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白岩吉明オフィシャルサイト

チベットのヒマラヤ:1

クーンブ山群

  

上図はエヴェレスト・ベースキャンプ(BC)の様子を示しています。ここのチベット側のBCの特徴は、車両がアクセスできることです。ネパール側のBCへは、エヴェレスト街道を数日間歩いて到達し、荷物の運搬にはシェルパやヤクに依存しますが、こちらでは車がその任を果たします。この利便性により観光客が増加し、過剰な汚染が問題となりました。その結果、中国政府は規制を設け、現在ではごく少数の登山隊を除き、この地域での宿泊やテントの設営が禁止されています。今日のBCでは、かつての上図のような風景は見られなくなりました。ここに描かれているのは、過去の記録です。
 
 
下図2点エヴェレスト・ベースキャンプ地

エヴェレスト
一般的に呼ばれるエベレストとは、ヒマラヤ山脈を測量した英国人 George Everest (1790-1866) に因んで名付けられた名で、チベット語では、「大地の母神」という意味の《チョモランマ》と呼ばれ、ネパール語では、「大空の頭」という意味の《サガルマーター》と呼ばれる。 世界最高峰のエベレストは、いびつな三角錐形の山になっている。現在は、三角錐を形成する3本の稜線からの登頂と、稜線にはさまれた「壁面」経由の登頂が行われている。1921年から英国山岳会会員を中心に登頂を挑んだ。主な登頂記録は下記の通り。
(1)1921年:第一次イギリス隊(隊長:ハワード・ベリー)、チベット側からの偵察。
(2)1922年:第二次イギリス隊(隊長:グランヴィル・ブルース将軍)、チベット側からの登攀、7人のシェルパが雪崩で死亡して断念。
(3)1924年:第三次イギリス隊(隊長:第二次と同じ)、チベット側からの登攀。エドワード・フェリクス・ノートン隊員が、標高8,572mに到達。
(4)1933年:第四次イギリス隊(隊長:H・ラトレッジ)、チベット側からの登攀。第三次隊と同じ8572mに到達
(5)1933年5月:イギリス人モーリス・ウィルソンが、シェルパ3名とともにチベット側から登頂の登攀(ノース・コル基部で遭難死)
(6)1935年:第五次イギリス隊、チベット側からの登攀。
(7)1936年:第六次イギリス隊(隊長:H・ラトレッジ)、チベット側からの登攀。
(8)1938年:第七次イギリス隊、チベット側からの登攀。
(9)1951年:イギリス隊(隊長:エリック・シプトン)、ネパール側からの初登攀。東南稜ルートを開拓。
チベット側から8回(北東稜)、戦後ネパール側から3回(南東稜結局、初登頂は、第二次世界大戦後の1953年5月29日、ネパール側《頂上から南に2km伸びた東南稜》から挑んだ、第九次イギリス隊(隊長はジョン・ハント大佐)、登頂者はニュージランド人のエドモンド・ヒラリー氏と、シェルパ族のテンジン・ノルゲイだった。
 1960年5月24日、チベット側《北東稜、現在は北稜》から挑んだ中国隊(隊長:史占春)が登頂。だがこの“登頂”には記録写真がなく、公式記録を改ざんしていたことから、実際に登頂に成功したのかは疑問視されている。1963年5月22日、《頂上から西に5.6km伸びた西稜》から挑んだアメリカ隊(隊長:N・ディーレンファース)が登頂に成功、東南稜から下山。初の縦走だった。
 
下図6点はエヴェレストベースキャンプから見た北壁とキャンプ地でのスナップ写真。

下図は参考出展
下図5点はネパール側から展望のエヴェレスト&クーンブ・ヒマール

ネパール側ヒマラヤ終了

 

以下は再びチベット側ヒマラヤにのどる

  

チベットのパン・ラ(5000m)よりのエヴェレスト眺望

上図:パン・ラ峠(標高5250m)からの眺め。左端にはギャチュンカン(標高7952m)、右端にはチョーユー(標高8201m)が見え、その間には9kmにわたるいくつかの峰が連なる稜線がある。この稜線は、チョーユー側にゴジュンバ・カンⅠ(標高7743m)、Ⅱ(標高7646m)を含むネパールとチベットの国境である。人間にとっての不自由の壁であり、雲や鳥の自由が羨ましい。
下図:上図の拡大図、中央にエヴェレスト、その右にプモリの頭が見える。

 

上図はパンラ峠の殺風景な景観。
下図はパンラ峠からエヴェレストベースキャンプへ下る谷道、谷沿いの河岸段丘は耕作地に成っている、今は乾期で作物は確認出来ない、厳しい環境でも寸地尺土を耕作する努力には、頭が下がる思いだ。道を下るとタシゾム(下図)の村に出る、その先40Kmにロンブク寺がある、エヴェレストベースキャンプは、更に先に位置する。

ロンボク寺はチョモランマ峰北麓の絨布氷河の末端、標高5154mと世界最高峰に位置する寺院です。1899年に紅教ラマ・アワンダンゾン(阿旺丹增羅布)によって創建され、ニンマ派寺院に属し、地方特色が豊かで僧尼が混在する寺院で知られています。ロンボク寺は5階建てですが、現在使用されているのは2階までとなっています。ロンボク寺は新寺と旧寺に分けられ、旧寺は新寺から南に3㎞離れた場所にあり、よりチョモランマ峰の近くに位置します。旧寺はチベット密教の開祖・パドマサンバヴァ(蓮華生大師)が当時修行したといわれる洞穴が残っており、パドマサンバヴァの手足の跡が残っている石と石塔も保存されています。新寺は1902年に完成し、ネパールの寺を含む十数の寺が付属する大規模なものでしたが、その後破壊されてしまい、現在では本堂と付属する8つの寺しか残っていません。そのうちの一つは尼寺になっています。ロンボク寺はチョモランマ峰の頂から約20㎞に位置し、チョモランマの北坂地点から登山する際の本拠地とされており、チョモランマ峰を観賞するためのポイントの一つにもなっています。

上図:チベット側エヴェレストベースキャンプへ
チベット側ベースキャンプを訪れるためには現在は中国政府のパーミッション(許可)が必要となっている(チベット自治区を訪れるために必要なパーミッションとは別の物である)。このパーミッションはラサ市内の旅行代理店でエベレスト・ベースキャンプのツアーに参加すると一緒にアレンジしてもらうことができる。北側のエベレスト・ベースキャンプへはシェーカル付近の中尼公路から南へ分岐する道を100キロ程走る。ロンブク寺との中間地点にはツーリスト・ベースキャンプが存在するが、実際の登山者が利用するベースキャンプはロンブク氷河のふもとになる。

 

 

下図6点は、エベレストからチョー・オユーの、クーンブ山群からロールワリン山群の裾野地帯の風景。此の広大な地域には、覆水流による高層湿原と乾燥した土漠帯が繰り返し現れ、息を吞む景観が延々と展開する。異界を思わせる風景だ。

 


 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負っていません。でした。今は状況が変化してます。この問題を4章「黙示録」で考察してます。21世紀以降の急速なグローバル化(市場経済化&軍事化)は環境破壊と共に、この地にも押し寄せてます。