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横断山脈:8

茶葉古道・世界遺産

麗江:3

お茶談議   出典:click
 中国茶は、「漢方は2500年。茶は4000年」といわれる程、長い歴史を持っています。古くから様々な形で楽しまれてきた中国茶は、歴史と共に形を変化させながら一般市民へと普及していきました。その中国茶発展の歴史をご紹介します。
 お茶の習慣が広まった唐時代
 お茶の習慣が広まったのは、618~907年の唐の時代であると言われています。この時代のお茶は餅茶(へいちゃ)と言われる、蒸したお茶を乾燥させたものでした。中国茶の栽培は中国全土で行われていたそうですが、運搬に便利な固形茶が多かったようです。この時代に中国茶を飲む習慣が中国全土に広がったと考えられています。
 世界最古のお茶の教本と言われる「茶経(ちゃきょう)」が記されたのもこの時代と考えられています。「茶経(ちゃきょう)」は陸羽(りくう)によって書かれたものであり、中国茶の入れ方や飲み方、産地、茶道具、産地まで記載されています。
 嗜好品として発展した宋時代
 宋の時代には、お茶は嗜好品として広まっていきました。これまでは王族や貴族が楽しむものでしたが、役人や文人などの市民の中でも富裕層に広がり、中国茶を楽しみながら詩を吟じたり書を嗜んだりしたと言われています。お茶の楽しみ方にも広がりを見せ、お茶や茶器の良し悪しやを競う「闘茶」も盛んに行われました。日本の抹茶のような飲み方も行われ始め、餅茶(へいちゃ)の製法もより複雑となっていき、片茶(へんちゃ)や団茶と呼ばれるようになりました。
 中国茶の種類
 花茶が生まれた明時代:明の時代に入ると、中国茶はさらに広がり、お茶を飲む習慣が一般市民へと普及していきました。中国茶の主流が変化した時代でもあり、これまで親しまれてきた団茶は製造にかかる手間が大きく、お茶本来のおいしさが損なわれる製法であることから、初代皇帝から禁止令が出されました。
 そこで主流となった中国茶が「散 茶」です。製法もこれまでの蒸し製法から釜炒り製法が主流となっていきました。残った団茶を楽しむ為にジャスミンの花の香りなどをつけた「花茶」が生まれたのもこの時代です。
中国における喫茶   出典:click
 中国では「茶」は「茶 ちゃ chá」とも「茗 めい míng」とも呼ばれる。唐代に陸羽が著した『茶経』によれば、神農の時代からお茶が飲まれてきたと言われている。漢の時代に書かれた詩にお茶を表す文字が見られ、それが最古の文献と言われている。当時は、嗜好品というよりも薬としての役割が強く、次第に羹のような食べ物としても利用されるようになった。茶の飲用は魏晋南北朝時代に今日の四川省の辺りで始まり、次第に周辺地域に広がった。隋・唐代には、お茶を火にかけ煮出す方法や、抹茶、煎茶など、さまざまな楽しみ方がされ、同時に茶器の原型といわれるものが多数考案された。唐代には喫茶の風習が北方民族に広まり、茶と馬を交換する茶馬交易が始まるなど、茶は重要な産物として扱われるようになった。宋代に入って、お茶の新しい製法が次々に考案され、茶の種類が大幅に増えた。この時代、闘茶などの遊びも考案された。お茶が主要な輸出品となった。 わずかしか生産されない初芽を使った新茶は、かつては皇帝に献上され、いまは国家指導者のためと外国来客の接待用に北京へ直送されたという。 明代に入り、朱元璋が1391年(洪武24年)に福建省において団茶の製造禁止を発令し、中国の喫茶法に変化が生じた。固形茶が廃れ、散茶をお湯に浸して抽出する泡茶法が主流となる。それに応じて茶器のなかでも点茶器が廃れ、茶壺など泡茶器の重要さが増した。清代、茶器が現在使われている茶器とほぼ同じ物になった。
 

 

 下図:茶の運移。 1908年、四川省   出典:click

 ラルフレポ - Flickrの:お茶、四川省盛、中国[1908アーネストH.ウィルソン[復元]で積まれた男性。オリジナルは、アーネスト・ヘンリー・ウィルソンの写真でも見ることができます:お茶を積んだ二人の男、四川省中国、ハーバード大学の1908年のサイト(ライセンス:「著作権© 2006年、ハーバード大学の学長とフェロー、アーノルド樹木園アーカイブ;all rights reserved")。   タイトル:お茶を積んだ二人の男、四川盛中国、7月30日[1908] EHウィルソン[復元]いくつかの傷や斑点を除いて、ほとんどレタッチされていません。マイナーなコントラストとセピア調が加わりました。オリジナルはハーバード大学図書館の常設コレクションにあり、タイトルを使用してVisual Information Access(VIA)検索システムを使用して見つけることができます。アーネスト・ヘンリー・"チャイニーズ"・ウィルソンは、1899年から1918年にかけて極東を広く旅した探検家植物学者で、種子の標本を収集し、ジャーナルとカメラの両方で記録しました。彼の名前を冠したアジアの植物は約60種です。彼の最も有名な写真の1つは、同じくアジアで働いていた別の伝説的な植物学者(ジョセフ・ロック)のものと何度も誤って考えられてきました。 ウィルソンの個人的な表記から(スペルミスあり): 「チベットのための「レンガのお茶」を積んだ男たち。一人の男の荷物の重さは317ポンドです。もう一人は298ポンドです。男性はこのお茶をどこまで運ぶのか。

 茶馬古道(ちゃばこどう)とは  出典:click

 雲南省で取れた茶(磚茶)をチベットへ人および馬で運んだことから名付けられた交易路である。7世紀の唐や吐蕃の時代にはすでに交易が始められ、20世紀中ごろが流通の絶頂期と言われていて、毛沢東が自動車道を雲南に作るまでこの茶馬古道は使われていた。関連する交易路も含め、西南シルクロード(Southwest Silk Road)[1]、南のシルクロード(Southern Silk Road)とも呼ばれる。雲南省南部の易武が起点。途中、景洪市やプーアル、那柯里などのメコン川沿いで寝泊まりしながら雲南省を北上し、虎街では町の真ん中を茶馬古道が通っている。その後、雲南の最初の王国・南詔国の都・巍山から大理を経由し、麗江市からは長江沿いを行き、ガダン・ソンザンリン寺院などを経由しながら雲南を出る。チベット 、ミャンマー 、ネパール 、インド などへ抜ける幾つかのコースがある。四川省を起点とするコースも含める[2]。主な交易品は雲南地域より塩、茶、銀製品、食料品、布製品、日用品など。チベット地域より毛織物、薬草、毛皮など。チベットを経由してインド・ネパールで生産されたの物資も雲南に届いたと言う。茶馬古道の要衝といわれる有名な都市にラサ、徳欽、迪慶、昌都、芒康、麗江、大理、思茅などがある。
 


 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負っていません。でした。今は状況が変化してます。この問題を4章「黙示録」で考察してます。21世紀以降の急速なグローバル化(市場経済化&軍事化)は環境破壊と共に、この地にも押し寄せてます。