゥルファン探検隊の成果."

上図右2点:52   仏陀涅槃図中の嘆く僧侶   

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「 Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien 」vol.5 p0079“中央アジアの仏教古代後期プロシア王国トゥルファン探検隊の成果."

 

上図:53  祈願図部分  壁画 9世紀 ホッチョ  解説抜粋唐草文の外周を持つ円形頭光を負い、天衣、装身具、着物や身のこなしなど、すべてが優美だ。向かって右の尊格は、高髪に結い上げた茶色の髪の毛に花を挿し、冠はつけてないが、頭光を負って体を少しひねって左下に両手を伸ばしており、つま先立ちした左足が裳の裾から見える。
出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P174

 

上図:54  黄砂に煙るタクラマカン砂漠・不毛の台地にもタマリスクは生きる   撮影:白岩吉明

 

上図左:55   菩薩半身像  塑像彩色  8世紀  ヤ―ホルト   解説抜粋:火災にあったらしく全身にわたって黒ずんでいる。表情豊かで愛らしい顔貌で、豊かな頭髪を掻き上げ、少し左に向けた顔はよく張る。細い弧をなす眉、吊り上がり気味の目、笑みを含む口もとなど、実に生き生きとした表情である。特殊な表情と技法に注目される。

上図右:56   女性立像 塑像彩色 8世紀  ショルチュク  解説抜粋ショルチュクのナクシャトラ遺跡からの発見、背面に翻る天衣の裙が膝前で括られているのは珍しい表現だ、まるく張った顔貌はショルチュクの特徴である。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示集 1991年:朝日新聞社刊 画像・解説:P145,139  

 

上図右:57   天部頭部  塑像彩色 7世紀 ホッチョ 解説抜粋:ホッチョはシルクロード東部に位置し、中国に近いトルファン地域に属するが、本例の様に中国的要素がまったくない作品も存在する。急な弧を描く眉や吊り上がり気味に半眼となる目等に見られる様に、顔貌はキジルによく見られるような西方風だ。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊  画像・解説:P196

 

上図:58  菩薩立像(部分) 第197窟 西壁龕内南側  中唐(781~848年)  解説抜粋:大妙菩薩と推定される脇侍菩薩。ふっくらとした面立ちに、くっきりとした眉、端正な眼を刻み、いかにも落ちついた荘重なたたずまいである。いくらか稚気を含んだ健やかな造形は、優れた芸術作品だ。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(四巻) 1981年:平凡社刊   画像No:52  解説:P 253

 

上図左:59   如来坐像  塑像彩色  8世紀 ホッチョ   解説抜粋:両手で定印を結んで坐す如来像、定印の結び方は手の甲を外側へ向けた特殊なもの。小さめの肉髪をあらわし、毛筋は刻まれず、耳朶は長い、納衣を首元で巻く通肩にまとう。面相は補修が目立つが、目鼻が下方に寄る西方的なつくりの面影がある。衣の表に金箔を押し、裏面には緑を塗る。

上図右:60   天部頭部 塑像彩色 7世紀  ショルチュク  解説抜粋:頭頂に髪飾りを付け、額中央の髪がガンダーラ仏の様なアーモンド形となるのはショルチュク地方に多い。本例の様な図像的な特徴のない菩薩または天部形像はこの地域で多数発見された。

出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集 1991年:朝日新聞社刊 画像・解説:P199,1132

 

上図左2点:61   破壊された壁画に描かれた頭部KÖPFE AUS ZERSTÖRTEN WANDGEMÄLDEN

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「 Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien 」 vol.5 p0073 プロシア王国トゥルファン探検隊の成果.  

上図右:62   天井画の仏像BUDDHABILD AUS EINEM DECKEN-GEWÖLBE  

出典: 画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「 Die Buddhistische Spätantike in Mittelasien 」vol.5 p0083“中央アジアの仏教古代後期"

 

上図:63  高昌古城墳墓群    撮影:白岩吉明

下図:64  高昌古城復元想像図(部分)   出典:シルクロード紀行no3 トルフアン・朝日新聞社刊 

 

上図:65  菩薩立像(部分) 第248窟 方柱西龕南側  北涼(421~439年)  解説抜粋:袈裟を通肩にまとい合掌するポーズでほとんど直立の、動きに乏しい姿勢や、端正な容貌だ。衣に施された摺襞や合掌する手など、いくぶん粗い手法であるが、顔部は細やかな泥塑を用いて入念につくられ、成形の後に髪際、眉、服に仕上げの描線を施している。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(一巻) 1981年:平凡社刊   画像No:82  解説:P 240

 

上図:66  比企 第99窟 南壁龕奥壁部分 五代(906~960年)  解説抜粋:主尊の右脇という位置にや青年比企の姿から、常に釈迦に侍従し、多聞第一とされた阿難をあらわすに違いない。熟達したのびやかな描線が、誠実でしかも該博な智慧を内に秘めた阿難の資質を充分にえがきだしている、

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(一巻) 1981年:平凡社刊   画像No:35  解説:P 212

 

上図:67  供養菩薩  第220窟  西壁龕頂南側  初唐(610~712年)    解説抜粋:第220窟は残された経変がすこぶる完好でしかも作柄の優れたことで知られているのみならず、特に貞観16年(642)の墨書題記を有することで、その開闢時期を推知しうる初唐期の石窟として格別重要である

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(三巻) 1981年:平凡社刊   画像No:22  解説:P 245

 

 

下図:68 比企 部分 第427窟 方柱西龕内北側  隋(581~618年)  解説抜粋:阿難像である、特に優れた作柄を示す。釈迦の従兄であり、十大弟子のひとりとされる阿難は、聡明にして特に記憶に優れ”多聞第一”とも称されたが、この像は、釈迦に従いその説法を聴聞する俊秀の青年比丘をほとんど理想化して表現しており、すがすがしい眼差しや、引きしまった口もとなどは女性的美しさすら感じさせる。

出典: 中国石窟 敦煌莫高窟(二巻) 1981年:平凡社刊   画像No:54  解説:P 246

 

 

                         

    「内陸アジアのルネッサンス」  コンセプ

   余談:1 仏教誕生当時の思想世界

人類は紀元前4~500年代に新思想家を生みました。ギリシャではソクラテス・ピタゴラス・プラトン・アリストテレス。インドでは仏陀。中国では孔子・老子・孟子・荘子等です。彼らはに共通するのは、新社会・人間解放へのテーゼです。此処でテーマの仏陀の思想も、其れ迄の、奴隷制社会からの解放・迷信からの解放が主眼です。下記は仏教誕生前の古代インドの、奴隷制を基盤とした、宗教世界を図示したものです。

 

          

            余談:2 仏教誕生前:古代インドの宗教世界

       

注:1  「ヴェーダ」とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。
「ヴェーダ」は「知識」の意。バラモン教とヒンドゥー教の聖典である。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが後世になって書き留められ、記録されたもの。期間: c. 1500–1200 BCE (リグ・ヴェーダ), c. 1200–900 BCE (ヤジュル・ヴェーダ, サーマ・ヴェーダ, アタルヴァ・ヴェーダ)

注:2  「ダルシャナ」(インド哲学)の学派。現代ではシャド・ダルシャナ(六派哲学)の1つに数えられる。ヴェーダとウパニシャッドの研究を行う。古代よりインド哲学の主流であった。「ヴェーダンタ」の語源はveda と anta (終わり)を掛け合わせたもので、ヴェーダの最終的な教説を意味し、ウパニシャッドの別名でもある。

注:3  「ウパニシャッド」とは、紀元前7世紀に遡る古代インドで著された哲学書の総称。 その内容は、宇宙の根本原理・輪廻転生・解説・カルマ(業)等々多岐にわたり、輝やかしいインド精神文化の源泉として不滅の価値をもつ。 膨大かつ難解な原典の中から碩学辻直四郎博士が、理解のための核心となる精髄を摘出して平明に解説した。

注:4  「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」はインドの二大叙事詩と称され、ヒンドゥー教における最も重要な聖典の
一つとされています。 現在でもインドでは愛読されており、中でもバガヴァッド・ギーターは絶大な人気を誇り、世界中で様々な言語に翻訳されています。
『マハーバーラタ』(サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhāratam) バラタ族にまつわる大叙事詩。バラタ族とは物語の中心となるクル族の別称である。『ラーマーヤナ』とともにインドの二大叙事詩と称され、ギリシャの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』としばしば比較される。第6巻にヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』を含む。インドの古典語であるサンスクリットで著され、その94%がシュローカ(8音節×4韻脚)と呼ばれる韻律によって構成されている。

注:5  「ギーター」とはサンスクリットで詩を意味し、 バガヴァン の詩、すなわち「神の詩」と訳すことができる。
『バガヴァッド・ギーター』は パーンダヴァ 軍の王子 アルジュナ と、彼の導き手であり御者を務めている クリシュナ との間に織り成される二人の対話という形をとっている。 ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』は、700行 の韻文詩からなるヒンドゥー教の聖典のひとつである。ヒンドゥーの叙事詩『マハーバーラタ』第6巻にその一部として収められており、単純にギーターと省略されることもある。

注:6  「プラーナ」呼吸、息吹などを意味する言葉プラーナ は、サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。インド哲学では、同時に人間存在の構成要素の1つである風の元素をも意味している。そして生き物 の生命力そのものとされ、やがてその存在はアートマンの根拠にまで高められた。

注:7  「サンヒター」(梵: Saṃhitā、ヒンディー語:संहिता)とは、 ヴェーダにおける認識の用語。リシ(認識の主体、見者)・デーヴァター(認識の過程、神々)・チャンダス(認識の客体、韻律)の3つが1つになった状態。ヴェーダ文献において「本集」のこと。本項で詳述。サンヒターとは、ヴェーダの元々の本体部分のこと。これに付属するブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッドといった注釈・解説、思想哲学部分と区別するために、この呼び名が用いられている。本集とも訳される。

 

 

 

 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負ってません。この問題は最終章「黙示録」で考察してます。内陸アジアには持続可能な社会の雛型が有史前から連綿と続いています。
 

 
 
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