白岩吉明オフィシャルサイト、山岳写真ネットギャラリー、「内陸アジアの貌・フンザ物語・横断山脈・ウイグルの瞳」「エヴェレスト街道」「チベットのヒマラヤ」「ランタン谷」「黙示録」「

 

 
 
 
 
 

白岩吉明オフィシャルサイト

内陸アジアの貌

ランタン谷:2



上:Langshisa-Ri (ランシサ・リ)6427m  

下:右:Urkinmang (ウルキルマン)6151m/左:Kanshurum (カンシュウム)6078m


上2点:Ganchenpo (ガンチェンポ)6387m

 

上図:ガンチェンポGanchenpo ・ 6387 ランタン・ヒマール南東部,ウルキンマンの西2.5kmに位置するヒマラヤひだに覆われた美しい雪峰oイギリスのH.W.ティルマンによって初めて試登され,その山容からブルーデッド・ピークFlutedPeakと呼ばれた。また,日本隊によって,一時キヤンジンと呼ばれたこともある。山名はチベット語で「ガン」は「雪または氷の山」,「チェン」は「大きい」,すなわち「大きな氷の山」の意。

 

上図:ウルキンマンUrkinmang ・ 6151 ランタン・ヒマール南東部,カンシュルムの西2.5kmにあるピークで,ランタン・コーラ上流のランシサ・カルカから,右手のガンチェンポの美しい雪峰と,左のランシサ・リの間を流れる氷河の奥に,やや小振りながらすっきりと整った山容を眺めることができる。山名は周辺のチベット人からはシャール・カルマShar Karmaとも呼ばれていて,チベット語で「東方の星」を意味する。

 

地震で消えたランタン村へのレクイエムを、ランタン谷の物語3巻として此処に編んだ。画像は全てフイルム撮影のものをデジタル化し添付した。入力はアナログ/出力はデジタルという、アナログ写真へのレクイエムでもありる。Net画像は、高画質・大画面・高速・大量データ転送を可能にした新技術を自ら開発し之を使用した。実験劇場でもある。当初はPCでの鑑賞用が、只今は「スマホ」時代、スマホは「メーカー」「画面サイズ」「新旧」「OSやキャリア」の違いで画面表示が異なるが、この問題を解決して、ここに提供。余談ながら、此れは私のオリジナル技術。他に内陸アジアの活断層帯上に今を生きる、ヒマラヤ・チベット、の人と自然と、太古の侭の環境を逐次、時間を掛け掲載する予定。

この物語の舞台となるランタン谷は、ランタン・ヒマール山系の中央を奔る谷で、ここは、北はチベット、西はマナスル、東にエヴェレストを持つ山域で、ヒマラヤ山脈のほぼ中心にある(上図)。ランタン谷は谷の周囲に数多くの氷河を抱え、深く抉られている。谷の周囲には 6000m峰、7000m峰が数多く連なる、上図にその様子を示す。ここは「花の谷」とも呼ばれ、世界に名声が高い。春から初夏にかけ、石楠花が谷筋を幾重にも飾り、赤・桃色・白の一重・八重の古木が白銀の峰々を飾る光景は 「桃源郷」 そのものだ。花の谷に暮らす村人からはチベットの香がする。山奥の此の地は、在りし日のチベットを感じさせ、漢族が数多く移住した今日のチベットよりも、此の地の方がチベットらしい。撮影は2005年4月~5月のもので、石楠花爛漫の桃源郷の記録だ。奇しくも其の10年後となる2015年4月25日/11時56分に起きたネパール中部でのM7.8地震は、ランタン谷にも激震が奔り地域を壊滅的に破壊した。ランタン村は山体崩壊に巻き込まれ人々と共に泥流の下に消え石楠花の季節に訪れた人々も消えた,此の作品は鎮魂の記録でもある。 南無

上の2点は幕営地の様子、石室は食堂に使う、石室はすき間が多すぎ住めない。居住はテント。現地に任せたら旧式の三角テントとなリ驚かされた。上はヤクが薄い台地の苔を食む姿だ、ヤクは人恋しい様でテントの周りを数多くが取り巻いた、下は朝の幕営地、夜来の雪で白一色だが、日が出ると雪は消え薄い草が色彩を添え、命の存在を主張する。
 

 

現場での撮影風景、ペンタ67Ⅱ/400mmを三脚2台で支え、三脚の袋に石を入れ、振動を軽減させているている様子だ。風が大敵だ。顔面の覆面は、強い紫外線から皮膚を守る為のもので、サングラスと共に、山岳写真撮影の必需品だ。上写真は寒々とした山裾のテントサイト、画面の左下に石室が見える。夕方から未明にかけ乾いた雪が降る。テントサイト右はLangshisa Ri(ランシサ・リ)だ、巨体が覆いかぶさるように屹立する。 まさに屹立だ。山裾にはランタン・コーラが流れる、水量は多く流れも速い。この流れは左手が上流2~300m先で、氷河端となる。

ランタン村の景観には、暮らしに密着するマニ石(経文を刻んだ石や石板)、マニコロ(マニ車、中に経文が入った円筒状の仏具)、ルンタン(五色の旗)、タルシン(経文書いた祈願のぼり)、メンダン(マニ石の長い列)、チョルテン(仏塔)が欠かせない。これ等は此の地の人々が熱心なチベット仏教徒であることをあらわしている。土着信仰のボン教の人々も同じだ。此の地の人は石を生活のあらゆる場面で活用し、石に生かされている。石に根を張り石に生かされている石楠花の様に、人も命を石に支えられている。其れは山に対しても同じだ、山のご機嫌一つで命運が決まる。仏像や聖人像は此の地では見られない、山が聖人だ。都市仏教のラサやシガッエの寺院には仏像が有り、職業僧侶が居る、同じチベット仏教でも此の地とは少々異う。此の地のチベット仏教は、根幹が自然崇拝であり、シャーマニズムに近いものを感じる。天地自然を崇める感性が此の地では生活様式の隅々に滲み出ている。

上図2点はキャンジン・ゴンパ村の朝の風景、どの家からも朝餉の炊煙が上がっている。

 

上:Pemthang Kanpo Ri(ペンタカンポ・り)6427m

 

上図:朝のランタン谷ロッジエリアの風景。 下図:ロッジエリア東側にあるランタン村の日常風景。

この物語の舞台となるランタン谷は、ランタン・ヒマール山系の中央を奔る谷で、ここは、北はチベット、西はマナスル、東にエヴェレストを持つ山域で、ヒマラヤ山脈のほぼ中心にある(上図)。ランタン谷は谷の周囲に数多くの氷河を抱え、深く抉られている。谷の周囲には 6000m峰、7000m峰が数多く連なる、下図にその様子を示す。ここは「花の谷」とも呼ばれ、世界に名声が高い。春から初夏にかけ、石楠花が谷筋を幾重にも飾り、赤・桃色・白の一重・八重の古木が白銀の峰々を飾る光景は 「桃源郷」 そのものだ。花の谷に暮らす村人からはチベットの香がする。山奥の此の地は、在りし日のチベットを感じさせ、漢族が数多く移住した今日のチベットよりも、此の地の方がチベットらしい。撮影は2005年4月~5月のもので、石楠花爛漫の桃源郷の記録だ。奇しくも其の10年後となる2015年4月25日/11時56分に起きたネパール中部でのM7.8地震は、ランタン谷にも激震が奔り地域を壊滅的に破壊した。ランタン村は山体崩壊に巻き込まれ人々と共に泥流の下に消え石楠花の季節に訪れた人々も消えた,此の作品は鎮魂の記録でもある。 南無

下図のランタンヒマールの鳥瞰図は 「Google Earth」 より衛星画像を取り、之を「立体化」し、其処に「山名」記入したオリジナル作品だ。

上:右:Urkinmang (ウルキルマン)6151m/左:Kanshurum (カンシュウム)6078m

下:Ponggen Dokpu(ポンゲン・ドクブ)5930m

上:Langshisa-Ri (ランシサ・リ)6427m
下:Naya Kang(ナヤカンガ)5846m

上:Ponggen Dokpu(ポンゲン・ドクブ)5930m

下:Naya Kang(ナヤカンガ)5846m

下:Pemthang Kanpo Ri(ペンタカンポ・リ)6427m
 

 


 


 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負っていません。でした。今は状況が変化してます。この問題を4章「黙示録」で考察してます。21世紀以降の急速なグローバル化(市場経済化&軍事化)は環境破壊と共に、この地にも押し寄せてます。