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白岩吉明オフィシャルサイト

内陸アジアの貌

 チベット高原:1

上:チベット自治区の首府ラサ市の近郊西南に見るニンチェンタングラ山脈の一角。

下:ラサ市の東側に見るニンチェンタングラ山脈の一角(空撮写真)

上:チベット自治区の首府ラサ市の近郊上空、ヤルンツァンポ河(ガンジス河の上流域)雨季の姿。

下:「内陸アジアの貌」の舞台の概念図。

 チベット現代史 ①チベットの周辺諸国が古くから用いて来た呼称「tubat」(モンゴル語・満州語[要出典])、「tbt」(アラビア語)等に由来し、チベット人自身は「プー (bod) 」(チベット語)と称する。日本語のチベットは英語「Tibet」経由で明治期に成立した呼称である。チベット全域をさす漢字表記による総称としては、他に清代に通用した土伯特、唐古特(とうことく)(タングート)などがある。②7世紀半ば、チベットの古代王朝が上記の領域を統合した(実質的なチベットの建国)時、当事の中国人(隋)はこの国を「蕃」、「吐蕃」、「大蕃」等と呼んだ。この古代王朝は842年に崩壊したが、その後も中国の人々は、清朝の康煕年間(1720年代)ごろまで、この領域全体の地域呼称を吐蕃という呼称で総称し[1]、あるいはこの領域を統治する勢力を「吐蕃」と称した。③チベットの一部地域を示す「西蔵」という呼称は、中国大陸では1725年ごろから中央チベットとその周辺だけをさす地域呼称として使用されており、現在も中華人民共和国政府はアムドやカムを含むチベット全域の総称としては使用していない。 ④清朝の雍正帝は1723-24年にグシ・ハン王朝(1642年 - 1724年)を征服、彼らがチベット各地の諸侯や直轄地に有していた支配権をすべて接収し、タンラ山脈とディチュ河を結ぶ線より南側に位置する地域は、ガンデンポタンの統治下に所属させ、この線より北側の地域は、青海地方を設けて西寧に駐在する、西寧弁事大臣に管轄させたほか、残る各地の諸侯は、隣接する陝西(のち分離して甘粛)、四川、雲南などの「内地」の各省に分属させた。「西蔵」という地域呼称は、康煕時代から中国文献に登場しはじめていたが、これ以降、チベットのうち、ガンデンポタンの管轄下にある範囲が西蔵と称される。⑤中華人民共和国も、「西蔵」の部分のみを「Tibet(チベット)」とし、その他の各地は「内地」(=中国の本土)に属するという中華民国の見方を踏襲、1960年に発足した「チベット自治区」は「西藏」部分のみを管轄領域としている。清朝が滅亡すると、チベットはモンゴルと歩調をあわせて国際社会に「独立国家としての承認」を求めるとともに、チベットの全域をガンデンポタンのもとに統合すべく、中華民国との間で武力衝突もともなう抗争をおこなった。中華民国は、中国人が多く住む諸民族の雑居地帯河西回廊の南部と青海地方をあわせて青海省を樹立し、青海地方にも「内地」という位置づけを与えた。中華民国の歴代政権は、「西蔵」の部分のみを「Tibet(チベット)」とし、その他の各地は「内地」(=中国の本土)に属するとした。中華人民共和国も、「西蔵」の部分のみを「Tibet(チベット)」とし、その他の各地は「内地」(=中国の本土)に属するという中華民国の見方を踏襲、1960年に発足した「チベット自治区」は「西藏」部分のみを管轄領域としている。

上図6点はギャンツェ クンブム ①1427年に地元の王子によって発注され、パルチョ修道院ギャンツェ・クンブムは町の一番の見どころです。この高さ32メートルのチョルテンは、白い層に装飾的な縞模様が描かれ、王冠のような金色のドームが特徴で、荘厳な印象を与えます。しかし、内部もそれに劣らず印象的で、果てしなく続く小さな礼拝堂の中には、次から次へと美しい絵画が描かれています(覚えて(「100,000枚の画像」を意味します。②ギャンツェ・クンブンはチベットで最も重要な寺院と言われています。仏教界には、この寺院と同時期に建てられた寺院が 2 つだけあります。どちらも廃墟で、辺鄙で、立ち入り禁止です。ラツェの北東 60 キロにあるジョナン・クンブンと、ツァンの西にあるさらに辺鄙なチュン・リウォチェです。しかし、どちらもギャンツェ・クンブンのスタイルと壮大さにはかなわないと一般に考えられています。③中に入ると、赤い矢印でマークされた時計回りのルートをたどって、ささやき声を上げる巡礼者たちを 6 階まで導き、途中で壁の中に入り込む数十の小さな礼拝堂を眺めます。礼拝堂の彫像の多くは文化大革命で損傷しましたが、壁画は風化がよく残っています。壁画は 14 世紀に遡り、ネワール (ネパール) の職人が作成したものでなかったとしても、ネワール様式の影響を受けていることは明らかです。専門家は中国の影響の証拠も見出し、ネワールと中国の様式がチベットの感性と融合し、融合的でありながらも明らかにチベットの絵画様式が生まれたと考えています。④1階に4 つのメイン礼拝堂があり、高さは 2 階建てで、方位に従って配置されています。4 つの礼拝堂は、南は釈迦牟尼 (サキャ トゥクパ、2 人の弟子、薬師如来、グル リンポチェを含む)、西は極楽浄土で赤い阿弥陀仏の住処である極楽浄土、北は過去の仏陀であるマルメゼ (ディパンカラ)、東は別の極楽浄土でオレンジ色の顔をしたジャンパ (マイトレーヤ) の住処であるトゥシタに捧げられています。礼拝堂の間には、小さなタントラの神や守護神を描いた素晴らしい壁画があります。東にある 4 人の守護王の像は、上層階への道を示しています。上の2階階段から時計回りに最初の4つの礼拝堂は、ジャンペリャン(サンスクリット語でマンジュシュリー)、チェンレシグ(観音菩薩)、ツェパメ(アミターユス)、ドルマ(ターラー)に捧げられています。他の礼拝堂のほとんどは、ドルカール(白いターラー、階段から12番目の礼拝堂)、チャナドルジェ(​​ヴァジュラパーニ、14番目の礼拝堂)、ミギョーバ(アクショビヤ、15番目の礼拝堂)など、怒りの守護神に捧げられています。ミギョーバは、青い仏陀で、ドルジェ(雷) この階の礼拝堂は出入り口の窓からのみ見ることができます。

 

 


 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負っていません。でした。今は状況が変化してます。この問題を4章「黙示録」で考察してます。21世紀以降の急速なグローバル化(市場経済化&軍事化)は環境破壊と共に、この地にも押し寄せてます。