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チベットのヒマラヤ:3

ジュガール・ヒマール

図はシシャパンマ(8027m)。標高5000mのシシャパンマBCよりの景観。シシャパンマの名称は、以前はインド測量局の命名でゴサイタン(Gosaintan)と呼ばれていた、意味する処は「聖者の居所」だ。現在はチベット語のシシャパンマだ、意味は「生き物も死に絶え、植物も生えない荒涼とした不毛の地」で、言い得て妙成る名称だ。
 

上図2点   シシャパンマ(Shishapangma)8027m 
シシャパンマ(Shishapangma)またはゴサインタン(ネパール語: गोसाईथान Gōsāīthān)は、ヒマラヤ山脈にある山。標高は8027 mで世界第14位。
概要 シシャパンマとはチベット語で「牛も羊も死に絶えて、麦も枯れる地方」の意味。ゴサインタンはサンスクリット語由来で「神の座」を意味する。全部で14座ある8000メートル峰の中で、完全に中華人民共和国領内(チベット)にある唯一の山である。また8000メートル峰の中で、世界で最後に登頂された山である。なお標高に関しては8012 m、または8013 mとする資料もある。
登山 1964年5月2日の初登頂は人類にとって最後の8000 m級処女峰への登頂で、中国の許競隊長以下総勢10名は午前6時前に標高7700 mのキャンプを出発し、午前10時20分(日本時間・同日午前11時20分)に山頂へ到達した。北側のノーマルルートから登る場合、主峰の前に中央峰(8008 m)に登ることになる。主峰に登るには中央峰からナイフリッジを進むか、中央峰の下から雪崩の起きやすい斜面をトラバースする必要がある。この部分がノーマルルートの核心部になる。中央峰の到達をもって登頂を主張する登山者が少なからずおり、各国の山岳会や認定機関などの記録と登山者の主張に食い違いが見られる事がある。
登頂暦
1964年5月2日 - 許競ら10人(初登頂)
1981年- 田部井淳子(女性初及び日本人初登頂)
1982年 - ダグ・スコット、アレックス・マッキンタイア、ロジャー・バクスター=ジョーンズの3人が南西壁を初登攀。小西浩文が登頂
1987年 - イェジ・ククチカ、アルトゥール・ハイゼルが西稜新ルートを登攀。スキー滑降。
1989年 - アンドレイ・シュトレムフェリ、パヴェル・コチェクが南西壁新ルートを登攀。
1990年 - エアハルト・ロレタン、ヴォイテク・クルティカ、ジャン・トロワイエの3人南西壁新ルート登攀。
1993年 - クシストフ・ヴィエリツキが南西壁ルートで単独登攀し初登頂
2004年12月11日 - ジャン・クリストフ・ラファイユが南壁ルートで単独登頂。初の冬季登頂を主張。
2005年1月14日 - シモーネ・モーロ、ピオトル・モラフスキが冬期初登頂。

2005年 - 竹内洋岳が南西壁ルートで登頂し北側に縦走

上図はシシャパンマBCからのジュガールヒマールの眺望と山名だ。この山域はランタン・ヒマールと一体で、山岳書では 「ランタン・ジュガール・ヒマール」 として紹介されている。本編のジュガール・ヒマールはチベット内に全域が在り、チベットのヒマラヤだ。チベットのヒマラヤとは変な言い方だが、其れには訳が有る。理由は国境線に有る。インド・ネパール・パキスタンの北側に連なるヒマラヤ山脈の、主峰群の稜線上に描かれた線が、今日これら3国と中国との国境線と成って居る。我が国の権威ある、かっての山岳書のヒマラヤ地図はいずれも国境線を境に、チベット(中国)側は白紙だ。半身の魚だ。更に白紙の部分にはヒマラヤは無い事のよに扱わていれる。無関心の地にされている。山の地図は測量を基礎に作る。ヒマラヤ地図のベースは世界大戦中に英国主導で作られた、英国は統治下にあるインド・ネパール・パキスタンの測量は出来たが鎖国のチベットの測量は出来なかった。それゆえ国境を境に北側のチベットは白紙と成っていた。それを最近迄引きずっている (細かく見れば、世界大戦中チベットにヒットラーもスターリンも触手を伸ばし一部調査し地図を作製した様だ、日本陸軍も独自に人材を送り測量や作図をしている、が、実用に給してはいない。今もチベットの地図は北京政府は国家機密とし市民には見せない。) 今日でも山岳書の地図は国境稜線の北側は白紙でヒマラヤは無い。地図に無いものがある。ナンセンスが今日もまかり通っている。主稜線の南側のヒマラヤも、主稜線の北側のヒマラヤも、同じヒマラヤであり、現に地球上に存在する。時代は Google Earth を生み、地球全域を可視化し、市民のものとしてくれた。地球上の地形の全貌を提供してくれるツールはナンセンスを一気に解消してくれてた。此処では Google Earth を基準に新たなヒマラヤ論を展開して行く。では、ヒマラヤの北側は何処迄有るのかは、ヒマラヤ山脈はユーラシア大陸の下に潜り込むインド・プレートの圧力で出来たもの故、潜り込みの境界のヤルン・ツァンポ(河)域と見るのが合理的だ。ジュガール・ヒマールでは100km北に其の地が有る。本編は此の範囲を紹介する。話を初めに戻せば「チベットのヒマラヤ」は、ヒマラヤ山脈主稜線の100Km北側の範囲を指す。
 
 

 

上図の雪山はダク・ピーク(6346m)、チベット大地に鎮座する釈迦如来の様だ。撮影地の此処は、標高5000mのシシャパンマBCがある高層湿原帯で、永久凍土上の薄い表土には地衣類や短草が繁茂する。晩秋の今は紅葉の盛りだ。画面下部の小川は30Km北のぺクツオ湖(標高4600m)に向かう。ぺクッオ湖には周辺からの流れも集まる。下図はペクッオ湖(標高4600m)。シシャパンマBC一帯の高層湿原からの水流もここに集まる。
 


上図2点はシュガール・ヒマールのカンペンチン(7293m)。このジュガール・ヒマールは全域がチベット内に在り、チベットのヒマラヤだ。この山カンペンチンはシシャパンマ・ベースキャンプの正面を飾り、朝昼晩刻々表情を変え、眺める者を飽きさせない。この地の雪の生まれ故郷は、インド洋の海水だ。900Km南のベンガル湾からの湿潤な気流はヒマラヤ山脈の高峰群にぶつかり冷やされ雲となり雪と成る。雲は灼熱の太陽光に炙られ高層雲と成る、高層雲は風に運ばれ、更に奥の此の地に至る。この地には8000m峰、7000m峰が連なる。ここを通過すると100km先に6000m峰、5000m峰群が更に連なる、これらはヤルン・ツァンポ(河)を挟む山塊だ。更に其の奥にも山塊・山脈は続く、チベットは大海の波の様に山塊・山脈が奥の奥まで連なる無限のヒマラヤだ。
 

 

            上:ポーロン・リ(7292m)   下:シシャパンマ(8027m)

 
 
下の3点は標高5000mのザ・ラ(峠)の風景。シシャパンマBCの北西80km、ぺク・ツ゚オ(湖)の北西50kmの位置だ。チベットの相貌の一つを象徴する深い神秘を抱えた此の風景は哲学的だ。植物も太古を思わせる原始的な相貌だ。物陰に恐竜が寝ていても不思議ではない。此の地にも人は暮らす、此の地の人々は自然と共生しているゆえに、自然を傷付ける事はしない。ゆえに幾百千年の自然が無傷で今に生きている。食料生産の主は放牧で、農業は無い、永久凍土上の地には農業は不可能だ、農業が無い事が此の地が太古のままに今も生きている由縁だ。人類の自然破壊は農業から始まり工業に進化した。ここには幸い農業も工業も無い。
 

上図はシシャパンマ(8027m)、白銀の山裾は起伏に富んだモレーン台地だ。台地は8000m峰からの下降気流が刻み続け、此処にも曼荼羅画を描く。 下図の雪山はダク・ピーク(6346m)、チベット大地に鎮座する釈迦如来の様だ。撮影地の此処は、標高5000mのシシャパンマBCがある高層湿原帯で、永久凍土上の薄い表土には地衣類や短草が繁茂する。晩秋の今、地類が紅葉し、大地を赤く染める。
 

上図はジュガール・ヒマールの山々の50㎞北東の標高4600mに近い平原部、夏雲が眩しい。下図は、そのさらに北10Km.。午后天候が急変し青空が雲に呑まれて行く、左隅の山稜の白い部分は降り始めた雪だ、山裾の土漠の平原は強烈な日射しで鏡の様に光る、湖面の様に滑らかだ、過っては此処も水面下で在ったのだろう。画面に入らない左隅側は暗闇と雨だチベットにはよくある光景

上図はカンペンチン(7281m) 下図はポーラ・ガンチェン(7661m)、シシャパンマBCの左右端を飾る山だ。
 

上 ランタン・リ(7205m)  シシャパンマBCより撮影。
 
 

                    上・下:ポーラ・ガンチェン(7661m)

チベットのヒマラヤの撮影機材&データ処理
カメラ:PENTAX-67Ⅱ/PENTAX-645NⅡ/SONYα100
フィルム:FUJICHROME  RVP-100/220  FUJIFILM/NEOPAN-100/ACROS
データ記録にSONYα+EPSON・P-4500使用
フィルムデータ・デジタル化/EPSON・GT-X970
画像処理/Adobe/Photoshop 
  PC/SONY-VAOI & HP   
Monitor/EIZO/FlexScan-SX2761W

 

 


 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負っていません。でした。今は状況が変化してます。この問題を4章「黙示録」で考察してます。21世紀以降の急速なグローバル化(市場経済化&軍事化)は環境破壊と共に、この地にも押し寄せてます。