白岩吉明オフィシャルサイト、山岳写真ネットギャラリー、「内陸アジアの貌・フンザ物語・横断山脈・ウイグルの瞳」「エヴェレスト街道」「チベットのヒマラヤ」「ランタン谷」「黙示録」「

 

 
 
 
 
 

白岩吉明オフィシャルサイト

横断山脈:4

ミニアコンカ

牛背山:1

上図3点:黎明のミニアコンカ   下図:高度14.3Kmから見たこの地の衛星画像

上図2点:撮影地の牛背山からの雲海展望    出典:click
牛背山は、四川省雅安の三合郷にあり、成都から270キロで、山頂上の展望台は海抜 3666メートルです。頂上にある岩は、牛の背部のように見えるために、それは牛背山(ヤク山)と呼ばれています。センター内の一意の地理的な場所に山々に囲まれている牛背山は、四川からチベットに向けて、高山山系の入り口に当たるが、牛背山の頂上から、西はミニヤコンカ山(貢?山7556メートル)と二郎山を始めとする高山系で、北は四姑娘山で、東は、峨眉山で、ダイナミックな360度の大展望台を楽しむことができます。牛背山で四川省の名峰を眺望しながら撮影することで、「中国の最美山景展望台」と呼ばれたことで、完璧な写真撮影の聖地と言われます。
チベット高原の東に位置する牛背山地域は、中国の中でも特に美しいところで、金沙江、瀾滄江、怒江、大渡江、雅龍江、岷江の6本の大河が深い峡谷を刻んでいます。この地には、古くからチベット族をはじめさまざまな民族が居住し、長い歴史を秘めた魅力あるエリアです。牛背山はアジア最高の展望地といわれ、山上部からはミニヤコンカ(7556メートル)をはじめ、6000メートル以上の山は7つ、5000メートル以上の山はかずかず、四川省の名峰はほとんどご眺望ができます。また季節によって、景色も異なります。

牛背山の見所は、日の出、雲海、夕焼けなどです。頂上までは、四駆車であれば登ることができ、頂上は広くテントを貼ることができ、展望台で周囲の山々を眺めっています、その展望台はミニヤコンカ山をはじめ複数の高山をを眺望することができます、いわゆるアジアの最高の展望台です、絶景です。壮大な滝雲、人々 小、雲の上を飛ぶしたいの意味を感じた、雲は、海の上で流れるようで、雲の盆栽といわれ、雲の界、滝のようです。ローリングヒルズ雲の渦に巻き込まれた海は、別の魅力を追加した優位性の表示をしています。牛背山の朝日は、非常に壮観です。朝は日の出も素晴らしいで、朝日が無限の空に昇り、鮮やかな色、色は明るく、素晴らしい景色です。夕方の時、牛背山の夕焼けも素敵な見所で、山頂上からは、大きな画像のきずな美しい景色で、蜀山の王ー最高のミニヤコンカ山も現しています。牛背山の周りには、素晴らしい展望台は、四人同と矯頂山と王崗坪と二郎山紅岩頂などもあり、同じに、雲海、日の出などは、壮観です。

上図:海子山    下図:高度31Kmから見たこの地の衛星画像

出典:click ミニヤコンカは中華人民共和国四川省カンゼ・チベット族自治州に位置する大雪山脈の最高峰。由来は、ミニヤ国の白い山という意味。中国語表記は貢嘎山(日本では代用漢字で貢嗄山と表記することが多い、コンガ山、またはコンカ山)。標高7,556メートル。冬虫夏草をはじめとした貴重な薬草の採集地として知られ、麓の倒栽沖には唐代に皇帝から「薬王」の名を授けられたという孫恩妙を祀る廟がある。 ヒマラヤ山脈の各峰の標高が正確に測定される前は、標高9,220メートル(30,250フィート)とされ、世界最高峰に位置づけられたこともあり、古くから登山の対象となっている。しかし、急峻なうえにピークが不明瞭で遭難者から「頂上に騙された」と評されるほどの地形不明確な山頂、目まぐるしく変化する天候のために登頂に成功した者は20名に満たず、世界でも屈指の難峰となっている。
1981年には北海道山岳連盟登山隊8名の滑落死事件があり、2011年現在、日本人海外遠征隊での最大の犠牲者数である(行方不明者を含めた場合1991年に雲南省の梅里雪山で11人の日本人が犠牲になっている)。
1982年には日本の登山隊2名が遭難し、その中の1人である松田宏也が19日後に奇跡的に生還した。
登山史
1879年 - ベラ・スチェチェニー伯爵の遠征隊による最初の測量が行われ、7,600メートル(24,936フィート)と測定された。当時の名称は「ボー・クンカ」とされている。
1929年 - ジョセフ・ロックによる探査行が行われ、標高7,803メートル(25,600フィート)と算出された。
1930年 - 広東の中山大学遠征隊(アーノルド・ハイム隊長)による測量が行われ、7,700メートル(25,262フィート)と算出。これとは別にジャイアントパンダの調査のためにこの地域を探査したルーズベルト兄弟は疑問符付きながら9,144メートル(30,000フィート)と報告した。
1932年10月28日 - アメリカ隊のリチャード・バードソル、テリス・ムーアの二名が初登頂。バードソルは指に重度の凍傷、最終キャンプを守っていたエモンズも足の指を全て切断する重度の凍傷を負う。
1957年 - 中国隊が登頂、山頂に「缶」を埋めたとされるが、下山中に3人が転落死。
1980年 - 山域周辺への外国人立入禁止措置が解除、以降、各国の登山家が登頂を目指す。
1981年5月24日 - 北海道山岳連盟登山隊8名が滑落死。
1982年5月 - スイス隊が北西稜ルートで登頂。
市川山岳会登山隊2名が遭難。山頂直下で無線機が故障したためサポート隊員が下山中のアタック隊員を遭難死と誤認。前進キャンプをすべて撤収してしまったため、体力が回復できないまま菅原真隊員が行方不明となり、松田宏也隊員は遭難から19日後に薬草採集のためベースキャンプ近くを訪れたイ族の住民に救出され生還した。5ヵ月後、遺体捜索に向かった市川山岳会のメンバー1名が高山病で死亡。10月 アメリカ隊が北西稜ルートで登頂
1984年10月 - ドイツ隊が北西稜ルートで登頂。
1994年 - 日本ヒマラヤ協会隊の4名が行方不明。
1997年5月2日 - コンカ山登山隊(芳賀正志隊長)横山英雄、長原孝友が北西稜ルート登頂(日本人初登頂)。
1998年11月 - 韓国隊が北東稜ルートで初登頂。下山中に一人が墜落死。
2006年 - 韓国隊が1981年に遭難死した北海道山岳連盟登山隊の遺体を発見、翌年回収された。

2009年 - アメリカ隊の3名が燕子溝氷河を挟んだ向かいにある愛徳加(エドガー)峰に向かう途中で遭難。


 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負っていません。でした。今は状況が変化してます。この問題を4章「黙示録」で考察してます。21世紀以降の急速なグローバル化(市場経済化&軍事化)は環境破壊と共に、この地にも押し寄せてます。