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  ウイグルの瞳:2    カシュガル・旧市街

 

                                                                              カシュガル旧市街

カシュガル市旧市街地には高台民居、エイティガール民俗文化観光地(艾提尕爾民俗文化景区)、香妃の里(香妃故里旅遊景区)などの観光地があります。
カシュガル市旧市街は今のカシュガル市の東側から20キロメートルくらい離れているハノイ(汗偌依)古城に位置し、昔は「疏勒(そろく)」と呼ばれたことがあり、二千年の歴史があります。そこは自然の風景が綺麗なだけでなく、民俗と建築様式も興味深いです。古い泥道に横丁があり、広いほうはロバ車が通れ、狭いほうは二人が肩を並べ歩けません。長いほうは600メートルであり、短いほうは50メートル進めばもう出口が見えます。曲がりくねった横丁はあちこち進む方向を変え、四方八方に通じており、まるで『水滸伝』の祝家荘にある磐陀路のようです。横丁の両側にはウイグル民家が並んでいます。
民家の殆どは2~3階建ての建物であり、骨組は木造で壁は土で版築し、地下室を持つものもあります。居間、寝室などは木造りの階段で繋げられています。門並みに屋上の物干し台があり、小さな庭も備えています。盆栽や花は柱、木彫りと軒蛇腹にある紋様と互いに照り映え、優雅で美しい限りです。二つの横丁の交差点で時折には道を跨り建てられたポーチのような建物があり、古風で素朴です。ツリキ巷(孜里其巷)のとあるウイグル家族の家はこの旧市街地の一番高いところに建てられているらしいです。玄関に入り階段を上がり屋上に行くと町全体が見え、まさに「一覧して衆屋を小とすべし」のように、遠くにある高層ビルも足元で見えます。
旧市街地の横丁の名前は全部ウイグル語の旧称をそのまま受け継いだものであり、名前は各自違う意味を持っています。例えば、チャサ街道弁事所(恰薩街道辦事処)のヤグバザー(亜格巴扎)は「食用油の売り場」の意味であり、コズキヤベシ(闊孜其亜貝希)は「陶工」、ザグレ巷(再格来巷)は「金銀細工師の集まり住んでいるところ」、そしてヤワグ街道弁事所(亜瓦格街道辦事処)の受け持ち区域のブラクベシ巷(布拉克貝希巷)の「ブラクベシ」はウイグル語で「泉」を意味しています。町の街道の名前に沿って城内で観光すれば、カシュガル故城内の既に無くなった建物の位置と古代の時の品物の交換や売買を行う市の居場所が伺われます。
他に、前の話で触れた「ブラクベシ巷」は環状の横丁であり、名前は中心部で湧き出し穴が九つある泉つまり九龍泉に因んだものです。また、漢代の名将耿恭がここで井戸を掘り喉の渇いた兵士たちに水を渡り匈奴を撃退した美談があるため、この泉は「耿恭泉」とも呼ばれています。
エイティガールモスク(艾提尕爾清真寺)
エイティガールモスク(ウイグル語:Héytgah Meschit)は新疆カシュガル市(喀什市)にあり、中部アジアで最も影響力を持つ三つのモスクの一つです。
エイティガールモスクは1442年に建てられ、新疆ひいては中国で最大のモスクであり、中国国内にだけでなく、国外の宗教界にまで大きな影響を与えており、自治区重点文物保護単位に指定されています。このモスクはカシュガル市の中心部にあるエイティガール広場(艾提尕広場)の西側に位置し、敷地は16800平方メートルくらいの広さがあります。モスク自体は西側にあって東向きであり、入口の塔、庭園、経蔵と礼拝殿からなり、建築様式が民族的と宗教的な特徴を強く感じさせます。
此処は元々中央アジアを征服したアラブ人の将軍クタイバ・イブン・ムスリムが残したイスラム宣教師の墓場であり、1442年にカシュガル王のサクシズ・ミルザによってモスクが建てたのです。1538年に当時のカシュガルの支配者であるウブリ・アディクが亡くなった叔父様を記念するためこのモスクを増築してもらい、16世紀にヤルカンド・ハン国の君主によるさらなる増築が行われ、金曜日の大礼拝(Jumu'ah)ができるほどの大モスクになりました。1798年、イェンギサール(英吉沙)のウイグル族ムスリム女性グリレナ(古麗熱娜)がパキスタンに行く途中、カシュガルで病没しました。彼女が残した旅費でこのモスクは更に増築され、「エイティガール」という名前が与えられました。その後はクオリピアハンというウイグル族女性財産家によってエイティガールモスクがもう一度増築され、40万平方メートルの畑を金銭と共にモスクに寄付しました。
今ここは新疆全てのムスリムが礼拝にくる場所になり、毎日2~3千の信者が訪れており、金曜日の大礼拝には男ムスリムが6~7千人に達しています。イード・アル=アドハーの時には、新疆各地からムスリムがここで集まり、夜を徹して祝祭をします。
香妃墓
香妃墓はカシュガル市(喀什市)から東へ5キロメートル離れているコガン村(浩罕村)に位置し、新疆ウイグル族自治区重点文物保護単位として登録されています。香妃墓は典型的な古代イスラム建築群であり、イスラム教聖人の後裔の陵墓でもあり、敷地の広さは4.8万平方メートルです。中には五世代にわたる一族、計72名がここに葬られていると言われていますが、実際に見つかった墓の穴の数は58つしかありません。1代目の墓には有名なイスラム宣教師・ユスフホガの遺体が保存されています。ユスフホガの長男であるアパク・ホージャが父の遺志を継ぎ、のちに明末清初時代のカシュガルにおけるイスラム教のイシャン派(依禅派)の大師になりました。ヤルカンド・ハン国の統治者ともなったアパク・ホージャの厚い人望が故、1693年の彼の死去によってここは「アパク・ホージャ墓」と呼ばれることになりました。伝説によると、彼の末裔には清代の乾隆皇帝の妃になったパエルカンという名前の女性があります。彼女の身体から沙棗の香りがするから「香妃」と呼ばれており、亡くなった後は兄の妻の蘇徳香がその遺体をカシュガルに持ち帰り、このアパク・ ホージャ墓に埋葬したと言われ、それに因んでここは「香妃墓」とも呼ばれています。だが、学者の調査によると、香妃は此処に埋葬されておらず、河北省遵化市の清東陵の中にある裕妃園寝に眠っているそうです。
エイティガール民俗文化観光区(艾提噶尔民俗文化旅游区)
エイティガール民俗文化観光区はカシュガル市(喀什市)北西側の疏附県欄杆郷沙依四村に位置し、カシュガル市から16キロメートル離れています。該当観光区はエイティガールモスクとその周辺にある古い市街地の潜在的な観光資源で構成されており、主な観光スポットはエイティガールゴールドアクセサリー専門商店街(艾提尕黄金首飾一条街)、お土産専門商店街(民俗産品一条街)、エイティガールモスク、エイティガール広場、観光塔、カシュガル民俗博物館などあります。
エイティガール民俗文化観光区は中国の観光地等級AAAA指定箇所であり、全国重点文物保護単位リストに登録されています。エイティガールモスクは観光区内の主要観光スポットです。エイティガールモスクは明朝正統7年(西暦1442年)くらいに建てられ、中華人民共和国が成立してから毎年、メンテナンス作業が行われています。1983年にはトイレ、清拭ルーム、浴室などの施設が増設され、ムスリム衆の正常の宗教活動に便宜を図りました。1997年から2003年にかけて、政府が提供した1.7億元の資金で、エイティガールモスクの大規模な改修工事が行われ、周りにあるエイティガール広場、ゴールドアクセサリー専門商店街、お土産専門商店街、観光塔、カシュガル民俗博物館などの観光スポットも増築・改築されました。
エイティガールはウイグル語で「最高級のモスク」を意味しており、自然に「祝日に人が集まる場所」になりました。最初は小型のモスクに過ぎませんでしたが、1538年に行われた増築により「ジャーマー・マスジド(その地域における主要なモスク)」になりました。18世紀後期になり、ズリフェアという名前の婦人とグリレナと呼ばれる女性が自分の全財産をこのモスクに寄付したことに因んで、このモスクは1798年に「エイティガール」という名前を与えられました。
エイティガールモスクの他には、エイティガールゴールドアクセサリー専門商店街(艾提尕黄金首飾一条街)というカシュガル市最大なゴールドアクセサリーの売り場もあります。そしてお土産専門商店街(民俗産品一条街)には様々な歴史文化財と民族特色のある製品が見られます。自分の手で工芸品を作ることもできます。エイティガールモスクの前にある広場はカシュガルのムスリムの日常活動が伺われます。観光塔に登ると観光区全体の景色が見えるだけではなく、カシュガル旧市街地にある高台民居も見られます。

 出典:  https://www.travelxj.cn/TravelXJ/Multilingual/ja-jp/Scenery/86cd0a93462c4cc329fb3cb0987052d6.html

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負ってません。この問題は最終章「黙示録」で考察してます。内陸アジアには持続可能な社会の雛型が有史前から連綿と続いています。
 

 
 
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