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白岩吉明オフィシャルサイト

内陸アジアの貌

 チベット高原:2

上図の4点はセラ寺の画像 ①ラサ市の北の郊外から3キロにあるセラ寺は、ガンデン寺 、デプン寺 と並んでラサ三大寺院と呼ばれています。セラ寺は明の永樂十七年(紀元1419年)にチベット仏教のゲルク派(黄教)の創始者ツォンカパと、その門弟ツォチェンチュジェによって建立されました。主な建物には「措欽正殿」があり、3つの僧院(「麦札倉」、「吉札倉」、「阿巴札倉」)および29個の康村などから構成され、面積は11平方キロメートルに達しています。 ②色拉寺 名の由来セラ寺の全称は「セラ大乗洲」です。セラ寺という名の由来については、2つの伝説があります。ひとつは、セラ寺の基礎を造った際に、激しい雹が降り、チベット語で雹の発音は「セラ」だったので、このことから「セラ寺」と付けたという説、そして、もうひとつの伝説は、同じく「セラ」と発音する、バラが咲き乱れていたところにこの寺が建てられたとする説です。③豊かな所蔵品セラ寺には貴重な文物と工芸品がたくさんあり、たとえば、経典、仏像、法器、金銀器などです。なかでもツォチェンチュジェの彩色像は、縦は109cm、幅は64cmあり、500年ぐらいを経ているものの、色彩は今なお艶やかで美しいです。「措欽正殿」には200帙余りの『甘珠尔』と『丹珠尔』があり、経書は全て金を含んだ塗料で写されており、とても貴重です。④馬頭明王金剛像セラ寺には1万個以上の金剛仏像が保存されていて、多くセラ寺には1万個以上の金はチベットの地域で造られたものです。内陸またはインドで作られた銅仏像も数多くあります。一番有名な塑像は「吉札倉」の護法神殿にある「馬頭明王金剛像」です。正殿に入り、まっすぐ進み、1列小さい殿を通って、一番奥にあります。

西蔵考 文責:白岩吉明  ①チベットの鎖国は清朝が1792年に支配を強めて以来と言われる。天空の聖地の秘密は固く守られ、人々の関心を焚きつけた。 20世紀に入り、西欧帝国主義列強による世界再分割の新たな争いが始まる中、最後に残された中央アジア最深部の「地図の空白地帯」は蚕食の餌として列強の関心を引いた。チベット、シルクロード(現在シルクロードと言われている地域の多<は当時のチベットの版図だ)がその地だ。第一次世界大戦は最強の武器として飛行機を生み、世界の隅々まで知り尽く事となるが、チベットだけは標高が高過ぎ、空気が希薄な上さらに周囲を高峰が守りプロペラ機は通用せず列強達は上空から覗き見る事さえ出来なかった。自動車道も1950年代まで一本も無かった。②チベットへの憧憬は、年~1902年のスヴェン・ヘディンによる中部チベット湖沼地方の探検や、その際のロプノール付近に古代都市(楼蘭)遺跡を発見した物語などに培われた(この時代は楼蘭はチベットの範囲内だったのだ)。ヘディンの行動範囲は広く、1905年にはレーから西北チベットに侵入し、中央チベットの湖沼地帯に至り、インダス川やガンジス川の源流域を調査。謎多きブラマプトラ川も調査。またサトレジ川の源流とヒマラヤ山脈の北のカラコルム山脈にトランス・ヒマラヤ山系発見の業績も上げている。さらに彼は1927年にスウェーデン、ドイツ、中国の学者による西北科学考査団を立ち上げ、チベット北部~天山に至る地域の考古学、人類学、地理学、生物学などの大規模調査の総仕上げに入った。しかし1929年からの世界恐慌で資金不足に陥り調査は中断される。彼がもたらした厖大な調査資料は、学術報告以上に数多<の探検記や物語を生み、我々のチベットやシルクロードへの夢を培った。しかし、ヘディンの作業は国家的プロジェクトに近い大規模探険であり、学者の横暴を罷り通す場面が多々あり、文物の強奪やナチス権力との癒着もあり、帝国主義的で、調査されたチベットや中国からは強烈な抗議や抵抗がなされ、ロマンとは裏腹な面があった。③河口慧海の1900年のチペットえの潜入は、ジャーナリストの目を持った求道者の情熱的な潜行で、ラマ僧に身を変え、単独でヒマラヤ越えしての決死的密入国だった。彼が1904年に出版した「西蔵旅行記」ではチベットへの憧憬が熱く語られ、人情やユーモアを交え、チベットの魔力的な魅力が生々しく紹介された。彼は1913年~1915年にも再潜入している。 1899年~1912年の間に入蔵した邦人には探険家の成田安輝や大谷探険隊、チベット仏教研究の多田等観、能海寛、寺本婉雅、帝国陸軍の矢島保治郎、青木文教らがいる。この15年間程が「千年以上変わらず自然と共に生きたチベットの素顔」を垣間見た歴史的機会だと思う。(次は長い空白の時を経、約60年後、文革で徹底的に破壊され、漢民族の高度経済成長に駆使されるチベットの姿に会う事となる。しかし人間性のブレは無い。)④1913年にチベット政府は清朝政府と国際社会に対し独立宣言をしている。西欧列強帝国によるアジア蚕食が強まり世界大戦の迫る時代だ。独立宣言は清朝政府に拒否され、イギリスをはじめとした国際社会も自国の思惑でチベット政府を見 殺しにした。その後清朝政府は崩壊する。 1930年頃より国際関係の緊張はより一層増す。中国の国内は内戦と抗日戦が錯綜し大混乱の時代に入り、さらに第二次世界大戦の時代となる。チベットは守りを固め入蔵を一層困難にし、チベットの情報は日本軍部の密偵物以外は数十年途絶える事と成る。第二次世界大戦終了の4年後、1949年には毛沢東により、チベットの領有も含めた中華人民共和国の成立が宣言される。 1951年人民解放軍はラサを占領しチベット全土が制圧される。戒厳令の時期チベット潜入の記録は無い。 1959年にはダライラマ14世はチベットの地を離れインドに亡命する。その後1965年共産党政府により「西蔵自治区」が発足され、すでに各地に樹立されている「チベット族」の自治州や自治県からは分離されての統治となる。翌年より毛沢東の発動によりプロレテリア文化大革命が始まり、チベットでは多くの寺院一文物・経典が破壊され、千数百年蓄積された「厖大な歴史遺産が」この世から抹殺された。また無数の学僧が殺され・追放され、あるいはダライラマを追いインドえの逃避行となった。

ニェンチェンタンラ山脈とナムツォ(湖) ①ナムツォ(湖)ナムツォ(納木錯)(チベット語:gNam-mTsho;中国語簡体字:纳木措)はナム湖とも呼ばれ、中華人民共和国チベット自治区内にある湖の一つ、中国第三の面積にして、標高が世界一の塩水湖である。北緯30度30分~30度35分、東経90度16分~91度03分の間に位置する。海抜4718m。東西70km強、南北30km強。面積1,920km2強。最大深度33m。ナムツォの周りは雪で覆われた山脉と数千エーカーの広がる草原に囲まれ、聖者の天国との別名でも知られる。②ニェンチェンタンラ山脈(ニェンチェンタンラさんみゃく)はチベット自治区中東部をほぼ東西に走る山脈。西側はカンティセ山脈、東側は横断山脈。全長1400km、平均幅80km、平均海抜5000~6000m。③名称 ニェンチェンタンラとは「タンラ山脈に次ぐ」という意味で、山脈の規模がタンラ山脈に次ぐ大きさであることに由来する。④地理 ヤルンツァンポ川(ブラマプトラ川上流部)と怒江(サルウィン川上流部)の分水嶺にして、高原の寒冷な気候帯と温暖な気候帯との境界線でもある。主峰のニェンチェンタンラ山(英語版、中国語版)の標高は7162m。⑤地質 燕山運動末期に山脈が形成され、東への褶曲によりつくられた褶曲山脈である。山脈の南側は大きな断層が通過する。⑥氷河 ニェンチェンタンラ山脈は氷河で主に覆われており、面積7536km2の青蔵高原南東部最大の氷河地帯で、そのうち27の氷河が全長10kmを超える。如易貢八玉溝の卡欽冰川(氷河)は33kmに達し末端の海抜はわずか2530m、チベット最大の氷河にして中国最大の海洋性氷河である。⑦気候 山脈の東側はインド洋の西南モンスーンの影響を受けて降水が多い。西側は半乾燥気候で降水が少ない

 


 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負っていません。でした。今は状況が変化してます。この問題を4章「黙示録」で考察してます。21世紀以降の急速なグローバル化(市場経済化&軍事化)は環境破壊と共に、この地にも押し寄せてます。