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上図出典:「HIMALAYS」Stefano Ardito p-56 「DREAMS AND REALITY」Jim Haberl p-35/33/1-2

 25話

 深田久弥

1903年(明治36年)~1971年(昭和45年)

 カラコルムの偉峰ーK2

 深田久弥著 「ヒマラヤ登攀史」 p-74~91  岩波書店刊

 藤田弘基・内田良平・白簱史朗・のバルトロ山群

もともとK2は山の名前ではなく、測量の記号であった。インド測量局は、土着の名前の見出せぬ山には測量記号をつけるだけですました。K2はカラコルム第二号の意である。そのカラコルム第二号が奇しくも世界第二であることがわかったのは、一八五八年であった。その測量は、カシミールにあるハラムクという高さ四八七七メートルの山からなされた。その山から遙か彼方に、カラコルムの巨峰群を始めて眺めたのは、工兵士官でありかつすぐれた測量家でもあったモントゴメリー大佐であった。だからK2を始めて発見した人の名を取って、マウント・モントゴメリーと呼ばれたこともあったが、これは長く続かなかった。

上図出典:深田久弥「ヒマラヤ登攀史:Ⅳ カラコルムの違嶺 K2」 p-76

しかしこれは遠距離からの測量であって、実際にその山のある領域に近づいたのは、ゴドウィンーオースティであった。一八六一年、彼はカラコルムに入って、幾つかの大きな氷河を探検し、K2へ達するにはバルトロ氷河を溯ればいいことを発見した。彼は偉大な探検家であり山岳家であった。ロンドンで王室地学協会の会合があった時、会長はゴドウィンーオースティンの功績を称揚して、K2には彼の名を冠すべきだと提言した。しかし彼はこの山の最初の発見者ではなかったし、大自然に個人的な名前を付すことは避ける方針だったので、その提言は容れられなかった。それでも旧式な地図には、今なおK2の代りにマウントーゴドウィンーオースティンと書かれているのを時々見受ける。(注:ちなみに、下図のようにK2直下の氷河の名称は「ゴドウィン・オースティン氷河」となっている)

上図出典:「HIMALAYS」Stefano Ardito p-36-37に加筆

 下図出典:K2「DREAMS AND REALITY」Jim Haberl p-14/15 に加筆

1902年

K2に登ろうとする最初の試みは、一九〇二年に行われた。それはイギリス人エッケンスタインをリーダーとする一隊であった。隊員は、二人のイギリス人、二人のオーストリア人、一人のスイス人から成っていた。皆カラコル厶には初見参で、当時としては無理のないことだが、八千メートルの岩と氷で装われた高峰がどんなものであるか、誰一人委しい知識は持っていなかった。それだけに楽天的であった。何しろ一九〇二年のことである。カラコルムもヒマラヤも、その遠征にようやく微かな夜明けの光がさしそめたばかりの頃である。そんな時代に一挙にK2をねらうなどとは、無謀と言えばあまりも無謀であった。しかし何も知らないことが、かえってそういう大胆な試みをさせたのかもしれない。

 上図:朝のK2(8611m)コンコルディアから 「 ヒマラヤ50峰」p-131 内田良平
 

遠征隊は三月二十日にポンベーに上陸したが、それから途中いろいろ暇を食って、バルトロ氷河の入ロアスフーレを発った時は六月五日になっていた。この氷河は今でこそアスコーレからコンコルディアまで四日ほどで達しられるが、彼らはその三倍ほどの日数がかかった。バルトロ氷河を溯るとガッシャーブルムⅣに突きあたって、そこで左右に分れるが、その突きあたりの平地は、アルプスの名前(もとはパリの広場の名)を取ってコンコルディアと呼ばれている。ここまで来て初めてK2の雄姿が眼前に現われるのである。バルトロ氷河はここで左右に分れ、左手、K2の山麓へ入りこんでいるのをゴドウィンーオースティン氷河という。

上図:ガッシャーブルムⅣ(7925m)  「 ヒマラヤ50峰」p-137 内田良平  

一行はその氷河を溯って、K2の足元に第十キャンプをおき、そこを前進基地とした。標高は彼らの計算によれば五七一〇メートルであった。ここで遅れてくる隊長のエッケンスタインを一週間ほど待った。

上図出典:K2「DREAMS AND REALITY」Jim Haberl p-42/43
 

登山隊の最初の計画はK2の南東稜を登るつもりであったが、偵察の結果、それは断念して、もう少し「易しくみえる」北東稜を採ることになった。五月の初めからずっと快晴つづきであったが、六月二十日以後は悪くなって毎日雪が降った。そのためいたずらに日が過ぎるばかりで、十日間にやっと北東稜の下へ第十一キャンプを進め得ただけであった。ここでまた悪天候のため丸1週間留められた。しかしその間に隊員のヴェセリーはゴドウィン・オースティン氷河源頭のコルヘ初めて登って、これをウィンディ・ギャップ(現在ではスキャン・ラと呼ばれている。六二三三メートル)と名づけた。(注:下図)

 

上図出典:K2「DREAMS AND REALITY」Jim Haberl p-48 に加筆

K2の北東稜へ二回試登が行われた。第一回は七月十日で、長い間の悪天候が回復し。一点の雲もない快晴でその日は明けた。隊員のジヤコ・ギヤルモとヴェセリーの二人が朝早く出かけた。北東稜中に無名のピーク六ハニーメートルがある。まずこれに登って、それから山稜伝いにK2の頂上へ達しようというのである。二人は苦労して登って行ったが、六ハニーメートル峰まであとわずかの所で、疲労のため引返さざるを得なくなった。堅い氷の上へ出たのに、うかつな話だが、彼らはアイゼンを持っていなかったのである。

 

1902年・END

 

(注)K2登山史  clik https://K2

1892年 - マーティン・コンウェイがイギリスの探検隊を引き連れてバルトロ氷河のコンコルディアに到達。

1902年 - オスカー・エッケンシュタイン隊が、北東稜より6525m地点まで到達する。隊員にはアレイスター・クロウリーがいる。

1909年 - イタリアのアブルッツィ公が率いる隊が南東稜より6250m付近まで到達。南東稜は後に標準的なルートとなり「アブルッツィ稜」とも呼ばれる。

その後1938年、1939年、1953年にアメリカが挑戦しているが、いずれも成功しなかった。

1954年7月31日(初登頂) - イタリアのアルディト・デジオ隊 。パキスタン側から大規模な登山隊でアプローチし、リーノ・ラチェデッリ(イタリア語版)とアキッレ・コンパニョーニ(イタリア語版)の2人が登頂に成功。以降、この南東稜ルートが標準的な登山ルートとなる。

 

1938年

一九三八年の登山隊はアメリカであった。隊長はチャールズ・ハウストン、すでにヒマラヤに経験があり、アメリカで最も優秀な登山家で、その後一九五三年のK2登山の時にも再び隊長となった人である。その下に、四人の熟練したアメリカの登山家と、輸送係りとしてインド軍隊に勤務のイギリスの一士官が参加したもうこの時代にはヒマラヤ登山にも経験が積まれ、高所キャンプで率先して働くシェルパも養成されていて、その六人がダージリンから呼び寄せられた。一行はボンベーに上陸後、スリナガールに行き、例によってそこからキャラヴァンを組んで出発したのは五月十三日、アスコーレを過ぎ、バルトロ氷河を溯って、六月十二日にはK2の麓に達してベースーキャンプを築いた。八ウストン隊は優秀なメンバーを揃えていたが、この年はルート偵察を主な任務とした。ベースーキャンプが定まると、数隊に分れて登路探査が始められた。

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上図:Charles Houstonは1回目は1938年で、彼とポール・ペッツォルトがアブルッツォ・シュパーの8,000メートルで「ショルダー」に到達した最初の偵察隊となりました。 出典:Clik:K2/1938
 

 

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上図出典:白簱史朗 「GREAT KARAKORAM」:13  k2 バルトロ氷河コンコルディアから。

 

K2の四つの稜のうち、南西稜は始めからむつかしくて問題にならなかった。北西稜と北東稜は、すでにアプルッジ隊が不可能と認めていたにもかかわらず、アメリカ隊はもう一度自分の眼でそれを確かめずにはおれなかった。しかし彼らの偵察の結果も、やはり不可能であった。そこでいよいよ南東稜(アプルッジ稜に全力を傾けることとなった。探査のため時日を食って、アプルッジ稜に取りかかったのは、七月に入っていた。第一キャにプ(五四〇〇メートル)がその稜の下に設けられた。K2が他のヒマラヤの八千メートル峰と異なるところは、この第一キャンプから頂上まで、ほとんど平地らしいものがなく急峻な傾斜で一気に続いていることである。K2がいかに激しい登りであるかがわかる。

 

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前進キャンプは常に、代る代る二人の隊員が先頭に立って登路を偵察し、危険な個所には固定ザイルを取りつけ、それから荷を負ったシェルパが続くといった順で進行した。第二ヤンプ(五八八〇メートル)から上は困難で、ポーターのための道を作るために数日かかり、何十本ものピトンが打ちこまれ、三百メートル以上のザイルを取りつけ、ようやく狭苦しい場所に第三キャンプを設営することができた(六三一〇メートル)。

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第三からの登りは非常に急峻な脆い岩稜で、落石の危険があった。ここで大した事故の起らなかったのは、むしろ不思議なくらい。第三キャンプはこの落石の下に曝され、そこのテントはその直撃をうけて穴をあけられるという始末であった。第四キャンプ(六五五〇タートル)は高さ二十メートルのジャンダルム全稜上に山頂を護衛するように立っている岩峰)の上に設けられた。
 

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上図出典:白簱史朗 「GREAT KARAKORAM」:15  k2 ゴドウイン・オースティン氷河から。

第四から第五まで、わずか百五十メートルしか登り得なかったことが示す通り、最も困難な個所であった。赤色をした険しい岩壁で、そこにほとんど垂直の四十五メートルの割れ目が入っていた。この割れ目を隊員のウィリアムー(ウスが四時間かかって乗り切ったので、以後この難所は「「ウスのチムニー」と呼ばれるようになった。第五キャンプは約六七〇〇メートルの地点におかれたが、この両キャンプの間の荷物運搬は全部ザイルで引上げる始末であった。
 

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嵐のため一日の停滞を余儀なくされた後、快晴を得て、第六キャンプ(七一〇〇タートル)が設置され、七月十九日隊長のハウストンと隊員ペッツォルトはついにアブルッジ稜の上に達した。ずっと急な傾斜を続けてせり上ってきたアブルッジ稜はここで終って、ちょつとした台地状をなしている。ここを「肩」と呼んだ。その「肩」の一番上(七七四〇メーール)まで行くには、北東側の、角度四十五度もある急な蒼氷の斜面を、足場を切りながら横切って行かねばならなかった。二人はその道を開いてから、追われるように第六へ戻った。その間にほかの隊員もそこへ来ていた。

 

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上図出典: 藤田弘基「ヒマラヤ百高峰」p-75  k2(8611m) コンコルディア(4720m)からの朝の山容 

ここで彼らは最後の決定を迫られた。余された食糧から推して、これ以上の高所キャンプを設けても、それに補給することが不可能だった。その上天候が気遣われた。悪くなりそうな傾向がみえた。アブルッジ稜のような険しい長いルートで、一たび悪天候に見舞われたら、どんなみじめな立場におかれるか、眼にみえている。前進か、退却か。討議の結果、許された安全の囲内で、行ける所まで行ってみることになった。

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上図出典: 藤田弘基「ヒマラヤ百高峰」p-77  ガッシャ―ブルムⅣ峰(7923m) コンコルディア(4720m)からの夕景 

日数は二日、人員も二名、もしそれでやれなければ、頂上攻撃は放棄するということに決まった。七月二十日、同僚の手によってアブルッジ稜の上部まで荷が揚げられ、その荷を負ってハウストンとペッツォルトは、その日高度約七五三〇メートルまで登り、そこに穴を掘ってテントを張った。これが第七で、この遠征隊の最高キャンプとなった。  
  Clik:1938/MAX

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二人はその晩はよく眠り、翌二十一日勇躍して頂上へ向った。天気はすばらしく、風もなかった。正午頃、二人は前々日到達した「肩」の一番上に着いた。そこから先、頂上のピラミッドの基部までは、氷の破片の散乱した広い雪面であった。二人はそこを通り過ぎてピラミッドの取っつきまで行った。そこの岩の間隙に工合のいい設営地を見づけたが、そこでさらに一夜を過す余裕はなかった。ペッツォルトは岩壁を少し上まで登ってみた。彼の到達した最高地点は七九二五メートルであった。そこで二人は頂上に背を向けねばならなかった。これが一九三八年のアメリカ隊のクライマックスであった。

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上図出典:  内田良平「 ヒマラヤ50峰」p-133 氷河湖とK2 コンコルディア上部から
 

もしこのアメリカ隊が最初登路の偵察に暇取らず、すぐアブルッジ稜に取りかかって、その後打ち続いた晴天を利していたら、もしさらに強力な食糧の補給があったら、頂上に達したかもしれない。その可能性は十分にあった。K2は登頂し得ることを彼らは立証したのである。これを翌一九三九年の第二次アメリカ隊の失策に比較すると、この第一次隊の隊長はハウストンの登山家としての賢明な判断力と処置が、一そう立派なものに思えてくる。

 

1938年・END

 

 

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上図出典:K2「DREAMS AND REALITY」Jim Haberl p-44

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上図出典:藤田弘基「ヒマラヤ名峰辞典」p-400  平凡社刊
 
下図3画面出典:藤田弘基 「ヒマラヤ名峰辞典」 p-389,394,395,438,439に加筆

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1939年

一九三九年、アメリカぱ第二次登山隊を沁に送った。隊長はフリッツーヴィスナーで、その指揮の下に五人の隊員と一人の輸送係りの士官、九人のシェルパが、登山隊を編成した。どうしたことか、前回参加した隊員は一人もおらず、隊長を除くほか、全部ヒマラヤには初見参であった

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登山隊は五月三十一日応の南竟に達し、六月十四日にはすでに第一、第ニキャンプが設けられた。天候は前年と打って変って悪く、そのためしばしば行動が妨げられ、第六キャンプを建てた時はもう七月五日になっていた。そればかりでなく、隊員に故障続出、三人は行動不能になった。しかし隊長ヴィスナーと隊員ヴォルフは選り抜きのシェルパを連れて、先頭に立って前進していた。十一個の荷が第七キャンプに運び上げられ、二日後にこの二人はさらに五時間半登った所に第ハキャンプを建てた。

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七月十七日、二人はシェルパのパサンーダワーラマを連れて、第九キャンプを七九四〇メートルの地点に設けるために進んだが、深い雪のために行き悩み、ヴォルフは第八に帰り、ヴィスナーとパサンーダワニフマだけが頂上ビーフミットの下の岩場に、小さな第九キャンプ(七九四〇メートル)のテントを張った。七月十九日、天気はよく、二人は頂上へ向った。しかし登攀は非常な困難を極め、岩壁を登る所でパサンは前進を拒んだ。すでに午後六時半になった。ヴィスナーは夜通しでも登るつもりでいたが相手が応じないので、止むを得ず引返すことになった。その危険な下降の途中、パサンはアイゼシを失くした。第九へ戻ったのは翌朝の二時三十分、その日は一日休養し、翌二十一日二人は再び頂上へ向った。前に懲りてこんどは別のルートを試みたが、アイゼンがなかったために登攀は暇取り、とうとう時間がなくなって引返さざるを得なくなった。

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上図:ヒマラヤ探検史 フィリップ・パーカー「編」p-176 東洋書林刊

 

この登山隊の悲劇は、この二人が第八キャンプまで降りてきた時から始まる。第八にはヴォルフが一人で待っていた。三人はもう一度頂上アタッタの食糧補給のため、第七キャンプに下った。その途中ヴォルフがススリップし、ヴィスナーに留められて墜落はまぬかれたが、彼の寝袋を失った。第七についてみると驚いたことには、中は空だった。その夜三人はたった一つの寝袋で寝た。翌日ヴォルフがそこに残り、あとの二人が補給品を取りに第六キャンプに下った。ところがそこも空だった。彼らはさらに下った。第ニキャンプまでの中間キャンプは全部放棄されていた。二人は第二で惨めな一夜を送った後、翌日ベースーキャンプに辿り着いて事の真相を知った。連絡の不十分と三人の高所キャンプの滞在があまり長かったので、てっきり三人は死んだものと思いキャンプを引上げたのであった。

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第七キャンプにはヴォルフが一人置去りにされて待っている。これを助けに行かねばならぬしかし隊員の中に活躍できる状態の者はいなかった。第七まで登り得るエネルギーを持った者は四人のシェルパだけだった。七月二十八日、サーダーのパサン・キクリは同僚のツェリンとともに登山史上驚歎すべき登攀をなしとげた。彼らは一日で第六キャンプまで約二千メートル以上の高度差を、しかも雪と岩との険しい道を登ったのである。途中第四キャンプで待ってい先発の二人のシェルパと一緒になり、四人はその夜を第六で明かし、翌日その中三人が危険な氷の大斜面を横切って第七キャンプに達した。
 

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ヴォルフは衰弱し切って、ほとんど立上ることさえできない状態にあった。そこで三人のシェルパは彼に食事を作ってから1タン第六に戻った。翌日は悪天候のため救援は果たされなかった。翌三十一日、同じ三人のシェルパがヴォルフ救出のため第七に出掛けた。それが最後だった。彼らは再び帰って来なかった。一人第六に残ったツェリンが急を告げにべ1スーキャンプに下った。しかし救援に上まで行くことのできる者はいなかった。行ったところで彼らの死を確かぬるだけのことだったろう。

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この登山隊はK2の頂上まであと二百三十メートルという地点まで迫った。その手柄は認められていいが、行動や判断には遺憾なところがあった。立派な登山とはただ頂上に達することだけではない。その点でこの登山隊は激しく非難された。それに反しシェルパの勇敢な働きは高ごく賞讃された。彼らは自己の安全を守ろうとすれば守ることはできた。しかし責任感が彼らを死に至らしめたのである。三人のシェルパ、ことにその中でも勇敢であったパサンーキクジの無私の行為は、ヒマラヤ登山史上の美談として、彼の名を不朽ならしめた。

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上図・下図出典:CLik:1939MAX

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1939年・END

 

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上図出典:白簱史朗 「GREAT KARAKORAM:28  ガッシャ―ブルムⅠ峰(8068m)

 

1953年

 

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上図/下図出典:K2「DREAMS AND REALITY」Jim Haberl p-39/41
 

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一九五三年、アメリリカ隊は三たびK2に向った。隊長は第一次のK2隊長だったチャルズー・ハウストシ、それに六人の登山家と、輸送指揮のイギリスの士官が加わり、総計八人の隊であった。大戦後パキスタンが独立したので、ダージリンからシェルパを呼び寄せることができなくなった。これは痛手だった。カラコルムの登山にはその土地の者を雇わねばならない。土地の者も訓練しだいで有能な高所ポーターに養成し得ることがあとでわかったが、その技術も精神もまだ高峰には慣れていなかった。

一行は六月十九日k2にベースーキャンプを設け、二十六日から登攀に着手し、前例通りアブルッジ稜にキャンプを進めて行った。第三キャンプから上は、ポーターを使わず、八人の隊員だけで荷を揚げた。途中から天気が悪くなり、第ハキャンプ設営に成功したのは八月一日であった。攻撃開始以来三十五日経過していた。もうあと第九キャンプを築けば、頂上は目睫(もくしょう)のうちにあった。ところが不運にも、第八に着くと同時にモンスーンが荒れだした。はげしい嵐は二日、三日、四日、・・・・・と続いた。たった三日の晴天、それさえ得れれば彼らは勝利の確信を持っていた。吹き荒らされるテントの中で、彼らは無記名投票で頂上アタックの。隊員まで決めていた。しかし晴天は来なかった。

 

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それのみか八月七日ついに最も惨酷な打撃が来た。隊員のギルキーが血栓性静脈炎をおこしたのである。状態はきわめて危険であった。登頂か、一人の生命か。問うも愚か、一同は下山に決めた。
 

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ギルキーの容態は悪化の一途をたどった。もう猶予はできない。八月十日の朝、悪天候のまん中へ八人の隊員が出た。ギルキーは寝袋に入れられたまま、ザイルで確保しながらずりおろすよりほかなかった。寒気と吹雪と戦いながら彼らは慎重に下って行った。第七キャンプに近く、新雪で覆われたの急斜面を下る途中だった。一人がスリップして落ちた。アッという間に他の者も転落し始めた。結びあっていたザイタがもつれて、皆が引きずられたのである。彼らが奇蹟的に止まったのは、ただ一人転落を免かれた隊員が、ガッチリとピッケルを氷に打ちこで、ザイルを確保したからであった。我を失った隊員たちもようやく正気に返り、辛うじて第七キャンプにたどりついた。ギルキーの体は、すぐあとで助けに来るつもりで、氷に深く打ちこんだ二本のピッケルにザイルで結び留めておいた。

 

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しかし彼らがキャンプを整えてから。そこへ戻っ七来た時には、もうギルキーの姿はなかった。わずかの留守の間に、雪崩は彼の体をピッケルごとさらって行ってしまったのであった。残った七人も惨憺たる状態であった。ある者はひどい凍傷にかかり、ある者は傷を受け、ある者は肋骨を折っていた。そしてなおも吹雪の荒れ狂っているアブルッジ稜を下降せねばならなかった。ベースーキャンプにたどり着くまでに五日も要したことをみても、彼らの苦闘ぶりが察しられよう。

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上記出典:Clik:1953アメリカ隊
 

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1953年・END

 

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1954年

 

一九五四年、K2はついにその不屈の頂上を、イタリア登山隊に譲った。アブルッジ公を先輩に持つイタリア山岳会としては、どうしてもその登頂を自国の名誉にしたく、数年前からその準備に取りかかっていた。そしてパキスタン政府から一九五四年の許可を得た。

 

下図は隊長のアルディート・デジオ  出典:Clik:K2-1954

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一九五五年の許可はアメリカが得ていた。だからイタリア隊がもし失敗すると、K2登頂の栄冠はもはぞ自国に帰さなくなるかもしれぬ。それだけにイタリアとしては真剣であった。国家総力的な意気ごみをこの登山にかけた。登山隊の莫大な費用は国家の補助を受けたが、約一億二千万リラ(日本の金に換算すると約七千万円の巨額)で前年のアメリカ隊の五、六倍の額になる。隊長は地質学者のアルディトー・デジオで、彼はカラコルムには経験を持っていた。

 

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上図出典:Clik:K2-1954
隊員は三人の科学班と、イタリア屈指の山男十一人から成る登攀隊と、それに医師とカメラマンが加わった。この強力な登山隊がアブルッジ稜に取りかかったのは五月の末であった。例年六月は好天気が続くのに、この年はずっと吹雪が吹き荒れて、登攀は困難をきわめた。その上六月二十一日、第ニキャンプで隊員のプショーズが肺炎で急死するという事故に出あった。一同はベース・キャンプに下りて、僚友を手厚く葬った後、再び攻撃にかかった。

 

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アブルッジ稜全域にわたって固定ザイルが取りつけられ、第四と第五の間は手動リフトで荷揚げをするという大仕掛けで、次々とキャンプを高所に進め、七四〇〇メートルの堅雪上に第七キャンプが築かれたのは、七月二十五日だった攻撃開始以来約二ヵ月、そのうちの四十日は悪天候という苛酷な条件の中であった。

 

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それから上は五人の推進隊によって、二十八日第八キャンプ(七六三〇メートル)を設置し、三十日には最高拠点である第九キャップ(八〇五〇メートル)が二人の隊員によって占められた。第九の二人はその夜はほとんど眠られなかった。後続の者が食糧と酸素補給器を持ってくるはずなのに、それが到着しないのである。翌三十一日早朝、二人は迎えに下って行くと、その途中で酸素補給器を見つけた。後続の者は第九まで達しられず、そこに置いて行ったのであった。

 

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二人は再び第九へ引返した。午前六時すぎだった。それから頂上へ向ったが、進行ははかどらなかった。途中で酸素はからっぼになった。予定よりはずっと時間がかかったからである。二人は酸素マスクを取った。そしてあとは意志の力をふりしぼって登行をつづけた。

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やがて頂上から北に走る稜線に達した。そしてついに頂上に立った。午後六時であった。頂上で三十分休んで、危険な下降にかかった。あたりを領した暗がりと極度の疲労のため、二人はあやうく命をおとしそうな目にあいながらも、頑張りつづけて、夜の十一時頃、仲間の待つ第ハキャンプヘたどりついた。イタリア隊はK2登頂に成功した。万全の準備と、よく組織のとれた隊員の努力の結果であった。イタリア隊はチームの団結こそ成功をもたらしたものとして、登頂隊員の名前は、当時公表しなかった。それがアチイレーコンパニョーユとリノーラチェデジであることがわかっだのは、ずっと後のことであった。

 

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深田 久弥 ふかだ  きゅうや、1903年(明治36年) - 1971年(昭和46年)3月21は、石川県大聖寺町(現・加賀市)生まれの小説家、随筆家および登山家、チベット・ヒマラヤ研究家である。  概要 戦前は小説家、編集者として活躍し、戦後は主に山やスキーに関する随筆をもって著名がある。山をこよなく愛し、読売文学賞を受賞した著書『日本百名山』は特に良く知られている。俳号も山の入った九山であり(愛称である「久さん」のもじりで、荏草句会の永井龍男による命名)、自宅の書斎を兼ねた書庫には「九山山房」の名があり、山房の主とも称した。1971年(昭和46年)3月21日、登山中の茅ヶ岳山頂直下で脳卒中のため68歳で死去。その場所には『深田久弥先生終焉の地』と表記された石碑が立っている。命日の3月21日は「九山忌」と称される。「深田クラブ」により100名山を加えて200にした日本二百名

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上図:エヴェレスト南壁  撮影:白岩吉明

 26話

 クリス・ボニトン

 1934年~  イギリスの登山家

 エヴェレスト  世界最高峰の初登頂

 「ヒマラヤ冒険物語」p39-103 クリス・ボニトン著作・田口二郎訳  岩波書店刊

さてエヴェレストの準備には、チョー・オユー遠征に参加した生理学者のグリフイスーピュー博士が非常に重要な役目を果たした。人間の身体は高度にどのように順応するのか当時はまだ謎のままだった。これに対してピュー博士は、高度順応に必要なさまざまな条件を明確にし、なかでも重要なのは、脱水症にならぬよう多くの水分をとる必要を明らかにしたことだった。こうした発見は主にピュー博士の研究に負うものである。遠征の食料は周到に検討され、また装備類、特に特別デザインの高所用ブーツ、高所用テント、高所服などは、かつてのどの遠征よりも勝れたものになった。

 

下図:エヴェレスト北面  撮影:白岩吉明

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人は登攀に向けてひとたび足を踏み出すと、その試みを成功させたいという、とてつもない原動力を自分に持つものだ。しかし現実には、エヴェレストに対する過去六回にわたる挑戦(北側から五回、南側から一回)がすべて失敗していた一九五三年の時点では、今度の遠征隊がいかに大きく、装備も勝れていようと、成功のチャンスはきわめて小さなものにしか見えなかった。
 

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上図:左上:エヴェレスト  右上:ローツェ  中央:クーンブ氷河

出典:「EVEREST」Peter Gillman著  p-6

 
 

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上図:チャンボチェの僧院  遠征のメンバーであったACソーントンによって描かれました

遠征開始 一九五三年二月十二日、すべての装備と食料を船便で送り出す用意が整った。三月二十七日には、全員がエヴェレスト山群の南方二、三マイルのチャンボチェの僧院(上図)に到着した。まだ登山にはシーズンが早かった。ハントは本格的登山を始める前に、一定期間を高度順応のために当てるよう心に決めていた。これは戦前のヒマラヤ遠征、また戦後の五〇年代初期の遠征を通じて魅力的な、評価を得ている考え方だった。ただしそれ以後の遠征では、高度順応だけを目的とした事前行動は行なわず、初めからあらゆる努力を本格的登山に集中し、高度順応は山の低部を登る傾向になってきている。
 

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上図:Peter Gillman「EVEREST」p-64より 「ダグ・スコットの1972年の写真に写っているクンブ氷河は、1951年にイギリス軍の進軍を阻んだ障壁だった。絶えず移動し、巨大なクレバスが刻まれているため、それ以来、常に危険をもたらしてきた。1952年に無事に通過した後、スイス人はレイモンド・ランバート(写真左、右)とテンジンを先頭に、登頂を目指す準備をした。」

下図:「EVEREST」Peter Gillman著 p-62

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さてエヴェレスト遠征の作戦は、すべての包囲法と同じく、時間をかけてルートを頂上に向けて延ばし、そこにいくつものキャンプを設置し、何組もの隊がキャンプ間を移動する、複雑だが定型化したものである。最初にぶつかる障害は、今日では有名なクンブのアイスーフォールである。その後ウェスタンークウムに入るにつれて道は楽になる。それでもクレバスを避けつつたどる長い道のりだ。中央に囗を開けるクレバスのため登山者はともすれば岩壁寄りに押しやられ、その結果、ヌプツェの急峻で細かい凹凸に覆われた胸壁からの雪崩の危険にさらされる。ウェスタッークウムを登りつめた奥はローツェ氷河である。この氷河は巨大な階段の連続で、急な氷の断崖が広い台地を上に載せるという組合せで何段も重なり、ローツェの頂上岩壁の下まで続いている。ローツェ氷河の源頭近くから、エヴェレストのサウスーコルをめざして雪の斜面の長いトラバースが始まる。サウスーコルこそはエヴェレスト頂上への跳躍台である。ここから南東稜がサウスーサミットを経由し、エヴェレスト頂上まで八六〇メートルの標高差で続く。サウスーコルから見上げると、サウスーサミットが頂上のように見える。本当の頂上はその奥にある。

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出典:「EVEREST」Peter Gillman著  p-168
 

 ジョン・ハントはいつも力を尽くして行動した。自分が誰よりも激しく、少なくとも誰にも劣らず働いている姿を隊員に見せる決意をしていた。ポーターに付き添う際は自分も荷を担ぎ、ウェスタンークウムとローツェの上部氷河では自ら偵察に出かけ、遠征隊に必要な詳細な行動プランと毎日の運営業務をてきぱきと片づけた。その日の仕事をやりおおせるために働き過ぎて顔面蒼白になったことは一度や二度ではない。彼は相当に負けず嫌いだった。エレストヘのアプローチ行進の途上、ヒラリーがこれに気づいて彼の自伝の中で、こんな描写をしている。ジョン(ハント)を理解するのはむずかしかったにせよ、ともかく私は彼を尊敬するようになつた。彼は信じられぬ程の固い決意で自分を励ましていた。私たちの大部分は彼よりはるかに若かっだのに、ジョンは体力で誰にも負けないことを是が非でも立証せねばならぬ、といつも意気込んでいるように感じられた。アプローチ行進が始まってから三日目のことをよく覚えている。ドロガット村落をあとにした長い急な丘を元気よく登った時、先を行くジョンに私は追いつこうとした。すると彼は絶対に追い越されまいとぐんぐんピッチをあげた。この種の挑戦が私にはとてもこたえられない。私は爆発的にスピードをあげジョンをぐっと追い越した。駆けくらべをして私の心は浮き立っていた。だが、ジョンの顔を見て愕然とした。最後の最後まで力をしぼり、彼の顔は蒼白で引きつっている。思うように速度をあげられないので、死にもの狂いの形相が現われていた。だが・・・私はいぶかしく思った。ジョンはいったい何を示そうと懸命になっているのか。彼はまさしく遠征隊のリーダーで、その手に鞭を握っている。それだけで、すでに十分ではないのか。しかし今、私も年をとった。今なら私も分かる。時にはそれだけでは十分ではないのだ。私たちは、指導的な仕事をする最良の年齢を目の前にする時になってさえ、自分の肉体には限界があり、あるいはそれが衰えつつあるのを、すんなり受け入れるのが嫌な場合が間々あるのだ。

下図:ジョン・ハント(隊長)

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五月七日,ハントはチームの大部分をベースーキャンプに集め、自分の最終攻撃プランを発表した。彼は自分の手中にある資源、物資と人力の両面とも、一回限りの強力な頂上攻撃をかける分しかないと感じた。これが失敗すれば、全員が下山、休養し、もう一度考え直さねばならぬことになるだろう。しかし頂上攻略についての彼の考え方は、それまでの戦略と首尾一貫している。つまりまず偵察を行ない、次に必要物資を配置し、それから突進に移るのである。これを実行するためには、ハントはまずサウス・コルに到達しなければならない。彼はこの仕事をジョージーロウに託した。ロウは遠征隊の中でヒラリーと並び、雪と氷に関してはすべてこなす経験者である。ロウのサウスーコル隊には、ヒマラヤへの若年の新参、ジョージーバンドとマイク・ウェストマコットの二人とシェルパのIグループを参加させた。その時点での計画は次のようなものだった。ひとたびサウスーコルヘの道が拓かれると、ノイズとウィリーの監督下にコルヘ大規模な荷上げを行ない、これを追ってチャールズ・エヴァンズとトムーボーディロンがコルに入るそこから二人は密閉式酸素吸入器を使ってサウスーサミットに攻撃をかける。密閉式は理論的には従来の開放式よりも効果的で長時間使えるから、二人は少なくともコルから高度差七八〇メートルのサウスーサミットには到達できるはずであり、場合によっては、エヴェレストの頂上まで足を延ばすことも考えられないことではない。

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上図:左端:ウィルフリッド・ノイス  左から3番目:ヒラリー卿  右端:ジョージ・ロウ 

五月十五日の今第六キャンプにいたロウが。生まれて初めて一錠の睡眠剤を飲んだ。翌朝、彼はテコでも目が覚めなくなった。相棒のノイズが頼むからと、怒鳴ったり、げんこつで殴りつけたりするが効き目なく、やっと朝の十時半になって彼はテントからよろめき出て、二人でロウが昨日残した足跡をたどり始めた。しかし長くは進めず、ロウは歩いているときにも立つたまま眠る有様で、ノイズは結局ロウを連れて引き返すよりなく、こうして貴重な一日が空費された。翌十七日、ロウはすっかり回復し十分休んだので、今度はロケットのように前進し、遂に二人はローツェ氷河を半分登った高さ七三一五メートルの高度に第七キャンプを設けた。そこからサウスーコルに達するのに、まだ六七〇メートルの高度差がある。ここで、ノイズは一気に下山した。彼はサウスーコルヘの第一回目の大荷辷げ隊の責任者になっていたからだ。その日、ノイズに代りマイクーウォードが、ロウに合流するため登っ来た。しかし彼は、この第七キャンプまで登るのに力を使い切った様子だった。翌日、氷のような風が斜面越しに吹き続け、ウォードは身体を走る悪寒に悩まされた。第七キャンプをあとにしたが、ウォードの足取りは遅くなる一方で、一〇〇メートルも登らぬうちに彼は後退を余儀なくされた。その日は一日中テントに籠もり、翌二十日、再び登高を試みたが、前日の高度にさえ行けなかった。こうして遠征隊の前進力は押しとどめられるように止まってしまった

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上図:「EVEREST」Peter Gillman著  p-76
 

二十一目の朝、最高キャンプ〔第七キャンプ〕は惨めな状況だった。シェルパもノイスもなにか腹に合わぬものを食べ、全員気分が悪かった。サウスーコルまで登るのは、ルートがまだ拓かれていなかっただけに、チャンスはなさそうだった。このためノイズは、シェルパ一人だけを連れて出発することにした。彼が連れたアヌルというシェルパは、チェインースモーカーで、発酵させた米、大麦、トウモロコシから造る地酒のチャンに目がない、がっしりした身体つきの若者だった。ハントは前進基地から、第七キャンプを離れて上に向かう二つの黒点、ノイズとアヌルののろい歩みを見つめていた。そして今やヒラリーとテンジンが第一線に出て、手を貸さればならないと決心した。ヒラリー自身もすでに同じ決心を固めていた。テンジンなら誰よりもシェルパを励ますことができるだろう。それにヒラリーは自分自身のためにもサウスーコルに早くキャンプが設けられることに、大きな関心をもっていた。これに加えて今度は、まずコルまで稲妻のような速さで到達し、いったん下山して一両日休み、それから頂上攻撃に取り掛かるのに、十分耐えられる体力の自信があった。こうしてヒラリーとテンジンはその日の午後、前進基地をあとに一気に第七キャンプまで直登した。

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上図・下図:ヒラリー.とテンジン  上図:出典:「EVEREST」Peter Gillman著 p-70

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五月二十七日、ヒラリーとテンジンはチャールズーウィリーの率いるサウスーコルヘの荷上げ隊に合流し、シェルパをおだてたり励ましたりして手を貸した。同じ時刻に、チャールズーエヅアンズとトムーボーディロンの二人はジョンーハントのサポートを得て、サウスーサミットへの最初の試験的な攻撃、もしくは偵察を行なうため、ローツェーフェースの上をめざして登っていた。
 

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二人は頂上に向かってサウスーコルをあとにした。初めは尾根に沿って雪のガリーを登った。八二九〇メートルの高度で尾根の背の上に出た。まだ九時を廻ったばかりだ。一時間半で四〇〇メートルの高度を稼いだことになる。この速度ならサウスーサミットだけでなく、頂上まで行ける見込みは十分あった。しかし登高は急に難しくなってきた。岩場は新雪で覆われ、雲が次々と押し寄せ雪を降らせた。二人の足取りは落ち、次の二四五メートルを登るのに二時間かかった。今や彼らは昨年のスイス隊、ランベールとテンが到達した最高点まで来たが、そのとき難しい決断に迫られた。ソーターライム缶は通常三時間半の持続力をもつ。缶の取り替えは少し面倒で、いつも取り替え直後にバルブが凍結する危険があった。ところで二人が今立っている所は傾斜が緩く、缶を取り替えるには安全で格好な場所だ。しかし使用中の缶には、まだ半時間分ほどのソーダが残っている。この半時間分かあとでどんなに貴重なものになるか分からない。二人は顔にぴたりと押しつけられたマスクを通してモグモグ声で話し合い、結局ここで新しい缶に替えることに

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上図:「EVEREST」Peter Gillman著 上:p-155  下:p-88
再び彼らは登り始めたが、そこからはかつて誰も足を踏み入れたことのない新しい足場だった。雲が彼らを取り巻いて走り、傾斜は一段と急になり、薄い表面クラストの下に締りのない深い雪があり、その不安定な雪層は恐ろしい雪崩の危険をはらんでいた。しかしもっと悪いことに、エヴァッズの酸素吸入器が故障を起こし、彼の呼吸は荒々しくまた早くなった。しかし彼らは頑張って登り続け、ついにサウスーサミットの頂点にたどりついた。雲が二人を取り巻いてひっきりなしに流れ、尾根の東側にしがみついて大きな旗のようになびいていた。それでも尾根の頂稜は雲を被らず、くっきり姿を現わしていた。ついに彼らは、かつて人間が達したどんな高度よりも高い地点に立ち、人間として初めてエヴェレスト頂上へつながる最後の山稜を吟味することができた。それはおよそ人を励ますようには見えなかった。尾根を正面から見ると、実際よりもはるかに急峻で難しく、またはるかに長く目に映るものだ。エヴァンズよりも約二十年後の一九七五年、タブースコットは南壁からサウスーサミットのすぐ真下に抜け出て、そこから同じ主稜を仰いだ時、同様の印象を受けることに気がついた。
 

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上図:「EVEREST」Peter Gillman著 上から p-135  p-115
 
登頂  この間サウスーコルでは、着いたばかりのヒラリーとテンジンを交えた見物人たちが、ボーディロンとエヴァンズの動きを見つめていたが、二人が成功するに違いないと思わせる瞬間があった。この時、ヒラリーとテンジンは複雑な気持になったに違いない。内心はどうにせよ、ヒラリーは懸命にアングローサクソン流のチームースピリットを見せようと努めていた。しかしテンジンの方は、自分が世界の最高点に立つ最初の男になれるチャンスが消えかかるのを見て、顔つきも声色もすっかり動揺した。

 

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 上図:「EVEREST」Peter Gillman著  p-69
 
まる一日嵐が吹いたその翌日の二十八日、サウスーコルの夜明けの空は晴れ渡った。しかし気温はマイナスニ五度の厳しさで、ま強風が吹き荒れていた。しかし選択はただ一つ、頂上をめざして出発するだけだった。二人のシェルパのうち元気なのは若くて酒好きでチェインースモーカーのアンーニマだけだった。口ウとグレゴリーとアンーニマの三人は重たい荷を背負った。だが一行のうち一番重たい荷を担いだのは、登頂をめざすヒラリーとテンジンの二人で、めいめいが二十三キロ近い重量を担いでいた。一行はまず、先に隊長(ハントがダーナムギールを連れて登り、荷を下ろした地点(八三三六メートル)まで登った。しかし高所キャンプとしてまだ低すぎると判断し、ハントが残した荷のすべてを皆で分けて担いだ。ヒラリーの荷が一番重く二十七キロを超していた。一行はゆるゆると両手を使いながら尾根を攀じ登った。そして八四九四メートルの地点でとうとう足を止めた。ヒラリーとテンジンがテントを張るための雪の台地を掘り始めると、他の三人はサウスーコをめがけ急いで下っていった。ヒラリーとテンジンは二人とも絶好のコンディションで、酸素の補給なしで雪を掘りテントを張ることが出来た。その夜二人は豪勢な食事をした。甘く温かいレモン水、スープとコーヒーを立て続けに飲み、それと一緒にサ上アインを載せたビスケット、缶詰のアプリコット、ビスケットとジャムを胃の中に流し込んだ。

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 上図:「EVEREST」Peter Gillman著  p-146

翌朝、五月二十九日、午前四時に起きると素晴らしく冴え渡った夜明けだった。何よりなのは風がほとんど無いことだった。テンジンは高度差で五一八〇メートル低く、直線で一九キロメートル離れたチャンボチエ僧院を指さすことができた。雪を溶かし温かい飲物を作り、凍った硬い靴に足を押し込み、酸素吸入器を調整し、頂上攻撃に身を整えるのに二時間半かかった。六時半に二人は出発した。結局のところ、彼らは前のパーティーの足跡から便宜を与えられることはなかった。前のパーティーが通ったルートの様子が、どうも不安を与え好きになれなかったので、そこを避け、急で締りのない深い雪の中をずり落ちそうになりながら這い登っだのである。サウスーサミットに達しだのはまだ朝の九時で、そこからの眺望は素晴らしかった。前面のマカルー、その後方のカンチェンジュンガ、いずれの巨峰も二人の空高い居場所からは小さくなって見えた。たくさんの柔らかい小さな雲の玉が、谷間に寄り添って浮かんでいた。しかしその上の大空はあの目に滲みる深い藍色であり、東を見ると高層雲のいくつかの細い流れしかなかった。

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ヒラリーはサウスーサミットからエヴェレストの最後の山稜を、いくらか不吉な予感を覚えながら眺めた。そこはエヴァンズとボーディロンが次のような暗い予測を立てた場所だ。初めて見た目に、それはもの凄く印象的でそしてまったく恐ろしい眺めだった。その尾根の狭い脊梁の岩は薄い雪と氷を被っていた。その氷は右方向の束壁側へ于を伸ばし、壁の真上でとてつもない巨大な雪庇になりオーバー(ング状に垂れ、いかにも危険に見えた登山者の不用意な一足で崩れ去り、カンシュン氷河に三〇〇〇メートル砕け落ちるのを待ちかまえているようだった。そしてこの雪庇の反対の左側は、急な斜面となって落ち込み、ウェスタンークウムを見下ろして二四〇〇メートルの高度で切り立つ巨大な岩の懸崖の一番上の縁と合していた。まったく、どえらい眺めと言えばこのことだろう。しかし目を凝らすうちに、私の恐れは少しばかり退き始めた。私の目に確かに一条のルートが浮かぶではないか。左手のあの雪の斜面は、非常に急傾斜で裸でむき出してはいるが、ともかく尾根に取り付く下半分は、実際に上までずつと続いている。ところどころ大雪庇の裂け目が、もの欲し気に手を伸ばしてきているのだが。もしあの雪の斜面を伝って登路を求めるなら、少なくともかなり上まで行けるはずだ。
 

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上図:「EVEREST」Peter Gillman著  p-78
 

二人は短い休みをとり、ヒラリーは自分とテンジンの酸素ボンベを満杯の新しいのと取り替えた。二人は、サウスーサミットとエヴェレスト頂上との間のコルに続く、締まった硬い雪の斜面を下り始めた。先頭のヒラリーは、二人がはいているアイゼン付きの不格好な高所用ブーツのために、大きな足場を切った。その間後ろのテンジンは、ロープを堅く引き締めてヒラリーを確保し、次に自分が続いていった。コルまで下り、登りにかかった。雪庇が幾重にももたれかかった尾根筋を、二人は細心の注意を払いつつ、一時に一人ずつ行動した。ヒラリーはテンジンの足取りがひどく落ち、彼が激しく喘いでいるのに気がついたヒラリーがテンジンの酸素マスクを調べると、バルブの一つが凍って酸素の補給がほとんど止まっているのが分かった。彼は素早く氷を取り除いた。そして二人は足場を切りつつ、山稜の背をじりじりと登り詰めた。この間、二四〇〇メートル下のウェスタンークウムヘの、息もつかせず目も眩むような落差がいつも気掛かりだった。

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彼らにとって一番悩みの種は、尾根の背筋に立つ垂直の岩場だった。初めて見たとき、それはすべすべしてとても登攀不可能に見えた。しかしヒラリーは、尾根筋の右手の岩壁から剥がれるように雪庇が垂れ、その雪庇と岩の壁との間に、一本の割れ目があるのに目をつけた。私の目の前には、垂直だがいくっかの頼りになりそうな手がかりをもつ岩壁があった。後ろには、雪庇の一部である氷壁があり、ギラギラ光って硬くしかし所々に裂け目があった。私は目の前の岩壁に一つの手がかりを求め、それから後ろの氷壁に力いっぱい片足のアイゼンを突き立てた。酸素ボンベを負った背中を後ろの氷壁にもたせかけ、ゆっくりとずり上がった。自由な方の足で懸命にさぐり、岩場の面にちっぽけな足場を見つけ、それに足を掛けて重みのかかった片方の足から少し力を抜いた。雪庇にぐったりと背中をもたせかけて、懸命に荒い息を整えるように努めた。私の心の底には絶えず、いつ雪庇が崩れ落ちるかも知れぬ、という恐怖があり、神経は緊張でピンと張りつめたままだっだ。しかしゆっくりと、上に道を拓いていった。身体をねじらせたり押し込んだり、またどんな小さな手がかりも見逃さなかった。ある箇所では氷の裂け目にやっとのことでピッケルの頭を深くぶちこみ、これで手がかりのない二、三メートルを乗り越えることが出来た。このあと、氷の面の凹んだ穴に格好の足場を見つけ、それに足を掛けて踏み乗った瞬間に、私は岩場のてっぺんまで届き、そのまま身体を引き上げて安全圏に入った。その時ロープは真直ぐにピンと張りつめ、四〇フィートのその長さでは足りないくらいだった。

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彼らは最後の障害を乗り越え、午前十一時半ついにヒラリーとすぐ後ろに続くテンジンは、地上の最高地点に到達した。突然、すべてのものが彼らの周辺で滑り落ちて無くなった。彼らはエヴェレストの北尾根を上から眺め下ろすことができ、チベットの果てしない乾いた高原をはるか彼方まで、東方にカンチェンジュンガの山群、また西に向けば幾重もの高峰を、一望のうちに目に入れることができた。彼らは手を握り、抱き合い、持参した彼らの旗をはためかせた。その短い数刻の間、二人は成し遂げたものを手放しに喜び、完全に一体になった。それから二人は長い危険な下りに取り掛かった。
 

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遠征を終えて エヴェレストの初登頂は空前絶後と言ってよいくらい、全世界の人々の夢をかきたてた。おそらくただ一つ、人間による初めての月面着陸-これは最高技術の勝利だが-だけが、その反響の大きさで地上最高点への人間の到達を凌駕するものだったろう。ところが成功が一般世間に呼び起こした空前の関心と追従は、遠征隊がカトマンズに着くや否や、さまざまな問題を引き起こした。ネパールのナショナリストたちは、テンジンを彼らの政治信条の旗手に祭り上げようとし、追従的な大衆は、テンジンにどっと押し寄せ、「テンジン、シングーバード、テンジン万才」と気勢をあげた。彼らはヒラリーを完全に無視し、頂上に達したテンジンが肥って意気地なしの白人男を後ろに引きずっている漫画をプラカードに描いて、街中を行進した。ハントとヒラリーは騎士の爵位を授けられ、それと並びテンジンには勇敢な行為者に与えられる英国の勲章ジョージーメダルが授けられた。

 

後日談:登頂のニュースは、タイムズ紙特派員ジェームズ・モリスによって暗号でロンドンに伝えられました。彼の報道は、6月2日の戴冠式当日にイギリスの新聞で勝利の祝賀記事として掲載されました。ニューズ・クロニクル紙は「栄光の頂点」と書き立て、デイリー・エクスプレス紙は「これらすべてに加え、エベレストにも」という見出しを掲げました。
 

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「映画エヴェレスト征服」  76分 カラー  1953年 原題「The Conquest of Everest」 監督:ジョージ・ロウ  主演:メレディス・エドワーズ(ナレーター)、ジョン・ハント  1953年、イギリスの遠征隊が世界の最高峰エヴェレストをついに初制覇した。その一部始終をとらえたドキュメンタリー。英国アカデミー賞ドキュメンタリー賞受賞作。『エベレストの征服』は、エベレスト山頂へのさまざまな遠征についての、ジョージ・ロウ監督の 1953 年のイギリスのテクニカラー ドキュメンタリー映画です。 アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた。 カメラマンのトム・ストバートは、1953 年のイギリスのエベレスト遠征に参加しました (ジョージ・ロウもそうでした)。二度目の襲撃が成功した後、ストバートは下山隊に、アドバンス基地 (キャンプ) で緊張の苦しみの中で待っているハントやウェストマコットのような人々に何の兆候も与えないよう指示しました。ヒラリーとテンジンは、ストバートがその瞬間の感情をフィルムに捉えることができるほど接近するまでは成功したと述べた。

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レニ・ギルマンとピーター・ギルマンは、イギリスの作家兼ジャーナリストです。彼らは40年以上にわたり、全国紙に寄稿してきました。ライターズアウトドアギルドから6回受賞したピーターギルマンは、山を専門とするジャーナリストと見なされています。ピーター・ギルマンはまた、多くの本を書いており、そのうちのいくつかは彼の妻レニと共著です。ジョージ・マロリーの受賞歴のある伝記「The Wildest Dream」は、同名の映画にインスピレーションを与えました。
 

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 上図:「アンナプルナの里」 地元の画家による水彩画

 下図:左が「アンナプルナ1峰」  右は「アンナプルナ・サウス峰」  撮影:白岩吉明

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27話

クリス・ボニトン
 
1934年~  イギリスの登山家
アンナプルナ 人類最初の8000m
 
「ヒマラヤ冒険物語」p3-37 クリス・ボニトン著作・田口二郎訳  岩波書店刊

 
 ヒマラヤをめざして

魅力的なのは山だけではない。私たちには珍しい風俗の異なる人々、長い木綿のスカートをはき、重たげな耳輪をさげ小鼻の片方に金飾りをとおした女性たち。彼女たちの物腰は柔らかく繊細で、しばしばとても美しく見える。男たちは軽い身体つきで激しい労働のためやせているが、いつもよく笑い、愛想がいい。この人たちの住む峡谷の急勾配の山腹は、ひとかけらの土壌も無駄にすまいと丹精こめてきざまれた、無数の段々畑で出来あかっている。農家は泥の壁だが、精巧な木彫りの窓枠がはめられ、藁葺きかスレート屋根の彼らの住居は、私が英国の湖水地方の農家やスイスのシヤレーを見た時とまったく同じように、ぴったりと身を寄せて周囲の自然に溶け込んでいる。

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モーリスーエルツォーグと彼の八人のチームにとって、ヒマラヤへの旅立ちは格別の興奮を呼ぶものだった。それがまだ一九五〇年だったことを、ここでとくに想起したい。彼らのうちでヒマラヤに行ったことがあるのは一人だけだった。そして当時はまだ八〇〇〇メートルというとてつもない高さを超えるピークに登った者は、だれひとりいなかった。またそれまでにネパールには、たった一度しか登山の遠征隊が入っだことがなかった(一九三〇年のカンチェンジュンガ国際遠征隊のこと)。山岳王国ネパールは、東西約四〇〇マイルの長さでヒマラヤ山脈にまたがり、その領土に世界の最高峰十四座のうちの八座をかかえているが、フランス隊が入る一年前の一九四九年までは、ほとんどすべての外国人に国境を閉ざしていた。このため戦前のすべての英国エヴェレスト遠征隊は、チベット経由で北側から目的の山に近づかねばならなかった。しかし、戦後、事情は逆転した。中国がチベットを掌握したので外部にたいして封鎖され、ネパールの方が国を開き始めたのだ。
 

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上図:モーリ・エルツォーグ

一九五〇年にエルツォーグが持ったリーダーとしての権威が、八〇年代の今日の遠征リーダーにくらべいかに強力であったかは興味深い。五〇年代初期の時代感覚は登山の世界の中でさえ、権威という観念に対して今日より遥かに従順だった。確かにそうではあったが、少し見方をずらすと、フランス隊の士気を支えたさまざまな実質面は、今日の遠征隊とさして変わらなかったとも言える。エルツォーグのリーダーシップの取り方は、五三年のジョンー(ントのエヴェレストでのやり方、あるいは今日私自身が信ずる方法と類似している。エルツォーグの方法は、隊員のさまざまな気持にいつも密着し、登攀にあたっては自らが積極的な役割を果たし、決断を下す際には投票などせず、自分で判断するというやり方である。
 

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上図:ダウラギリ  撮影:白岩吉明

計画と組織

隊長のエルツォーグは、西ネパールの小村ダンシングの上の丘の端から、生まれて初めてヒマラヤの高い峰々を目にした。四月十日のことだ。その印象を彼は著書『アンナプルナ登頂』で次のように書いている。その丘の上で私たちを待ちうけていた眺めは、それまで私たちが想像していた何ものをも、はるかに超えていた。初めの一瞥では、ただフィルムのようなもやしか見えなかった。しかし、目を凝らすうちに、はるかな遠景に、そのもやよりずっと高い所に、怖るべき氷壁が信じられないような高さにそそり立ち、北への地平線を何百マイルもさえぎっているのが明らかに目に映った。その輝く壁は素晴らしく、一点の非のうちどころもない完璧なものだった。エルツォーグがそのとき見たのはダウラギリである。遠征隊はダウラギリ(八一六七メートル)とアンナプルナ(八〇九一メートル)両峰の登山許可を手にしていた。といっても彼らはまず、この両峰の麓にどうやってたどりつくか、その道を見つけねばならなかった。ネパールーヒマラヤの地図はとりわけ不正確だった。ネパールの支配者がインド測量局の入国を許さなかったので、測量は遠隔地からしか出来なかったからである。四月二十二日、一行はめざすトゥクチャ部落までたどりついた。ここでただちに偵察隊を編成し、いずれの巨峰を相手にするのか、ついでどちらのルートが成功のチャンスを与えるかを見きわめるための、偵察行動にとりかかった。

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上図  左:マナパティ(6380m) 右:ダウラギリ(8167m)  撮影:白岩吉明
 

最初、彼らはダウラギリに惹かれた。アンナプルナよりも高いし、それまでの観察で山の姿形を明確にとらえられたからだ。ダウラギリはカリーガンダキ〔峡谷〕から、孤立して盛り上がっている巨大な隆起であり、山のどのフェースも急峻である。遠征隊はこの巨峰に向けて三回の偵察隊を送り出した。しかしいずれも一行の勇気をくじいてしまった。彼らはヒマラヤの困度を測るのに、自分たちのアルプス的基準で行ない、それがまるで通用しないことに初めて気がついたのである。彼らが実際にダウラギリの長く急峻な山稜に取り組むと直ちに、あらゆる点で桁外れのスケールの大きさと、また高度のもたらす油断のできぬ深刻な影響を体験させられた。

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上図:空から見たアンナプルナ1峰 出典:「ヒマラヤ」p106-7  昭和45年5月 毎日新聞社刊

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登頂まで
さて遠征隊の第一の問題は、アンナプルナの基部にたどりつくことだった。五月十五囗、テレイとラシュナルとシヤツツが、三人のシェルパを連れてミリスティ峡谷をめざして出発した。それは信じられないほどの折り返し行進の始まりだった。森と灌木に覆われたいくつもの段丘を通り、多くの絶壁をへつり、ニルギリ山脈の白雲に輝く峰々と、一五〇〇メートルにもなるミリステイ峡谷の深いゴルジュー岩壁の狭隘な谷〕の間の、急な懸崖の斜面に、細々とつながる岩棚を次々に伝って進んだ。峡谷の河床に激突する奔流の雷鳴のような響きさえ、ほとんど伝わってこない高い場所を歩いた。そしてついに、長い折り返し行進の最後に、アンナプルナ基部の広い盆地につながる、急勾配だがやさしい下りのクーロアール〔急峻な岩溝〕の降り口まで来た。アンナプルナは彼らの目の前にあった。しかし彼らはこれからアンナプルナの登路を探さねならなかった。不確定な状況はまだ少しも変わっていない。
 

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上図出典:「La montagne 山岳」第1巻・山の探求」昭和32年5月 朋文堂刊

ヒマラヤ登山には二通りの進め方がある。一つはアルパインースタイルで、クライマーは全部の荷を自分で担ぎ、中途でビバーク〔テントなしで夜を過ごす〕するなりテントを張って、ともかく一挙に頂上をめざす。もう一つは包囲作戦で、大きな山腹に下から順ぐりに何力所もキャンプを設け、頂上攻撃に必要なすべての装備を時間をかけて上方に運ぶ。普通、二人の隊員に頂上攻撃をかけさせるために、一番高所のキャンプまで二人の隊員を押し上げるのが全作戦の目標となる。このピラミッド式アプローチは、ヒマラヤの巨大なスケールと並外れた高度に対応して編み出されたものだ。たとえクライマーがただ一回の突進で頂上をめざしても、必要装備のすべてはとても背負い切れないところから生まれた作戦といえる。包囲法では、何段のキャンプが必要か、またキャンプ間の距離をどのくらいにするかは、一人の人間が・・・通常、一人のシェルパが、と書いてもいい・・・荷を担いで一日にどのくらいの距離と高度差を登れるかによって定まってくる。このため包囲法の山登りではシェルパが決定的な役割を担うことになる。彼らは山に接して包囲作戦以外に選択のないことを悟った。しかし彼らは激しい意気込みで山に立ち向かい、シェルパと共に荷を背負い、非常なスピードでルート開拓を始めた。

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 彼らのいる高度は七三〇〇メートルを越していた。その斜面を登るのは、新たに降り積もっだ雪の中を一歩一歩、足を前に進めるだけの頑な意志の力を必要とする、まさに苦行だった。さらに高度を高めると、疾風がギザギザした頂上稜線の鋸の歯の間を走るように駆けぬけ、一行の頭上に広がる大空に何本ものすじ雲をなびかせていた。彼らは午後いっぱい懸命に重たい足を進めたが、頂上への尾根は、行けども行けども近づく気配はなかった。そのうちほとんど気がつかぬまま突然、すぐ目の前に、氷を被ってつるつる光る岩場が姿を現わした。一行はここで硬い雪面を切って小さな台地を作りテントを立てた。その仕事を終えた二人のシェルパは、エルツォーグとラシュナルに幸運を祈ると匸言声をかけ、安全地帯の下のキャンプをめざし一目散に下山した。
 

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 上図出典:「La montagne 山岳」第1巻・山の探求」p-208  昭和32年5月 朋文堂刊
 アンナプルナ(8078m)の登路。数字はキャンプの位置。第4キャンプの左の丸印は、1950年6月4日から5日にかけての下山中の悲惨なビヴァ―クの位置。モーリス・エルゾォーグとルイ・ㇻシュナルはいまだかって登られたことのない最初の8000m峰に輝かしい勝利を博した。2人の勝利者は、重い凍傷にかかりはしたが、この素晴らしい成功はフランス登山界の実力を世界に示し、これと同時に8000mの神話を打破し、ヒマラヤ登山の黄金時代を開くことになった。  マルセル・イシャック撮影
 

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テントは二人でも窮屈なほど狹かった。夕暮前に、上の斜面から吹雪がヒューヒューと音をたてながら吹き荒れ、みるみるうちにテントの壁と雪の斜面の間に雪が積もった。その圧力で中の二人を無情にも谷側の底知れぬ深みに押し出し、はじき出そうとした。およそ高所では、どんなわずかな動作も仕事も、とてつもない努力を要するように感じられる。誰もが恐ろしいほどの無気力に襲われる。その夜二人は食事らしいものをつくる気力もなく、ただ紅茶を沸かし医師のウドーが処方した何種類かの錠剤を飲み下した。窮屈さと興奮のあまりほとんど眠れなかった。やがて雪が降り始め、テントを千切らんばかりに風が叩き、その危なげな止まり木をむしりとるかのように彼らを脅かした。テントは朝方にはぺしやんこになる寸前だった。凍ったテントのキャンバスが寝袋の上に重たくのしかかり、中の二人は半ば窒息しかかっていた。二人とも高度の影響で身体がいうことをきかず、コンロの火を点すのさえ、あまりに難儀な仕事だった。寝袋からやっと這い出し、凍った山靴に無理やり足を押し込むのが精いっぱいだった。
 

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前夜に一杯の紅茶を飲んだだけで、その朝は水分も食物もとらずにそのまま出発した。頂上への斜面は、すんなりと真直ぐに続いているように見えたので、二人はザイルをあとに残した。エルツォーグは、コンデンスーミルクのチューフー本、何個かのヌガーをザックに押し込んだ。彼らは一日中、上部に向けて苦闘した。一歩一歩と足を前に持ち上げ、一歩ごとに何度も喘いだ。そのうちラシュナルが、どうしても休む、と言い張り、靴を外して足をマッサージし始めた。彼の両足はまったく感覚を失ってしまったのだ。囗では言い表わせないほど冷たいまま彼は登ってきた。その時ラシュナルがエルツォーグに、「もしぼくが引き返すなら、君はどうする」と訊ねた。「ひとりで行くさ」とすぐさまエルツォーグは答えた。「それならぼくも、続いて行こう」とラシュナルが言った。彼らはじわじわ登り続け、周囲の山々が、いつの間にか次第に足下に低くなるにつれ、エルツォーグもラシュナルもそれぞれの思いに浸り始めた。エルツォーグは浮世離れした恍惚境に入った。この時の心境を彼は次のように記している。私はクリスタルの世界に生きていた。耳に入る音は定かでなく、空気は木綿わたのようだた。心の中にえもいわれぬ幸福感が湧きあがるのを感じた。しかしそれが何であるのか、うまく言うことが出来なかった。すべてがまったく新しく、かつて私が味わったことのないものだった。そして、ついに頂上の岩場が二人の目にはっきりと見えた。その岩場に一本の短いガリーが縦に走っていた。二人がそのガリーを攀じ登ると、突然、疾風が激しい勢いで顔と登山服を打った。そこからはどの方角にも斜面がそぎ落ちていた。いま彼らは、アンナプルナの頂きに到達した。二人は八〇〇〇メートルを超える山を登った世界最初の人間になったのだ。

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上図: アンナプルナ頂上に立つモーリ・エルツォーグ、1950年6月3日 左端が日本人読者にもおなじみフランス国旗を掲げたエルゾーグ、左から二枚目もフランス国旗、真ん中がフランス山岳会旗、そして右の2枚のショットは、エルゾーグ自身が幹部として勤めていたタイヤメーカーKléber Colombes社の社旗。(画像出典:Yves Ballu氏ウェブサイトより)邦訳の『処女峰アンナプルナ』登頂シーンでは、フランス国旗と山岳会旗を持ってきていたという記載はありますが、勤務先の社旗については触れられていません。ラシュナルがエルゾーグに対してイライラしながら「気でも狂ったのか?早く降りよう」と急かす状況だけ描かれています。
 アクシデント
 周辺に展開する、いま初めて見る眺望に目を凝らしているうちに、エルツォーグは言いようのない歓喜に包まれた。足下にはアンナプルナの南壁が目もくらむ急峻さでそぎ落ちている。南方に目をやると、マチャプチャレの”魚の尻尾”の形をした格好のいい頭が、南から重なるように押し寄せる黒雲の大群の合間から、気を惹くように手招さしていた。二人はまさしくモンスーン到来の寸前に、アンナプルナの頂上にたどりついたのだ。ラシュナルはもう一刻も早く下山したがっていた。しかしエルツォーグは勝利のひとときをよく噛みしめたかったので、リュックサックから小さな絹の旗をひき出し、ピッケルにくくりつけ、ラシュナルにそれを渡して、登頂の証拠として欠かせない頂上写真を撮った。ラシュナルが先にガリーの下降に取りかかったあとも、エルツォーグは短い間だが一人頂上に残った。それからほとんど夢うつつのままラシュナルを追って降り始めた。彼の頭にはさまざまな想い渦巻いた。ダウラギリで肘鉄砲を食ったあと、アンナプルナに至る道を探すのに、どんなに手間どったことか。それからの時間切れとの競走に近かった登攀、それにしてはよく頂上に立てたものだ。彼にはすべてが奇跡としか感じられなかった。

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幸いラシュナルは滑落したものの骨折しないですんだ。だが、ピッケルと片方のアイゼンを取り落としてしまった。しかし彼がひどく気に病んでいたのは、硬く凍りついた両足のことで、ともかくその夜のうちに医師のいる下のキャンプまでどうしても降りたがった。両足を切断され、もう二度と登れなくなるのを無性に恐れていたのだ。だが、テレイの方も必死にラシュナルを説得し、やっとのことで彼を上のキャンプまで這い登らせた。その夜はぞっとするような一夜だった。テレイとレビュフアの二人は夜通しエルツォーグとラシュナルの凍傷にかかった手足をマッサージし、また強く叩いた。実はこのために二人の凍傷はおそらく余計に悪化したにちがいない。その後にわかってきたことではあるが、凍傷にはわずかの擦り傷を与えるのさえ禁物で、身体の常温で傷の部分をじっくり温めてやる方が良いのだった。本当は、ベースーキャンプに下ろすまで、凍傷のまま凍結させておくべきだったのだ。朝方になると凍傷の手足にいくらか生命が戻ってきた。しかし同時に炎症と腫れがやってきた。

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時間だけが無慈悲にどんどん過ぎてゆく。第四キャンプはいつまでも影さえ現わさなかった。鎌状氷崖を伝い下に降りる肝心のガリーは、いったいどこなのか、その手がかりさえつかめなかった。一行は途方に暮れ疲れ果てて、被るものは一枚もなしで嵐の中に夜を迎える破目に陥り、無力そのものだった。テレイがピッケルを振り雪洞を掘り始めた。その時ラシュナルがつい二、三メートル先の半ば雪を被ったクレバスを見ようと、ふらふら歩きだした。突然、ギャーと大きな叫びと共に彼の姿は消えてしまった。隊員たちが駆けよると、暗い底から、「大丈夫だちうど良い場所を見つけた。ここは凄くでかい洞穴だ」と声が返ってきた。間もなく全員がその洞穴に入り、ともかく外の猛り狂う風と寒気から守られた。彼らは少なくともその夜を生き延びるチャンスをつかんだわけだ。テレイはザックから自分の寝袋を引き出し、中に潜って温まりたいと無性に願った。だが仲間の方に目をやるとレビュフアとエルツォーグ二人の、「俺たちは寝袋をもっていないぞ」と言いたげな視線にぶつかった。この二人はどさくさの朝の仕度の時に、その日のうちには下まで降りられると確信し、少しでも身軽になりたいばかりに寝袋を捨ててきたのだ。テレイは自分の寝袋を二人と分け合い三人揃って寝袋に足を突っ込んだ。

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彼らは夜通し震えながらまどろんだ。その間、粉雪が絶えず上から舞い込み、一行と装備のすべてを白く覆った。それでもついに夜明けがやってきた。氷の洞穴からは外がどんな様子なのか見当もつかない。そこからは外の風の咆哮は聞えないし、雪の厚みを通して伝わる明るさは、それが輝く陽の光なのか、それとも部厚い雲なのかも分からない。半ば眠りながら彼らは、粉雪に覆い隠された山靴を探し始めた。最初にレビュフアが自分の靴を探し当て、それを穿いて穴から這い出た。彼はすぐ戻ってきて、外は凄く寒く風も強くて何も見えない、とだけ報告した。そのすぐ後、彼は自分が雪眼にやられているのに気がついた。彼とテレイは昨日、吹きあげる真白な雪煙を通して先を見ようと努力し、ゴーグルを外して歩いた。その過ちの報いをいま受けることになったのだ。

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テレイは全力を尽くして終始エルッオーグを励ました。そのうちに突然、下から鋭い叫びが聞えだ。それは仲間のシャツッだった。シェルパたちもそこにいた。エルッオーグたちは昨夜、第三キャップからわずか二、三百メートルしか離れていない所にいたことがわかった。彼らの生命はこうして救われた。しかし彼らの冒険はそこで終わったわけではなかった。隊全員が雪崩に襲われたのは、それから間もなくのことだ。雪崩で流される途中エルッオーグがクレバスに落ち、彼の体に巻きつけていたザイルが他の隊員を落下から引き止め、エルッオーグ自身も錨になって救われた。その日の午後、ついに彼らは第ニキャンプによろめき着いた。そこには他の隊員たちもいたが、最も重要なことは医師のウドーがいたことだ。エルッオーグとラシュナルらは命拾いして、ともかくそこまでたどりついた。しかし彼らの苦しみは、そこからようやく始まったというべきだろう。二人用テントの身動きならぬ手狭さの中で医師ウドーの与える静脈注射の激痛、ベースーキャンプまで運びおろされる途中、手荒く揺さぶられて思わず悲鳴をあげるような苦痛。この苦痛はベースから、モンスーンの雨の中を行く長い帰路の間も途絶えることがなかった。ミリスティ峡谷沿いに無限の折り返しを繰り返し、いくつもの前山を登り下った。その途中の道端で麻酔薬なしで切断手術が行なわれた

 

下図はシェルパに担がれるエルツォーグ  「ヒマラヤ冒険物語」p33 クリス・ボニトン著作

 

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人それぞれの山
帰国後、エルツォーグは彼の著作を次の言葉で結んだ。私たちが手ぶらで赴いたアンナプルナは宝の山だった。それが授けてくれた宝によって、私たちはこれからの人生を築いて行ける。このことを心からかみしめ、私たちは新しい頁をめくる。新たな人生が始まるのだ。また、次の言葉も。人の生涯にはさまざまなアンナプルナがある。エルツォーグは足指と手指の全部を失ったにもかかわらず、彼自身の他のアンナプルナを見出した。彼はもう再び登ることは出来なかった。しかし自身の精力を自分の職務の中に、またフランス山岳会の仕事の中に昇華させ、最後にはフランスのスポーツ大臣にまでなった。今日彼は、郊外で悠々自適しているが、会う大にいかにも充実し満ち足りた人生を送った男の印象を与える。彼からはひとかけらの不満も失望感のしるしも見出されない。
 

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モーリス・エルゾーク

世界登山文学の古典。1950年6月5日、人類初の8000m峰登頂を果たしたフランス隊のモーリス・エルゾーグ隊長(当時31)の口述記である。1919年1月15日生まれのフランス人の登山家。Maurice Herzog と表記される。1950年6月3日、隊長として、ルイ・ラシュナルらと共に、ネパールのヒマラヤ山脈のアンナプルナに初登頂を決める。これが、人類最初の 8000m 以上の山の登山である。酸素ボンベは持参せずの快挙である。下山時に、手袋一双をなくしそのまま山を降りることとなり、凍傷にかかり、両手の指を切断することとなる。「アンナプルナ」登山記を出版するが、1100万部売れることとなる。1958年から1963年にかけて、フランスの青年・スポーツ担当長官となる。1968年から1977年にかけて、シャモニー市の市長となる。1970年から1995年まで、国際オリンピック委員会の理事を務める。2008年には、レジオン・ド・ヌール大十字賞をとる。2012年12月13日死去する。

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26話  27話  クリス・ボニトン
 

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サー・クリスチャン・ジョン・ストーリー・ボニントン(Sir Christian John Storey Bonington、1934年8月6日 - )は、イギリスの登山家。生涯でヒマラヤに19回遠征。遠征隊長として、イギリス隊のエベレスト南西壁初登攀、アンナプルナ南壁初登攀を成功に導いた。経歴ボニントンは16歳でクライミングを始めた。ロンドンのユニバーシティ・カレッジとサンドハースト王立陸軍士官学校で学び、1956年に英国戦車連隊に配属された。北ドイツで3年間過ごしたあと、陸軍野外学校で登山指導員として2年間過ごした。 その間、1958年にプティ・ドリュ(英語版)南西岩稜のイギリス人初登攀、1961年にモンブラン・フレネイ中央岩稜の初登攀に成功した。1960年にはイギリス・インド・ネパール陸軍合同隊遠征に参加し、アンナプルナ2峰(7937m)の初登頂に成功した。1961年に陸軍を除隊しユニリーバに就職、マーガリン部門で働いたが9ヶ月で辞職し、プロの登山家・探検家・ジャーナリストとなった。1970年からは自ら遠征隊を組織する。同年、アンナプルナ1峰南壁をめざす遠征隊を編成し、隊員2人が南壁の初登頂に成功。当時ヒマラヤの大岩壁はまだ登られておらず、高所クライミングにおける最先端の登攀だった。これによりヒマラヤ「壁の時代」の幕が切って落とされる。2年後にはエベレスト南西壁遠征隊を組織するが敗退。しかし1975年に再度、遠征隊を編成し、エベレスト南西壁の初登攀を成功させる。


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28話
 

槇 有恒

1894年(明治27年) - 1989年(平成元年)

アイガー東山稜の初登頂
 

槇有恒著作 「山の旅」大正・昭和編 p7-27   近藤信行編  岩波書店刊

瑞西(スイス)ツーン湖畔、紺碧の空の下に暫し佇んで東方を仰ぐとき、誰れしも氷雪の三峻峰が中空高く聳えるのを見逃し得ないであろう。この三巨峰はユングフラウ、メッヒ及アイガーである。アイガーは三者の左端即北端に位している。海抜三九七五米突、形状三角錐をなしている。全山、結晶質の石灰岩より成って、このことはアルプス中でも稀な例とされている。これに登るに南、メンヒの山稜からするものと、西、クライネシャイデ″クからするものとがある。この両者は常に人の登るところであって私も昨年試みたのであった。残された一つの山稜が東山稜である。
 
下図:三巨峰、右から、ユングフラウ、メッヒ、アイガー
 

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上図:グリンデルワルト村の歴史的景観。ワーグナーによるリトグラフ、1830年頃「Lith.J.F.ワーグナー」。–グリンデルワルト氷河を背景にしたグリンデルワルトの村の印象的な景色。風景は、導入部の前景にある動物のスタッフによって活気づけられています。

一体、アルプスに於ての先人未登の山頂を極めることは、ウィムパーによるマッターホルンの登攀を以て、大体終りを告げたものといってょかろう。その後の登山者に残された問題は、同じ山であっても、前人未踏の山稜から登ることであった。このことは未踏の山頂を極めるのに較べて、華々しくはないが、残されたものだけに実際の登攀の困難はまさるとも劣らない。

下図:初登頂の歓喜に浸った7人は、お互いの身をザイルで繋ぎ、下山を開始します。そして途中で登山経験が浅かったメンバーが足を滑らせ、滑落。先頭のガイドと、後に続く2人もその巻き添えになりました。ウィンパーを含む後ろの3人はロープが切れたため、奇跡的に助かります。しかしそれは歓喜の栄光から、恐怖と失意の底に突き落とされた瞬間でした。悲劇的な結末に終わったマッターホルンの初登頂。しかしツェルマットの村の発展にとっては幸運な結果をもたらしました。マッターホルンはますます有名になり、英国をはじめ各国からおおぜいのアルピニストや観光客がツェルマットを目指します。そして現在のような国際的に有名な山岳リゾート地として発展します。

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アイガーの東山稜はブリュックナー教授の言葉によれば、アルプス中最も難かしいものとのことである。そしてこの山稜は、北側のグリッデルヴァルトの村に対して約一万尺の断崖を以て昿立しているので、早くから多くの登山者の心を惹いたものらしく、これを試みた記録は五十年来近くも残っている。私は一九一九年の秋。グリンデルヴァルトの村に入ったときから、一度はこの山稜を自分も試みて見たいと思った。しかし、自分の力がそこまで行くには、充分鍛えなければならないことでもあり、また研究もしなければならないと考えた。谷の反対側に立つファウルホルンへしばしば登っては、望遠鏡を通して岩の様子などを眺め、果たして可能であるかどうかなどを独り空想していたのであった。

 下図:アイガー北壁

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だが私は遂に試みることに決心して、直ちにブラヴァンドを呼び、私の計画を語った。ブラヴァンドはヴェッターホルンで雷死した名フュレルの子供で、現在村の小学校に職を奉じていた。同君は直ちに快諾し、他にツェルマ″卜に同行したストイリをも誘った。ストイリは瑞西(スイス)屈指のフュレルであって、四〇〇〇米突級の山を、既に四〇〇回以上も登っている名案内人である。この二人は常に私と一緒に登山をしているので昵懇の山友達であるが、未だ一度も共に登山をしたことはないが、どうしてもこの計画から除くことの出来ない、もう一人のフュレルがあった。それはアマターといい、やはり屈指の案内人であり、フィンスターアールホルンの東壁の初登攀をなした記録を持っておった。九月九日。よく晴れた朝である。片雲すらない空に立つアイガーの頂から煙が昇るように見えるのは雪煙である。森も清々しく、流れの音も冴えて聞え、日光も震えている。もう何んといっても山里は秋だ。ブラヴァンドは早くから来て、何くれと品物をルックサックに詰めている。私もトリコニの鋲を打った靴に足を固め、上衣のポケッ卜に入れる品々まで細かい注意を払って身仕度をした。宿の主人の幸あれという固い握手。お神さんはどうしても生きて帰えりなさいという。娘さんはカペルに祈るという。心温い人々に送られて、希望に一杯の私は元気よく停車場に向った。ストイリは一つ前の電車で丸太棒を持って出発した。電車がアマターの家の傍を過ぎるとき、家内総出で見送っていたが、妻君だけは地下室の戸を少し開けて心配そうに見送っていた。

 下図:アイガー東山稜の初登攀に成功した4人は翌日、ユングフラウ鉄道でグリンデルワルトのグルント駅に帰還した。(写真左から)サミュエル・ブラヴァンド、槇有恒、フリッツ・シュトイリ、フリッツ・アマッター。1921年9月11日撮影 Grindelwald Museum

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シャイデ″クで、此処まで見送って来てくれた、土地の人々や英国の人だちと別れを告げて、ユングフラウ鉄道に乗り替えた。この鉄道は人も知るように、アイガーとメッヒの山腹にトンネルを通じてユングフラウヨ″ホ(三四五七米突)に達し、そこからユングフラウやアレ″チ氷河の壮観を眺める遊覧鉄道である。このトンネルがアイガーの腹中を過ぎるとき山の東側の絶壁に窓をあけて、下の氷河や、シュレ″クホルッの雄姿を眺める停車場がある。アイスメーヤといい、此処で私らは電車を棄てて先着のストイリと一緒になった。始めて四人だけになった私らは元気に溌溂(はつらつ)としていた。

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少憩の後、停車場の窓のためにあけた絶壁の穴から、崖を縄に頼って下の氷海(アイスメーヤ)に降りた。アマターを先頭にストイリ、私、そしてブラヴァンドという順に縄で結びあって北東に氷雪の上を進んだ。アイガーの東山稜は、眼前に、灰白色の堅い岩膚を鋭い日光に曝している。轟々と何処かで氷河の崩れる音がする。動物もおらねば植物も見えない。生物の見えない世界は峻厳で荒寥としている。アイスメーヤを東北の方向に登って、更らにカリフィルンに出て。遂にアイガー東山稜の南側の岩壁の下に達した。各自、分担しか荷は三貫目を下らないので、岩壁を登るのに足元に十分に注意を払わねばならなかった。

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傾斜は次第に度を増しては来たが、じりじりと確実に登りつめるうちに、午後二時過ぎ遂に尾根に取り着いた。尾根に出ると闊然として、眺望が開けた。緑の牧場に囲まれた広い平和な谷が二〇〇〇米突も真下に、途中。何の遮ぎるものもなく展開した。谷の中には赤褐色の鋩緲が点在して、白い道路がその間を縫っている。グリッデルヴァルトの村である。村の北は牧場が、なだらかに高くなって、ファウルホルンやレーティホルンなどの山続きに陽ざしが美しく輝いていた。微風を受けながら、わけもなく景色に見とれた。こんな高い所から眺めると、人の世界も、縁側から蟻の世界を見るよりも小さく、その中の生活も、銘々勝手な理屈を附けてはいるものの、結局は、大きな自然の懐に、何の区別もなく一様に抱きかかえられて。その摂理のままに生きているのではないか、などと遠い村の印象を思うていると嶮しい山稜が、足元から西へ、威圧するように一線を描いて。現実が強い力で迫って来る。

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午後五時、山稜の一地点に、南面して間口が二尺ばかりで奥行が四尺ばかりの穴が、自然に出来ているのを発見して、此処を露営の場所と決めた。そして居場所を拡げるために、四人精を出してピ″ケルを以て、石片をかき集め、幅一尺ばかりの台を穴の口の前に積んだ。こんな仕事もみな傾斜が急なため体を結びあって、各自の足場を守り固めながら、身近の石を手渡し合って作るのであった。この上にル″クサックを置き、穴の中には毛布を一枚敷いた。私が一番優遇されに・・・それに小さいので、頭を奥にして横になる。私の裾にストイリが体を寄せて斜になる。アマターとブラヴァンドとは台の上に腰かけているのだ。黒雲の群れが切れ間もなく、西南から湧いて東北に走る。しかし幸なことには停滞することなく、轟々と、おおぎょうな音をたてて行き過ぎるだけであった。この分なら天気も保つのではないかと思われた。

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そしてその後に五〇米突の最も急峻な、殆ど直立といった感じを受ける場所に達した。ふと耳をそばだてると遠雷の音がする。こんな所の雷はまったく避けようのない危険なものだ。おい、ブラヴァンド、雷が来たようだなといいかけると、耳を澄ましていた彼は、否、雷ではない、私らの落す岩石片が宙を切る音だという。いわれてみれば如何にもそうだ。その時、突如としてアマターのルックサックが宙を切って、唸をあげて雲の中へ落ちて行った。カタストロフーと稲妻のように頭の中に光って、手の縄を固く引きしめた。アマター。どうしたと叫ぶ。するとアマターは上方、岩の蔭になって見えないが一向に落ちついた声で、何に、ルックサックが落ちただけだ。ヘルはどうかという。元気だよという声にまたも労作を続ける。この難場の二〇〇米突を登り終るのに、朝の九時から、午後の五時までかかった。遂に山稜の傾斜は次第に緩やかになって来た。
 

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私らは勝った。其処の岩壁に、ストイリは一九二一年九月十日と刻した。二〇〇米突を八時間の登攀は、一時間ほどの長さにも感じない。緊張の仕事は時間から超越する。私らはプラグ。Iを呼んだ訳でもない。ただ四人互に固く手を握り合った。此処でストイリは棒を短く切って、その端にハンケチを結んだ。アマターは石を積んでその棒をたてた。残った鉤や金槌等は皆棄てて、ルックサックを軽くした。雲が切れて東方に大シュレックホルン。そして東南にフィンスターアールホルンが夕陽を浴みていた。しかし夕映えの景観も、直ぐに雲に蔽われて終い、私らは再び登り出して雪の山稜に達した。午後七時十五分前、遂に頂に立った。日は既に沈み、メンヒの頭に近く半月が懸っている。西方、足元に一六〇〇米突ばかりの崖下に、クライネシャイデックとアイガーグレッチャーの駅の燈火が見える。フュレルたち三人は声を合せてエホーを送った。かすかな返事のエホーが下から返えった。私らは頂上に五分とは立っていなかった。順をアマター、私、ストイリ、ブラヴァンドという風に変えて、西の山稜の氷結した斜面を下りた。雪や氷の場所は光線の反射で足元も明るいが、一度、岩壁にかかると、時刻が山歩きには遅いのを痛感するそれに、日中、解けた雪の水が、凍り付いて、岩面をエナメルのように薄く覆っているのは足場に悪るい。アマターが山ランプを下げて下るが、その光は、三番、四番の足元までは届かない。最後のプラブァンドは一通りの苦労でない。
 

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私らは遂にアイガーグレ″チャーの下端のモレインまで下った。其処で縄を体から外して、鄭寧に輪を巻いて担った。既に崖を降り終ってその裾に来たのである。頂上に立ったときから、始終隠見しておったアイガーグレ″チャーの停車場に着いたのは、十一日の午前三時であった。停車場には電燈が煌々としていたが、人の気配がないので、呼ぶとレストランの大たちが飛び出して来て、おめでとうという。鉄道関係の大たちが、いち早く乾盃をすすめる。私たちは賞讃す人々に取り巻かれて、葡萄酒を、心行くばかり飲んだ。
 

 

二週間ほどの後、私はグリンデルヴァルトを後にした。人々が見送ってくれて、何時までもハンケチや帽子を振っている。電車が丘の端を廻ったとき、アイガーの全容が、まざまざと聳えた。これこそ、ニケ年の間、明け暮れ無言の友であった。思えば星降る夜半の氷に光る姿よ。さらば、永久に若きアイガー。われは定めなき道に。ただ、行く限り汝が幻を憧れ追うであろう。そして、幸深くあれ、心厚き人々のグリンデルヴァルトよ、そは。私の第二の故郷。いつかは、また、春に帰える燕のように喜びの羽ばたき軽く飛びかえって、その温い懐に抱かれて物語ろう。

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上図:こうして成し遂げられた快挙は1921年9月14日、地元紙エホー・フォン・グリンデルワルトの一面で大々的に報じられた。ボーミオさんによると、登山に関する記事が同紙に大きく取り上げられたのは初めてのことだった。

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上図:カール・ケスラー  ヴェッターシュタインの春 Carl Kessler (1876  – 1968 München)

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