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白岩吉明オフィシャルサイト
写真は全て白岩吉明作品です
 
内陸アジアの貌 
チベット高原:第1話
プロローグ
 

上:チベット自治区の首府ラサ市の近郊西南に見るニンチェンタングラ山脈の一角。

下:ラサ市の東側に見るニンチェンタングラ山脈の一角(空撮写真)

上:チベット自治区の首府ラサ市の近郊上空、ヤルンツァンポ河(ガンジス河の上流域)雨季の姿。

下:「内陸アジアの貌」の舞台の概念図。

 

 

 

チベット高原:第2話
ニンチェンタングラ山脈
 

 

 

チベット高原:第3話
ギャンツェ・クンブム(白居寺)
 

  

白居寺(パンコル・チューデ)/ Pelkor Chode Monastery パンコル・チューデとはチベット語で「吉祥輪大楽寺」の意。特定の宗派に属さない寺院で、15世紀始め頃の明王朝時代にラプテン・クンザン・パクパにっよって創建された寺院です。 1階には本尊の三世仏(過去、現在、未来の三仏)。奥には6~7m高さの釈迦牟尼像、両サイドに167体の菩薩像・観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・金剛仏・千手観音菩薩・ソンツェンガンポ像・パンチェンラマ9・10・11世の写真があり、2階には十八羅漢、大きな壁画や立体曼荼羅があります。 塑像、壁画はインド、ネパール、漢民族の様式を取り混ぜたチベット独自の様相が感じられます。

 

ギャンツェ・クンブム/ Gyantse Kumbum白居寺境内にある8階建ての大ストゥーパ(仏塔)。諸尊像や壁画で飾られた77の部屋を有する仏塔。仏像が合計10万を超えたといわれているため「10万仏塔」とも称されています。(「クンブム」とは10万の意。) 内部の壁画は密教聖典が成立していく過程が描かれ、右回りで順番に進んでいくだけで、自動的にチベット密教の曼荼羅世界の醍醐味を堪能できる仕組みとなっています。

上図はギャンツェ クンブム 1427年に地元の王子によって発注され、建設された。パルチョ修道院ギャンツェ・クンブムは町全体を見下ろします。高さ32メートルのチョルテンは、白い層に装飾的な縞模様が描かれ、王冠のような金色のドームが特徴で、荘厳な印象を与えます。しかし、内部もそれに劣らず印象的で、果てしなく続く小さな礼拝堂の中には、次から次へと美しい絵画が描かれています。
仏像が合計10万を超えたといわれているため「10万仏塔」とも称されています。(「クンブム」とは10万の意。)

 

 

チベット高原:第4話
 高原散策(1)
 

 

 

 

チベット高原:第5話
エヴェレスト北面
 

  

上図2点、下図2点、南面図

 

 

 

チベット高原:第6話
 高原散策(2)
 

 

 

 

チベット高原:第7話
セラ寺
 

 

セラ寺(色拉寺) ①ラサ市の北の郊外から3キロにあるセラ寺は、ガンデン寺 、デプン寺 と並んでラサ三大寺院と呼ばれています。セラ寺は明の永樂十七年(紀元1419年)にチベット仏教のゲルク派(黄教)の創始者ツォンカパと、その門弟ツォチェンチュジェによって建立されました。主な建物には「措欽正殿」があり、3つの僧院(「麦札倉」、「吉札倉」、「阿巴札倉」)および29個の康村などから構成され、面積は11平方キロメートルに達しています。 

 

②色拉寺の名の由来セラ寺の全称は「セラ大乗洲」です。セラ寺という名の由来については、2つの伝説があります。ひとつは、セラ寺の基礎を造った際に、激しい雹が降り、チベット語で雹の発音は「セラ」だったので、このことから「セラ寺」と付けたという説、そして、もうひとつの伝説は、同じく「セラ」と発音する、バラが咲き乱れていたところにこの寺が建てられたとする説です。
 

③色拉寺の豊かな所蔵品セラ寺には貴重な文物と工芸品がたくさんあり、たとえば、経典、仏像、法器、金銀器などです。なかでもツォチェンチュジェの彩色像は、縦は109cm、幅は64cmあり、500年ぐらいを経ているものの、色彩は今なお艶やかで美しいです。「措欽正殿」には200帙余りの『甘珠尔』と『丹珠尔』があり、経書は全て金を含んだ塗料で写されており、とても貴重です。

④色拉寺の馬頭明王金剛像セラ寺には1万個以上の金剛仏像が保存されていて、多くセラ寺には1万個以上の金はチベットの地域で造られたものです。内陸またはインドで作られた銅仏像も数多くあります。一番有名な塑像は「吉札倉」の護法神殿にある「馬頭明王金剛像」です。正殿に入り、まっすぐ進み、1列小さい殿を通って、一番奥にあります。
 

 

 

チベット高原:第8話
高原散策(3)
 

 

西蔵考 文責:白岩吉明  ①チベットの鎖国は清朝が1792年に支配を強めて以来と言われる。天空の聖地の秘密は固く守られ、人々の関心を焚きつけた。 20世紀に入り、西欧帝国主義列強による世界再分割の新たな争いが始まる中、最後に残された中央アジア最深部の「地図の空白地帯」は蚕食の餌として列強の関心を引いた。チベット、シルクロード(現在シルクロードと言われている地域の多<は当時のチベットの版図)がその地だ。第一次世界大戦は最強の武器として飛行機を生み世界の隅々まで知り尽く事となるが、チベットだけは標高が高過ぎ、空気が希薄な上さらに周囲を高峰が守りプロペラ機は通用せず列強達は上空から覗き見る事さえ出来なかった。自動車道も1950年代まで一本も無かった。

西蔵考② チベットへの憧憬は、年~1902年のスヴェン・ヘディンによる中部チベット湖沼地方の探検や、その際のロプノール付近に古代都市(楼蘭)遺跡を発見した物語などに培われた(この時代は楼蘭はチベットの範囲内だったのだ)。ヘディンの行動範囲は広く、1905年にはレーから西北チベットに侵入し、中央チベットの湖沼地帯に至り、インダス川やガンジス川の源流域を調査。謎多きブラマプトラ川も調査。またサトレジ川の源流とヒマラヤ山脈の北のカラコルム山脈にトランス・ヒマラヤ山系発見の業績も上げている。さらに彼は1927年にスウェーデン、ドイツ、中国の学者による西北科学考査団を立ち上げ、チベット北部~天山に至る地域の考古学、人類学、地理学、生物学などの大規模調査の総仕上げに入った。

西蔵考③ ヘディンは1929年からの世界恐慌で資金不足に陥り調査は中断される。彼がもたらした厖大な調査資料は、学術報告以上に数多<の探検記や物語を生み、我々のチベットやシルクロードへの夢を培った。しかし、ヘディンの作業は国家的プロジェクトに近い大規模探険であり、学者の横暴を罷り通す場面が多々あり、文物の強奪やナチス権力との癒着もあり、帝国主義的で、調査されたチベットや中国からは強烈な抗議や抵抗がなされ、ロマンとは裏腹な面があった。

西蔵考④ 河口慧海の1900年のチペットえの潜入は、ジャーナリストの目を持った求道者の情熱的な潜行で、ラマ僧に身を変え、単独でヒマラヤ越えしての決死的密入国だった。彼が1904年に出版した「西蔵旅行記」ではチベットへの憧憬が熱く語られ、人情やユーモアを交え、チベットの魔力的な魅力が生々しく紹介された。彼は1913年~1915年にも再潜入している。
 

西蔵考⑤ 1899年~1912年の間に入蔵した邦人には探険家の成田安輝や大谷探険隊、チベット仏教研究の多田等観、能海寛、寺本婉雅、帝国陸軍の矢島保治郎、青木文教らがいる。この15年間程が「千年以上変わらず自然と共に生きたチベットの素顔」を垣間見た歴史的機会だと思う。(次は長い空白の時を経、約60年後、文革で徹底的に破壊され、漢民族の高度経済成長に駆使されるチベットの姿に会う事となる)。しかしチベットの人々の人間性にはブレは無い。

西蔵考⑥ 1913年にチベット政府は清朝政府と国際社会に対し独立宣言をしている。西欧列強帝国によるアジア蚕食が強まり世界大戦の迫る時代だ。独立宣言は清朝政府に拒否され、イギリスをはじめとした国際社会も自国の思惑でチベット政府を見 殺しにした。その後清朝政府は崩壊する。
 

西蔵考⑦ 1930年頃より国際関係の緊張はより一層増す。中国の国内は内戦と抗日戦が錯綜し大混乱の時代に入り、さらに第二次世界大戦の時代となる。チベットは守りを固め入蔵を一層困難にし、チベットの情報は日本軍部の密偵物以外は数十年途絶える事と成る。第二次世界大戦終了の4年後、1949年には毛沢東により、チベットの領有も含めた中華人民共和国の成立が宣言される。 1951年人民解放軍はラサを占領しチベット全土が制圧される。戒厳令の時期チベット潜入の記録は無い。 

 

 

チベット高原:第9話
ジュガールヒマール
 

  

 

 

チベット高原:第10話
  高原散策(4)
 

 

 

 

チベット高原:第11話
ポタラ宮殿
 

 

ポタラ宮殿 ① ポタラ宮(ポタラきゅう、 ワイリー方式:pho brang Potala、中国語: 布達拉宮)は1642年チベット政府「ガンデンポタン」の成立後、その本拠地としてチベットの中心地ラサのマルポリの丘の上に十数年をかけて建設された宮殿。世界遺産ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群を構成する一つ。中国の5A級観光地(2013年認定)でもある。

 

ポタラ宮殿 ② 13階建て、基部からの総高117m、全長約400m、建築面積にして1万3000㎡という、単体としては世界でも最大級の建築物。チベット仏教及びチベット在来政権の中心であり、内部に数多くの壁画、霊塔、彫刻、塑像を持つチベット芸術の宝庫でもある。ポタラの名は観音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語名「ポータラカ」に由来する

ポタラ宮殿 ③ 標高3,700mに位置し、7世紀半ばにチベットを統一した吐蕃第33代のソンツェン・ガンポがマルポリの丘に築いた宮殿の遺跡をダライ・ラマ5世が増補、拡充するかたちで建設された。5世が自らの政権の権威確立を象徴するために着工したものと言われる。内部の部屋数は2000ともいわれ、ダライ・ラマ14世も自伝の中で、いくつ部屋があるのか分からなかったと記しているが、上層に位置する中核の部分は、政治的空間の白宮と宗教的空間の紅宮と呼ばれる2つの領域に大きく分けることが出来る。聖俗両権を掌握するダライ・ラマ政権の「神聖王権」的性格を具現化したものとる言える。現在中国で発行の50元紙幣の裏面の図柄にも採用されている。

 

 

 

チベット高原:第12話
高原散策(5)
 

  

 

 

チベット高原:第13話
カイラス山
 

 

 カイラス山  標高6656m  ①所在地中華人民共和国の旗 中国 チベット自治区プラン県,位置・北緯31度4分0秒 東経81度18分45秒座標: 北緯31度4分0秒 東経81度18分45秒 山系ヒマラヤ山脈 カンティセ山脈 初登頂未登頂(伝:ミラレパ)

 

① カイラスの鶴:カイラス山の裾にはマノサルワール湖があり、周辺には広大な高層湿原が広がります、上図は、湿原の鶴が飛び立とうと羽を広げる鶴の姿。その下図は此処の東南の丘陵を遊弋する姿

 ② カイラス山(カイラス山、Kailash / Kailas)、または カン・リンポチェ(チベット語: 、中国語: 岡仁波齐峰)はチベット高原西部(ンガリ)に位置する独立峰。サンスクリット名はカイラーサ(कैलास Kailāsa)。カイラーサの語源は不明だが、サンスクリットで水晶を意味するケーラーサ(केलास)と関係があるかもしれない。この名称が英語等へ伝わった Kailash / Kailas が、日本語における名称「カイラス」の直接の由来である。標高6656mの未踏峰。信仰の山であるため、登頂許可は下りない。ただし聖者ミラレパ(1040年 - 1123年 / 1052年 - 1135年)が山頂に達したという伝説が有る。

 ③ 信仰 カイラス山北壁とストゥーパ仏教(特にチベット仏教)、ボン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教で聖地とされる。聖地とする理由は様々であるが、例えば、ヒンドゥー教ではカイラス山をリンガ(男根)として崇拝し、ボン教では開祖のシェーンラップ・ミヨが降臨した地としている。カイラス山の周囲の巡礼路を、チベット仏教徒は右回りに、ボン教徒は左回りにコルラと呼ばれる巡礼行為を行う。ジャイナ教と安息教の信徒たちは反時計回りに山を回りながら歩く。一周約52kmある巡礼路は、ゲルワ・グーツァンパが開いたといわれている。
 

④ この巡礼路沿いにタルチョ、いくつかのチベット僧院(ゴンパ)、鳥葬場や仏足跡を見ることができる。巡礼路最高点ドルマ・ラは、標高5630m。日本人チベット巡礼僧の河口慧海は、「三途の逃れ坂」と呼んだ。通常の巡礼路の内側に、ナンコルと呼ばれる巡礼路もある。山麓南側にタルチェン村がある。
 

 ⑤ 巡礼者の多くはコルラを13回行う。特にチベット暦の午年には、1回のコルラで12回分の功徳が得られるとされ、多くの巡礼者を集める。巡礼へと向かう行為自体が功徳であるが、信仰心の厚いチベット仏教徒ではさらに五体投地(キャンヂャー)による礼拝でコルラを行う者も少なくない。

 ⑥ 同一視、チベット仏教で須弥山と同一視される。ジャイナ教ではまた、最初のティールタンカラであるリシャバが没したアシュターバダと同一視される。

 ⑦ 到達困難峰としてまた、チベット仏教徒に限らず、近年では、同地を訪れる団体旅行客やバックパッカーも多い。宗教的な威厳もさることながら、公共交通手段がほとんどなく、入境許可証の入手も困難であることから、バックパッカーにとっても聖地としての色彩を帯びている。一方で、1998年には、ラサ方面からヒッチハイクでカイラス山を目指した日本人3名が行方不明になる事件も発生している。

 

 

チベット高原:第14話
高原散策(6)
 

 

 

チベット高原:第15 話
ジョカン寺
 

① ジョカン寺(大昭寺)は7世紀に最初のチベット統一王朝で吐蕃を築いたソンツェン・ガンボ王の妃によって建てられた寺院です。ソンツェン・ガンボ王はネパールと唐から妃を迎えていて、ネパールからの妃がティツン妃、唐からの妃が有名な文成公主です。この2人の妃がともに熱心な仏教徒だったこともあって、以後、チベットでは仏教が非常に栄えることとなります。

 

② チベットに伝えられた仏教の教徒は、ラサを世界の中心として、宇宙の中心が大経堂であると考えています。現在、大経堂は、大昭寺の僧侶たちが経典を読む場所です。大経堂から遥かに置かれている素晴らしい千手千眼観音像が見えます。観音像の左側には、仏像の「連花生」があり、右側にも仏像の「強巴」があります。大経堂の周りは、全て小さな仏殿です。その中でも、中心にある釈迦の仏殿は、広いです。他の小型の仏殿は狭いですが、きれいです。釈迦の仏殿は大昭寺の中心であり、聖地詣でをする者が憧れるところです。その仏殿に祭ってある釈迦の仏像は、文成公主が持ってきたものです。

 

③ サラの中央区にある大昭寺は、1350年の歴史を持っています。大昭寺は、チベットで現存する一番輝かしい吐蕃時代(吐蕃は7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国です。)の建築でもあり、一番古い土木構造の建築でもあります。そして、大昭寺の建設をきっかけに、チベット独特の「平川様式」と呼ばれる寺の組み立てが生じました。何度も修復を繰り返し、増築をして、現在の25100平方メートルあまりの広い建物になりました。

④ ジョカン寺の創建に関しては様々な伝説があります。「かって、この地には前世と来世を写す神秘の湖があった。ソンツェン・ガンボ王が湖に指輪を投げ込んだところ、白い仏塔が生まれた。そこで、木の橋を造り、ヤギで土砂を運んで寺院を建てた」。
 

⑤ 他にもティツン妃が寺院を建てようとしたけれども失敗し、文成公主の助言でようやく完成したといった女の争い的な伝承もあります。

五体投地をしている人。五体投地とは五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ出して礼拝することを言います。熱心なチベットの仏教徒は、この五体投地をしながら、少しづつ前に進むという形で長い時間をかけて巡礼を行うことも多いです。ラサを目指す巡礼者にとってはジョカンは巡礼の最終目的地だといいます。多くの人が体を投げ出して五体投地をしています。

 

⑥ しかし、ソンツェン・ガンボ王が亡くなってから、ネパール出身のティツン妃が王の菩提寺として建てたのがジョガン寺で、文成公主がその創建に協力したというのが本当の歴史のようです。
 

⑦ ラサの中心部には有名なバルコル(八角街)があり、バルコルはジョカン寺の巡礼道です。
 


 

工業製品に埋もれた消費社会とは距離を置いた、内陸アジアの自然と人間を紹介いたします。此処には、私たちの美意識の源泉・文化の源泉が数多く現存し、自分が知らない事に驚きます。此処には有史以前から今も変わらない人跡未踏の雪山や氷河、0m地帯の広大な砂漠や標高5000mの草原、アジアの大河の源、幾百千年来の隠れ里等など、枚挙に暇の無い非日常が今も生きています。大地と太陽・水と植物・自然の恵みを友に、人口エネルギー消費ゼロで暮らす人々も沢山います。この地域の総面積は日本の国土の20数倍・北米の面積にも相当し、此の地の地下資源を世界は注視してます。近い将来の「地下資源&エネルギー」枯渇時に、工業生産國は衰退・崩壊する「現代文明の病理」を背負ってますが、内陸アジアは背負っていません。でした。今は状況が変化してます。この問題を4章「黙示録」で考察してます。21世紀以降の急速なグローバル化(市場経済化&軍事化)は環境破壊と共に、この地にも押し寄せてます。