15話 |
芥川竜之介 |
1892年(明治25年)~1927年(昭和12年) |
槍ヶ岳に登った記 |
「山の旅」明治・大正編 近藤信行編 p75-106 抜粋 岩波書店 |
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上図:播隆らが身を休た「播隆窟」が登山ルートに現存し、一休みする場所となっています |
上の方を見上げると一草の緑も、一花の紅もつけない石の連統がずーうっと先の先の方までつづいている。一番遠い石は蟹の甲羅位な大きさに見える。それが近くなるに従ンでだんだんに大きくなって、自分たちの歩もとへ来ては、一間に高さが五尺ほどの鼠色の四角な石になっている。荒廃と寂寞どうしても元始的な、人を跪かせなければやまないような強い力がこの両側の山と、その間に狭まれた谷との上に勦いているような気がする。案内者が「赤沢の小屋ってなアあれですあ」という。自分たちの立ている所より少し低い所にくくり枕のような石がある。それがまたきわめて大きい。動物園の象の足と鼻を切って胴だけを三つ四つつみ重ねたらあの位になるかもしれない。その石がぬっと半起きかかった下に焚火をした跡がある。黒い燃えさしや、白い石がうずたかくつもっていた。あの石の下に寐るンだそうだ。夜中に何かの具合であの石が寐がえりをうったら、下の人間はぴしゃんこになってしまうだろうと思う。渓谷の下の方はこの大石に遮ぎられて何も見えぬ。目の前にひろげられたのはただ、長いしかも乱雑な石の排列、頭の上におおいかかるような灰色の山弋そうしてこれらを強く、照す真夏の白い日光ばかりである。自然というものをむきつけに目のあたりに見るような気がして自分はいよいよはげしい疲れを感ぜざるを得なかった。 |
上図:知られざる存在「赤沢岩小屋」 |
朝三時 さあ行こうと中原がいう。行こうと返事をして手袋をはめている中に中原はもう歩き出した。そうして二度目に行くよといったときには中原の足は自分の頭より高い所にあった。上を見るとうす暗い中に夏服の後姿がよろけるように右左へゆれながら上って行く。自分も杖を持って後について上りはじめた。上りはじめて少し驚いた。路といって。はもとより何にもない。魚河岸へ鮪がついたように雑然ところがった石の上を、ひょいひょいとびとびに上るのである。どうかするとぐらぐらとゆれる奴がある。おやと思ってその次の奴へ足をかけるとまたぐらりと来る。仕方がないから四つんぎいになって猿のような形をして上る。その上にまだ暗いので何でも判然とわからない。ただまっ黒なものの中をうす白いものがふらふらと上ってゆく後を、いい加減に見当をつけて這って行くばかりである。心細い事夥しい。 |
上図:平沢利夫「北アルプス・スケッチ山歩」p-73 銀河書房 |
おまけにきわめて寒い。昨夜ぬいでおいた足袋が今朝はごそごそにこわばっている。手で石の角をつかむたんびに冷さが毛糸の手袋をとおして浸みて来る。鼻のあたまがつめたくなって息がきれる。はっはっいうたびに囗から白い霧が出る。途中でふり向いて見ると谷底まで黒いものがつづいてその中途で白い円いものと細長いものとが勦いていた。「おおい」と呼ぶと下でも「おおい」と答える。小さい時に掘井戸の上から中を窺きこンでおおいというとおおいと反響をしたのが思い出される。円いのは市村の麦藁帽子、細長いのは中塚の浴衣であった。黒いものは谷の底からなお上へのぽって馬の背のように空をかぎる。その中で頭の上の遠くに、菱の花びらの半ばを尖った方を上にして置いたような、貝塚から出る黒曜石の鏃のような形をしたのが、槍ヶ岳でその左と右に歯朶の葉のような高低をもって長くつづいたのが、信濃と飛騨とを限る連山である。空はその上にうすい暗みを帯びた藍色にすツで星が大きく、明に白毫のように輝いている。槍ヶ岳と丁度反対の側には月がまだ残っていた。七日ばかりの月で黄色い光がさびしかった。あたりはしんとしている。死のしずけさという思が起って来る。石をふみ落すとからからという音がしぱらくきこえてやがてまたもとの静けさに返ってしまう。路が偃松の中へはいると歩くたびに。薇っぽい、鈍い重い音はがさりがさりとする。ふいにギャアという声がした。おやと思うと案内者が「雷鳥です」といった。形は見えない。ただ闇の中から鋭い声をきいただけである。人を呪うのかもしれない。静な、恐れを孕ンだ絶巓の大気を貫いて思わずもきいた雷鳥の声は何となく、或るシムボルでもあるような気がした。
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上図:河童橋:昔の上高地のお土産用絵葉書より |
16話 |
芥川竜之介 |
1892年(明治25年)~1927年(昭和12年) |
童河 どうか Kappa と発音して下さい |
ある。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでも善い。彼は唯ぢつと両膝をかかへ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の序・・・これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である。彼はもう三十を越してゐるであらう。が、一見した所は如何にも若々しい狂人で外には枯れ葉さへ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張つてゐた。)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしやべりつづけた。尤も身ぶりはしなかつた訣ではない。彼はたとへば「驚いた」と言ふ時には急に顔をのけ反ぞらせたりした。―……僕はかう云ふ彼の話を可なり正確に写したつもりである。若し又誰か僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねて見るが善い。年よりも若い第二十三号はまづ丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであらう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであらう。最後に、――僕はこの話を終つた時の彼の顔色を覚えてゐる。彼は最後に身を起すが早いか、忽ち拳骨をふりまはしながら、誰にでもかう怒鳴りつけるであらう。―「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだらう。出て行け! この悪党めが!」 |
三年前の夏のことです。僕は人並みにリユツク・サツクを背負ひ、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登らうとしました。穂高山へ登るのには御承知の通り梓川を溯る外はありません。僕は前に穂高山は勿論槍ヶ岳にも登つてゐましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登つて行きました。朝霧下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたつても晴れる気色は見えません。のみならず反かへつて深くなるのです。僕は一時間ばかり歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思ひました。けれども上高地へ引き返すにしても、兎に角霧の晴れるのを待つた上にしなければなりません。と云つて霧は一刻毎にずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、一そ登つてしまへ。」――僕はかう考へましたから、梓川の谷を離れないやうに熊笹の中を分けて行きました。しかし僕の目を遮るものはやはり深い霧ばかりです。尤も時々霧の中から太い毛生欅ぶなや樅もみの枝が青あをと葉を垂らしたのも見えなかつた訣ではありません。それから又放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。けれどもそれ等は見えたと思ふと、忽ち又濛々とした霧の中に隠れてしまふのです。そのうちに足もくたびれて来れば、腹もだんだん減りはじめる、――おまけに霧に濡れ透つた登山服や毛布なども並み大抵の重さではありません。僕はとうとう我を折りましたから、岩にせかれてゐる水の音を便りに梓川の谷へ下りることにしました。僕は水ぎはの岩に腰かけ、とりあへず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの缶を切つたり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしてゐるうちに彼是十分はたつたでせう。その間にどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕はパンを噛じりながら、ちよつと腕時計を覗いて見ました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落したことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童と云ふものを見たのは実にこの時が始めてだつたのです。僕の後ろにある岩の上には画にある通りの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱へ、片手は目の上にかざしたなり、珍らしさうに僕を見おろしてゐました。 |
上図:小川芋銭(おがわうせん Usen Ogawa)明治元年—昭和13年明治から昭和初期にかけて活躍した日本画の巨匠です。茨城県の牛久沼湖畔で農業を行いながら画業を続け、河童の絵を多く描いていることから「河童の芋銭」とも称されています。自分の画号の「芋銭」についても「自分の絵が芋を買う銭にでもなれば」との思いでつけたというのは有名な話です。 |
僕は呆つ気にとられたまま、暫くは身動きもしずにゐました。河童もやはり驚いたと見え、目の上の手さへ動かしません。そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へ躍りかかりました。同時に又河童も逃げ出しました。いや、恐らくは逃げ出したのでせう。実はひらりと身を反かはしたと思ふと、忽ちどこかへ消えてしまつたのです。僕は愈驚きながら、熊笹の中を見まはしました。すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メエトル隔つた向うに僕を振り返つて見てゐるのです。それは不思議でも何でもありません。しかし僕に意外だつたのは河童の体の色のことです。岩の上に僕を見てゐた河童は一面に灰色を帯びてゐました。けれども今は体中すつかり緑いろに変つてゐるのです。僕は「畜生!」とおほ声を挙げ、もう一度河童へ飛びかかりました。河童が逃げ出したのは勿論です。それから僕は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二河童を追ひつづけました。河童も亦足の早いことは決して猿などに劣りません。僕は夢中になつて追ひかける間に何度もその姿を見失はうとしました。のみならず足を辷すべらして転がつたことも度たびです。が、大きい橡とちの木が一本、太ぶとと枝を張つた下へ来ると、幸ひにも放牧の牛が一匹、河童の往く先へ立ち塞がりました。しかもそれは角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を挙げながら、一きは高い熊笹の中へもんどりを打つやうに飛び込みました。僕は、――僕も「しめた」と思ひましたから、いきなりそのあとへ追ひすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいてゐたのでせう。僕は滑かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに転げ落ちました。が、我々人間の心はかう云ふ危機一髪の際にも途方もないことを考へるものです。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云ふ橋があるのを思ひ出しました。それから、――それから先のことは覚えてゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失つてゐました。 |
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京出身。『羅生門』『鼻』『地獄変』『歯車』などで知られる。作品の特徴在りし日の芥川龍之介(1927年)作品は、短編小説が多く知られている。しかし初期の作品には、西洋の文学を和訳したものも存在する(『バルタザアル』など)。英文科を出た芥川は、その文章構成の仕方も英文学的であるといわれている。翻訳文学的でもある論理的に整理された簡潔・平明な筆致に特徴がある。短編の傑作を残した一方で、長編を物にすることはできなかった(未完小説として『邪宗門』『路上』がある)。また、生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したといわれる。他の作家に比べ表現やとらえ方が生々しい。晩年には志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある自己の文学を完全否定する(その際の作品に『蜃気楼』が挙げられる)。 |
上図:中村清太郎(1888年-1967年) 白樺 |
17話 |
小暮理太郎 |
1873年(明治6年)~1944年(昭和43年) |
山と村 |
山 第1巻 第3号 p119~p125抜粋 昭和28年刊 梓書房 |
アーヴィングのスケ″チブ″クを初めて讀んだとき、リップーヴァン・ウィンクルの話の冒頭に、カツキル連山が季節の移り更りや天候の變る毎に、いや實に一日の中でも刻々に不思議な色やら形やらを變へるので、遠近のおかみさん逹から完全な晴雨計と見倣されてゐたといふことが書いてあるのを見て、直に思び出したのは故郷の赤城山のことであった、そして外國にも同じやうな風習が自然と行はれてゐるのを非常に興味深く感じたのであった。村の老人逹は、朝早く顔を洗ふと東に向って獸鑰を捧げ、拍手を打って手拭を肩に、前の畑をI廻りして赤城山を仰ぎ見るのが例であった、其日の天気を卜する爲である。この習慣は四季を通じて愛らたかった。殊に初夏から秋末にかけCは、天候が激愛し易く、農事は忙しいので、痛切に其必要を感じたらしい。冬は天候も定まり快晴の日が續くので、山に初雲の来る頃までは、濃い青空を背に、いつも劃然と全容を露はして、赤味を帶びた地膚の色が日の出から日の人まで絶えず愛化する外には、村人の心に懸る一片の浮雲もない。しかし其間にも山の狼が里に下ったといふ噂が風の便りに慱へられて、村人を驚かすことはあった、一度噂が立てば、逋く其姿を腮めたといふ人或は跡をつけられたといふ人の數は一人塘し二人堆して行くが、終に危害を加へられたといふ者もたく、野火の消えるやうに噂も絶えてしまふ。 |
上図:赤城山 成田敬止 |
村の老人逹は、朝早く顔を洗ふと東に向って獸鑰を捧げ、拍手を打って手拭を肩に、前の畑をI廻りして赤城山を仰ぎ見るのが例であった、其日の天気を卜する爲である。この習慣は四季を通じて愛らたかった。殊に初夏から秋末にかけCは、天候が激愛し易く、農事は忙しいので、痛切に其必要を感じたらしい。冬は天候も定まり快晴の日が續くので、山に初雲の来る頃までは、濃い青空を背に、いつも劃然と全容を露はして、赤味を帶びた地膚の色が日の出から日の人まで絶えず愛化する外には、村人の心に懸る一片の浮雲もない。しかし其間にも山の狼が里に下ったといふ噂が風の便りに慱へられて、村人を驚かすことはあった、一度噂が立てば、逋く其姿を腮めたといふ人或は跡をつけられたといふ人の數は一人塘し二人堆して行くが、終に危害を加へられたといふ者もたく、野火の消えるやうに噂も絶えてしまふ。赤城に雪が降るのは大抵十二月の下旬である。其頃村の行事のIとして若い者は「赤城の餅食ひ」に行くのであった。山麓三夜澤に在る赤城跡瓧の御師の家に一泊し、幣帛料を納め、御札と御供を授かって餅を振舞はれるのである。目的は翌年の豊作を所願するのが主であったらしい、今は全く廢れて了った。信心深い者は翌る日大洞の奥宮に参詣する。季節が季節だけに吹雲に閉ぢ込められることがある。幸なことには沼の氷切りに働く人夫が大勢登ってゐるので、其小屋に泊めて貰へるし、降雪の範圍も頂上に隕られてゐる爲であらう、遭難する者は極めて稀であった。降雪期に入れば山は殆ど毎日のやうに雲の綿帽子を冠ってゐる。頂に少しの雲でも屯してゐることは、夏の外は遅くも午後には風の吹く豫報である。朝は靜穩で雲の輪郭がはつきりしてゐても、上の方から次第に崩れて、真綿を引き仲したやうに垂れ下ると、水蒸気の代わりに絹針でも含んでゐるやうな冷たい北西の風が人の肌を刺すやうに吹きすさむ。上州名物のからっ風である。太陽の傾くに逹れて風の力も漸く衰へ、垂れた雲は山膚を白く薄化粧したまま、塒を戀ふる鳥のやうに元の頂きに返って、入日の光に暫し金茶色に燃えたかと思ふ間もたく、鼠色に褪せて夜の闇に包まれる。 |
上図:榛名山 豊田一男 |
冬の間に村から見られる山の中で、姿體の最も美しいのは淺間山である、鼻曲連山の上に聳立してゐる富士形は、七百米に近い高度を有し、左右均整の妙は寧ろ富士に優るものがある、外輪山の劍ヶ峯や牙山などは、左下に低く寄り添ってゐるので少しも邪魔とはならぬ。雪面は鉋をかけたやうに滑かで些の凹凸たく、晴空に悠然と煙を吐いてゐるさまは、全く天外に白磁の大香爐を据ゑたやうである。この崇高な山に對して嘲るやうな「淺間山から鬼が尻を出して、鎌で掻き切るやうなおならをした」といふ意味の香しからぬ俚謡が時として村人の口の端に上るのは、爆發の際、怖る可き大噴煙が常に東に流れて、衣を降らし硫気を漂はすことを呪ったものであらう。天明三年の大爆發には、村でも降次一尺を超えたさうである。 |
上図:浅間山 下図:美ヶ原 |
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18話 |
小暮理太郎 |
1873年(明治6年)~1944年(昭和43年) |
高原 |
山10号 p495~p501抜粋 昭和28年刊 |
八ヶ岳の裾野ほど高原に富んでゐる所は、火山の多い我國にも稀であらうと思ふ。殊に蓼科山あたりまでを引括めた八ヶ岳火山群となれば、恐らく他に之と比肩す可きものはあるまい。井出ノ原や念場ヶ原或は野邊山原といふやうに、特別の名将を持つてゐる場所を除いても、廣さに於て少し劣るだけで、至る所に美しい高原が展開しておる。富士山の西側に在る間遠ノ原又は朝霧ケ原などは、野邊山原よりも廣いと思はれるが、高原の趣致は寧ろ乏しいといふてよい。それよりも上吉田の南方附近から山中湖畔にかけての裾野0方が高原らしい気分に浸れる。淺開山の六里ケ原は廣いことは廣いが、なぜか親しさ懐しさに缺けてゐるやうに思はれるのは、其生成が新しいのと、絶えず威嚇するやうに烟を噴き出してかる活火山の姿を近く仰いゐる爲の氣のせいであるかも知れぬ。尤も二度上のあたりは、西にある三方ヶ峰や湯ノ丸山附近と共に、私の好きな場所の一である。牧場としての高原は干米前後のものが最も多く、干五六百米が其限度であるらしい。しかし中には二千米に及ぶものがあるには驚いた。美ヶ原がそれである。恐らく牧場として最高のものであらう。私がここに遊んだのは、中秋と晩春の頃であったから、生馬の姿は認めたかったが、茶臼山の頂上に生えてゐる苔桃を踏み蹂った狼藉たる蹄の跡に、初めは鹿か猪の所爲ではないかと疑った。けれども附近の排泄物を見て、それが牛や馬であることを知ると共に、ここも牧場であったのかと暎ぜざるを得たかった。私は高原が牧場とかることを好まない、勿論美しい高原に悠々と牛馬の起臥してゐるさまや、自由に馳驅してゐる奔放なさまは、高原の景趣を一層平和に一層雄大ならしめ、いやが上にも感興を高めることのあるのは疑ふ可くもないが、小屋を建て柵を廻らし異臭原上を掩ひ、虻群や刺蠅群の大襲来を蒙るに至っては、ひたすら息をころし兩手を振って逃げ出すに如かざるを思はしめる。高原も山と同じく能ふ限りは原始のままであらせたい。美ヶ原は私の最も好きな高原の一つであるが目障りになる柵や見窄らしい番小屋などの建てられ無いのがせめてもの慰めである。 下図:美ヶ原 花城康雄 |
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小暮理太郎 概説 |
群馬県新田郡強戸村大字寺井(現・太田市)生まれ。旧制第二高等学校卒業、東京帝国大学文科大学中退。田部重治と共に、詳しい地図がまだ作成されていない探検時代の日本アルプスや秩父山地に入り、これらの山々の魅力を世に紹介した。単に山に登るだけでなく、山岳展望や登山史の研究、地名の考証にも大きな熱意を示し、人文的な「山岳研究」というべき分野を開拓したパイオニアの一人である。著書『山の憶い出』は日本の山岳書中でも内容の濃い傑作とされる。明治末期から大正にかけて、東京市内の各所に通いつめてまとめた「望岳都東京」(『山の憶い出』所収)は、東京から見える山々を初めて詳しく明らかにした文章として知られている。職業としては、雑誌『ハガキ文学』や東京市の史料の編纂に携わった。1935年12月、日本山岳会の第3代会長に就任した。登山しては書き、何より山が好きという人で大衆登山家に支持された。田部重治と共に静観派の指導者であった。1941年1月に日本山岳会が社団法人認可されると、社団法人日本山岳会の初代会長に就任した。1944年5月7日急逝。日本山岳会は副会長の槇有恒が会長を代行した。金峰山西側山麓の金山平(かなやまだいら)に、田部重治、木暮理太郎のレリーフがある。影響力木暮の文章が日本の登山界に与えた影響は大きく、登山愛好者の裾野を大きく広げることに貢献した一方、一部には草創期ゆえの混乱ももたらした[1]。1915年に田部重治と剱岳に登山した際には、途中の小黒部鉱山の事務所(剣岳の東北方向、現在の池の平小屋付近)に宿泊の便宜を図ってもらうとともに無償で食料を調達して登山を行った[1]。下山後、この山行を山岳会誌「山岳」にて触れたところ、次年度より次々と一般の登山者が鉱山事務所を訪れ、宿泊と食料を要求するようになったという。鉱山側は、あまりの多さに業務に支障を来し、1918年の「山岳」(第十二年一月号)にて食糧は持参するように訴えるに及んでいる。 |
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上図:ターナー「モンブランの見えるサヴォワ地方のボンヌヴィル」1803年頃 |
19話 |
尾崎喜八 |
1892年(明治25年)~ 1974年(昭和47年) |
山と音楽 |
山 第1巻 第9号 p441~p445抜粋 昭和28年刊 梓書房 |
一概に山と音樂と云っても、大によってそれぞれ山に對する気持も、心構へも、態度も遑ふであらうし、叉曹樂が好きだと云ったところで、果してどんな種類、どんな傾向の昔樂を好きなのだか、昔樂と名がついてさへ居れぼ何でもいものか、或は大いに信するところがあるのか、更にどのやうな趣味訓練の過程を經て、どんな風に愛してゐるのだか、もっと進んで云へぽ、抑も音樂がどの位其人の精紳生活に浸潤し、溶解し、攝取されつつあるか、そんな事も、元来が極端に鑑賞の自由な藝術なだけに、色々の兆候から観察し洞察した上で無いと、話の焦點がぼやけ易い。のであらうが、生噌私はその柄でない。・・・山を歩いてゐて昔樂を想ふといふょりも、私の場合だと、昔樂を聽きながら山の事を思ひ出すといふ時の方が遙かに多い。 |
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ルートヴィヒ・ハラウスカ(1824-1882)-「シュタインブリュックの農家」 |
シューベルトの歌曲には何といふ事無しに山を想はせる作品がい。「蹲」、「羊飼の挽歌」、「アルプスの猟人」、「郷愁」、「ノルーマン人の歌」のやうなものはとより、歌曲集「美しき水車小屋の娘」、「冬の族」、「白鳥の歌」などの中にも、直接に山を主題としたもので無くても山の自然を想はせるやうな作品が沢山ある。山の事を思ってシューベルトの歌を歌ふ事が出来るのは、恐らく今の世では一つの贅深であるかも知れたい。・・・ヴァーグナーの「タンホイザー」の巡礼の合唱や夕星の歌は、古くから人口に膾炙してゐるものだが、やっぱり私にとっては綏かに波打ちつずく秋草の高原と其の悲しく美しい夕暮とである。しかし同じ作者の「ジークフリート」の中の幾つかは、森羅萬象の精力的な歌と自然の光耀とに滿ちみちた、山間の夏の眞晝を想はせるのが常である。グリーグの「ペールギュント」も其の北欧的な美と強さとで私の好きなものゝ一つだが、其中の「ソルヴェイグの歌」も亦時々山への烈しい郷愁をそそる事がある。 |
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上図:ブリューゲル「雪中の狩人」制昨年:1565年 所蔵:ウィーン美術史美術館 |
スメタナの交響詩「モルタヴこを曾て初めて聽いた時、私は或る特別な興奮を經驗した。これは遠い深い山間から發した二つの川がそれぞれ、長い族をして、やがて合してヴルタヴァとなって平野へ出るといふ謂はば本格的の標題音樂であるが、堂々と自然を主題とした此の美しい音樂を聽いてゐる内に、どんな音樂にも平気でゐる常習の音樂会公衆といふ者が實に愚かな、坊主のやうに冷たい僞善的な、救はれない者に見えて來て、危ふく「馬鹿!」と怒鳴るところだった。私は未だ若かった。若さの故の一本気を持ってゐた。そして其翌日急に思ひ立って、ルッタザックを引担いで、小佛峠へ行かすにゐられなかったのも、今からすれば微笑ましい思ひ出である。其頃は死んだ近衛直麿君が未だ丈夫でゐて、時々夜晩くまで飲みながら烈しい議論をやったものである。 |
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上図:Walter Heath Williams 1834-1906 |
ビゼーの音樂にはシューペルト同様何かしら気質的に私にぴったりするものが有って何れも好きだが、中でも例の「カルメン」と「アルルの女」の二つは、その悲痛な感情と、放膽な気魄と、その絢爛と哀切と甘美さとで私を醉はせる。そして此等の要素が矢張り「私の山」の主要な構成分子である。「アルルの女の組曲」で其の間奏曲を聽いてゐると、どうしても私は葡萄の實る南佛山地の牧歌のやうな風景を考へてしまふ。同じ山地の牧歌でも、スカルラッチのパストラーレはもっとすっと希贓・伊太利風な典雅さを持ってゐる。 |
下図:セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」1887年頃、67×92cm、コートールド・ギャラリー |
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上図:ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-1899)による「アルプスのトリプティク」1898年頃
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20話 |
尾崎喜八 |
1892年(明治25年)~ 1974年(昭和47年) |
山と芸術 |
山 第2巻 第9号 p470~p481抜粋 昭和28年刊 梓書房 |
今までは絵にならないといわれていた山岳というこの新らしい対象と、むきになって取り組んだ絵も現れて来るわけであります。私の友人などにもそういう若い画家がおります。ところが、いま申し上げたように山の絵というものが大変多くなって来ているにもかかわらず、その割にはどうも感心するような作品がたんと無い、というよりも稀である。ことに高峻山岳と呼ばれているほどの山を描いた場合に、それが著しいように私などには思われるのであります。大家の作品でも、山岳のデッサンやクロッキイには見るべきものがありながら、タブロオとなるとどうもよくない、何となくペンキ画じみて来る、非常に大きく引き伸した山の写真に絵具で着色したように見える。こんな気が往々するのであります。これは私の考えが間違っているのかも知れませんが、同感の士もまた少くないのであります。これは一体どういう訳かしらと考えてみた事もありますが、そうして別にそれらしい結論を得た訳ではありませんが、ただ朧気ながら感じられるのは、画家がその対象とする山に即し過ぎて、つまり穂高なら穂高、剣なら剣という山に即し過ぎて、その山の外観的な特徴の説明に汲々とするためではないかという事であります。自分の眼をも満足させ、登山界のエクスパートをも納得させようとする気持が暗々裡に働いて、それで如何にも穂高なら穂高らしく描いてはあるが、造型美術という側から見ると少し困った絵になってしまう事があるのではないかと思うのです。セザンヌはよくマルセイユに近いエスタークの風景を描いておりますが、実地の写真と較べて見ると随分違った勝手なことをやっていながら、それで絵としては実に立派な物になっている。恐らくヴァン・ゴッホの数多いアルルの風景にしても同じだろうと思うのであります。つまり余りにも山の部分的な地形とか、地質とか、天候とかの表現に捉われてしまって、内面的な深みや自由を得る余裕を失うのではないかと、素人考えでは思うのであります。 |
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上図:フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの赤いブドウ畑」1888プーシキン美術館、モスクワ。 |
もう一つは高峻山岳というものが、何と申しましょうか、いま適切な言葉が思い出せませんが、まあいわば自然のエレメントに近いという事であります。つまり、大洋の水の広袤であるとか、星辰の高くきらめく天であるとか、雲であるとか、そういう物と同じように、空間を占める岩石の莫大な容積である山岳というものが、それを眺めそれを瞑想するわれわれに無限の意味と感じとを与えながら、しかもそれ自体としては、先ず頗る単調なものだということであります。海の波濤を真に迫るように描いた海洋画家、英国などにはよくありますがそういう海専門の画家、あるいは写真のように正しく描く雲の画家、こういう画家たちの作品が絵画としては案外つまらないのは、元来それだけでは造型美術には向かないからではないのかと思うのです。これが映画や写真だと、物によれば遥かにわれわれに感動を与えます。海ならば海、雲ならば雲、山ならば山だけで、それだけですでにわれわれに訴えて来るところがあります。そこで、結局するところ、山の画というものは、他の附随的な条件との調和があって初めて成り立つもので、単に山それだけでは美術としての絵画には成りにくいのではないかという風に私は考えるのであります。 |
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上図:ジョヴァンニ・セガンティーニ《生》1896-1899年 |
こう考えて来ますと、例の有名な山の画家、セガンティーニの消息が幾らか分って来る気がします。セガンティーニはスイスのアルプス地方のアトモスフェーアは描いたが山岳だけを描くという事はしなかった。彼の画から感じられるものは、皆さんも御承知のとおり、高地の自然の詩であります。セガンティーニその人の生涯と同じように、悲しいほどに高潔なアルプスの詩であります。この詩がわれわれに歌って来もするし、またわれわれを打っても来るのです。彼の画から受けるものには、従って文学的な味が非常にあります。しかし元来造型美術にあっては、文学的要素はしばしば余計なものになります。邪魔なものになります。ここにセガンティーニに対して異論の生れて来る理由もあるのですが、とにかくあのくらい自分をめぐる孤独の中で、高く高くと歩いて行った足跡というものは、確かに美しい偉大なものでなければなりません。私などは自分も山が好きですから、やっぱりセガンティーニを愛しています。 |
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上図:スイス・スピリッツ-山に魅せられた画家 ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-1899) |
あのセガンティーニの描法ですが、つまり美しい色の練絲を並べたようないわゆるディヴィジョニズムの方法、あれをセガンティーニが初めて編み出した方法だとするのはどうかしらと私は思います。あれはやっぱりそれよりも少し以前の印象派の方法から転化してきたもので、もう一方の点描派ボアンテイリストなどと同じ根幹から派生したものではないかと思うのです。そしてセガンティーニもその一方の驍将として、何処までもあの描法を押し進めて行ったのではないかと思うのです。彼がアルプスでその孤高の芸術境を窮めている同じ時代には、モネーはアルジャントイユ・ベトイユと居を移して、いよいよモネーの本領を発揮していますし、ゴッホはゴッホでもうアルルにいて、おのれを焼きつくす勢いで描きに描いています。そのゴッホがもしもスイスにいてアルプスを描いたら、そもそもどんな画ができたろうと思います。静的で主観的なセガンティーニと、動的に主観的なゴッホ。恐らく素晴らしい対照ではないかと、そんなことも思うのです。下図:ゴッホ「花の咲く木々のあるアルルの眺め1889年、ゴッホ美術館、アムステルダム。 |
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21話 |
尾崎喜八 |
1892年(明治25年)~ 1974年(昭和47年) |
ウエストン祭と女学生 |
尾崎喜八:散文集「日光と枯草」より |
上高地五千尺旅館の玄関の、重い大きなガラス戸を押してそとへ出る。すると今が今まで家の中では聞こえなかった鳥たちの朝の歌が、この梓川の谷の到るところから一斉に湧き上がったかと思うように耳を襲って来る。これだ! 山の小鳥達のこのすばらしい合唱を聴きたければこそ、むしろウェストン祭のほうは添え物のように思って、今年もまた此処へ来たのだ。朝の時刻が早いので、河童橋のあたりにもまだ人影がちらほらである。空は綺麗に晴れ渡って、あまつさえもう日が昇っているので、残雪に飾られた前穂も奥穂も西穂高も、雄大な光と影をまとってさっぱりと正面切って聳えている。そしてその山々の裾を若葉の雲で柔らかに包んだ白樺、草紙樺、化粧柳の林を背景に、梓川の水は優美な曲線をえがいて淙々そうそうと流れている。 |
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私は裏白モミや大シラビソの原生林の中のほのぐらい静かな道を、明神池の方へ歩いていた。すると途中で一人の若い女性に追い着いて、しばらく一緒に歩く羽目になった。今日のウェストン祭に参加するために昨日ここへ来て一晩泊まったという事だったが、若いに似合わず山の草や小鳥をとても好きな人だった。その熱心さは私を感動させずには置かない程だった。それで私もついほだされて、一緒にしゃがみ込んでは路ばたに咲いている花の名を教えたり、近くの木の枝で歌っている小鳥の名を、その鳴き声を真似したり姿の特徴を指さしたりして教えた。その人は教えられた名や事柄をすべて克明に手帖へ書きつけた。「学校は?」と訊くと、東京の或る女子大学に在学中だという事だった。山中の静かな朝の静かな道連れ。しかも美しくさえある賢そうな大学生。彼女と別れて一足先に池へと急ぐ私の頭上で、一羽の鮮明な羽色をした大アカゲラがしきりに樹の幹を叩いていた。 |
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ウェストン祭の式の最後に、私か自作の詩を朗読するのがここ幾年のならわしだったから、私は大急ぎでその詩を明神の池畔で作った。材料は眼前やそれから得た感慨をもとにした。大した出来ではなかったが、書きたてのほやほやだったので数百人の参加者からは喜ばれた。そしてそれが終わると、例によってどっと押し寄せて来る何十人という人達のためのサイン書きだった。その中には今朝逢った女子大学生もいて、「今お読みになった詩は先程のとおりでした。もしも記念のために写させて頂ければ、光栄でございます」と言った。私は快くその原稿を彼女に貸した。娘は群衆から離れた梓川の河原の石に腰を下ろして、それを書き取っているらしかった。しかし私のサインの方はまだ終わらず、しまいにはハンカチを持ち出して、「済みませんが、どうぞこれに」と頼む若い女子店員らしい人もあった。 下図:「上高地」佐久間善行 |
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尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 1974年2月4日)は、日本の詩人、随筆家、翻訳家。戦前から太平洋戦争の直後まで、東京郊外に文化的半農生活を継続して営んだが、1945年(昭和20年)5月青山南町の家を空襲で焼かれ、北多摩郡砂川村の親戚宅に寄寓。10月千葉県三里塚近くの妻の実家へと移る。さらに病を得て帰京。吉祥寺の河田楨宅、杉並の井上康文宅などを転々としたが、1946年(昭和21年)4月『麥刈の月』の刊行ののち、9月から7年間、妻子とともに長野県諏訪郡富士見町にあった渡辺千秋の別荘「分水荘」の一部を借り、移り住んだ。なおその建物は1975年(昭和50年)に解体されたが、敷地は公園として整備され、ふじみ分水の森となっている。1946年10月詩集『夏雲』刊行。1948年(昭和23年)1月詩集『残花抄 尾崎喜八集』刊行。3月散文集『高原暦日』刊行.6月散文集『美しき視野 自然隨筆集』刊行。1951年(昭和26年)9月散文集『碧い遠方』刊行。(昭和27年)5月創元文庫から『尾崎喜八詩集』刊行ののち、11月世田谷区玉川上野毛の多摩川台上の新居へ転居。1953年(昭和28年)7月新潮文庫で自選『尾崎喜八詩集』刊行。1955年(昭和30年)2月詩集『花咲ける孤獨』刊行。6月『新譯ヘッセ詩集』刊行。11月『わが詩の流域』刊行1956年(昭和31年)11月『山の詩帖』刊行。1958年(昭和33年)11月詩集『歳月の歌』刊行。12月『リルケ詩集』刊行。同月から創文社より『尾崎喜八詩文集』刊行開始。1964年(昭和39年)8月『さまざまの泉』刊行。1966年(昭和41年)1月詩集『田舎のモーツァルト』刊行。12月鎌倉市山ノ内明月谷の新居へ転居。1967年(昭和42年)2月散文集『私の衆讃歌』刊行。11月紫綬褒章受章。1969年(昭和44年)6月随筆集『夕べの旋律』刊行。11月『自註 富士見高原詩集』刊行。1970年(昭和45年)12月詩集『その空の下で』刊行。1971年(昭和46年)7月『あの頃の私の山』刊行。1973年(昭和48年)8月『音楽への愛と感謝』刊行。1974年(昭和49年)2月4日急性心不全により鎌倉市大町額田病院で死去。のち命日は蠟梅忌と名付けられた。『歴程』1974年4・5月合併号、『アルプ』1974年6月号が追悼特集号となった。1976年(昭和51年)12月『名もなき季節 若き友人への手紙』刊行。1977年(昭和52年)に北鎌倉明月院に墓石建立。信州の山から運ばれた石に、詩人自筆詩「回顧」が鋳造されてはめ込まれている。作風山岳と自然を主題とした詩や散文に多くの優れた作品を残した。詩、博物学的な自然と人間についてのエッセイ、翻訳のほかに、クラシック音楽への造詣も深く、最晩年の音楽随筆集『音楽への愛と感謝』などがある。自然と人間についての思索にみちた詩・随筆に独自の境地を開いた。 |
22話 |
坂本直行 |
1906年(明治 39年)- 1982年(昭和 57年) |
或る牧場の生活 |
山 第1巻 第11号 p726~p730 抜粋 昭和28年刊 梓書房 |
二月になっても今年は、積雪一尺に滿だない有樣だった。今一降り降ってくれなけれに私達は仕事に不便を感ずる。第一、道が悪い、凸凹にしばれた(凍った)道は平らにならないし、バラス道にでも出樣ものなら馬橇がきしんで馬が可愛想だ。馬草などよく張って積むと橇はひっくりかへるし、それに、今年は例外で雪が少くて暖かだが、何となく寒くて駄目なものだ。雪國の人間は、冬は。雪がどっさりないと正月は正月らしく思はれないし、何となく心淋しいものである。一月の日高登山も積雪不足のた非常にコンディションが悪くて苦労した。 |
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僕達小學校時代からの事を思ふと、雲も少くなったし暖かくもなった。一歩街から郊外に出ると、ぐんと積雲量が増加する事はスキーをやる人は誰でも気がつく事である。それは降る量には大した變化がなくとも街は暖かいので、雪がぐんと沈むせいかも知れないが。気候がだんだん暖かくなったといふ事で面白い話がある。近所と云ふても一里位あるが、紋別部落のはづれの坂の下にKといふ恐ろしく腹の出た獸醫さんがゐらっしやるが、その獸醫さんの話に依ると「ワス等内地からここサ來て二十八年になるが、ナスビやキウリを貪へる樣に成ったのは近頃の話で二十何年間は食った事なかったでがス。第一石油や醤油がしばれない、石油なんかしばれて、灯すに困ったもんだ、それで石油サ越年になるとナンバンを澤山入れたもんだと。成程軍隊などで凍傷を防ぐ方法として足にナソバンを塗るとか聞いてゐたが、石油にナンバンとは考へたものだ。今はそれ程に塞くないが、と云っても最近でもたまにはマイナス三〇度以下になる樣な寒い時もある。然しふとんの襟に霜がおりる位はめづらしくもない。だが今年は暖かだ、春までこれは寒いと思ふ日も無くて、とうとう冬のモヽヒキもはかずに過してしまった程だ。一番寒くてマイナスニ○度前後なのだから樂な方だ。 |
下図:「画文集 山の声」辻まこと p15 東京新聞刊 昭和46年 |
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雪が少いので二月になったって馬や牛は飼付け。草をやる事しをしてしまふと、毎日運動に雪の中に放牧してやるのである。彼等は退屈だから、カサカサした柏の枯葉だの、雪の上に出てゐる味もそっけもなささうな枯草をポリポリとかぢる。そして何かうまい物はないかとあちこちと歩きき廻る 馬は積雲を蹴散らして飛んであるく。足が輕く生れっいてゐる彼等はやはり走る一方に出來てゐるのだらう。平原の西を大きく走る日高の連山が白銀の波を打って輝き、雪の反射で眼がチカチカする樣な快晴の日などは、彼等も亦気持良さうに雪の中にボツンポツンとたたずみ、眼をトロリとさせて晝寢をする。だが夕方になって小屋に追込まれる時間が来て、空気が冷々して来ると、きっと入口に集って来るのだ。 |
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收穫が終って、穀物をカマスに入れてそれを虎の子の樣に大切に部屋の中に積みあげてしまふと、やれI安心といふわけで半歳の間こき使った体を。ストーグの側にのびのびとさせるといふのが北國の農民の生活である。そして後は毎日の相場に気をつけて値段のよい時に、今日は何れ程の金をつかむによいと胸に算用をして、雑穀を馬橇にっけて町へ出ては商人の手に渡すのである。この地の農民に限らないが、冬になると畑の仕事は殆んど無いので、逹者なものは山子の仕事に出かけるし、家畜の世話をしたり薪を挽いたりする。私逹は耕作が主でないから従って賣物の雑穀はひとつもないのだから、相場がどうのかうのといふ事には無関心だ。唯、馬を育てて或は牛を育てて乳を賣ってゐればよいのだ。牛乳一升がI〇銭もすれば牛飼ひは大よろこびだが、そんな値のいい事はたんと無い事だ。冬の屋外の仕事といふと薪をこしらへる事と、畑や野原に積んである藁や馬草を運んで来たり、馬や牛の糞を畑にまき散らしたり、雪道をつけたりする位の事であるが、結構毎日、吹雪で無い限りは外へ出たきりといふ程仕事がある。顔は相當雪焼けするが、それでも毎日雲の中に居る割に黒くならないものである。だがたまに都會などにまかり出ると「黒いなア」と云はれる。土地の人達はやはり皆黒いのだから案外黒くないと思って都會へ出て行くと、いくら一生懸命スキーをやってゐる人達よりもはるかに黒いといふ事になるらしい。たまに札幌の家へ歸ると、ずいぶん失禮な話だと思ふが、色が黒いとかやれ馬くさいとかベコくさいとか山くさいとか云って、・妹逹にきらはれてしまふ。「オイ街へ行かんか」といふと「黒くてくさいからいやだ」とノ’クアウトだ。所詮百姓はくさいもんであるといふ事になるらしい。 |
下図:「画文集 山の声」辻まこと p59 東京新聞刊 昭和46年 |
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この附近の平原はもと鬱蒼たるカシハ大木の純木があったのだが、昔カシハの皮・・・之れから皮ナメシに用ふる夕ン二ンを製造する・・・をはぎ取る爲に亂伐してしまったといふ。恐ろしい無駄な事をしてしまったものである。いくら木が豐冨だと云っても亂暴もかうなると、しっかりしたものだ。それはちやうど牛の皮が必要だからと云って、牛を殺して皮だけ剥いで後は皆捨ててしまふのと同じ事だ。さう云った大木が草の中にあはれなむくろを無数に横たへてゐる。もっともその後でよい處は枕木をとったり、材にしたりした形跡はあるのだが、それにしても驚いた乱暴である。私逹の薪はそのお蔭でその倒太だけで充分なのである、おそらく私逹の生きてゐる間は充分であらう。 |
薪を挽きながらこの大木が皆この平原に立ってゐたならと、よく昔のこの平原の姿をしのぶのである。計畫なしの乱伐は今となって僕逵百姓に風の有難味を殘してくれた、今だって立派な風防も殘ってゐるにはゐるんだけれども。倒木を馬がひける位に切ってそいつを玉につけたり、馬橇に積んだりして家の近くに集積して置く、さうでないとドカッと大雲が来ると馬橇も何もきかなくなり忽ち困ってしまふからだ。夏は夏で畑仕事に忙がしいのでとても冬分の薪迄こしらへてる暇など無いので、冬になると薪に追はれる。だからかういふおかしな事になる、薪の無い街の人逵は秋になると薪を買ってちゃんと冬の用意をして置くが、家の近所に薪がゴロゴロしてゐる私逹は、ともすると今晩たく薪が無くてあはてるといふ事などしばしばある。鋸やまさかり、とびなどをかついで、口から白く息をはきながら粉雪をけちらして木挽に出かける。川邉の木々にはチカチカと樹氷が咲き、それが今しがた地平線から顔を出したばかりの太陽の赤い光で輝く美しさは又格別である。又その間を無数に錯綜してゐる兎の足跡、小鳥が羽ばたきで樹氷をちらしながら枝から枝へと渡ってあるく風景、それは毎朝の樣に見る風景であるのだが、毎朝立ちどまって眺める程に美しいものである。 |
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雪をシャベルでどけてどっかと腰をおろし、よくとぎすました鋸でシャンコシャンコと木を挽く位気持のよい仕事も少い。だが又きれ味の悪い鋸で木を挽く位阿呆らしい事も少い。處が、鋸の目立といふやつは、ななかくうまくゆかないもので、鋸が木の中を通って行くだけでも結構な位、直徑二尺も三尺もといふ木になると中々鋸を通すだけでも骨なものだ。骨を折ってやっと目を立てて、さて挽く段に成ると鋸があちこち曲ってゆくし、果てはしぶって動かなくなるといふ、有樣だ。鋸の齒は交互に外にそってゐるあのそりをアサリといふのだが、このアサリを揃へるのが一番むづかしい、つまり何十枚かの齒が一枚の齒の樣に揃っゐないと鋸は曲ったりしぶったりひっかかったりするのである。無精してチョソ(頭)ばかりこすってゐるとアサリがだんだん無くなって、しまひには鋸がしぶって動かなくなる。アサリが出過ぎると切れ味は落ちる。アサリは打出でたたいて打出すのだが、初めはなかなか揃はないで幾度も幾度も片目をつぶってにらんでゐるうちに、眼がへんてこになってわからなくなる。齒のすり込みの角度も硬木の類(カシ、ナラ等)やドロ、青木やエソの樣な柔かいものを挽く場合と、角度をそれぞれ変へなければならないのでなかなか苦心がいる。鋸には土佐鋸、會津鋸等があり、それぞれ用途に依って違ふのだが、山へ持って行く樣な腰鋸は會津がよい。 |
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私は長い日敷を要する登山にはヤスリを一本持ってゆく、山で疲れてゐる時や日が暮れてからのキャンプの折など切れ味の悪い鋸程しゃくにさはるものはないし又エルギーの空費だ。たき火の側でゴシゴしと鋸の目をすり込むのも樂しい事だ。冬は木は中心迄凍れてゐるので夏よりは鋸の齒がいたむから挽くのに骨が折れるが、割る段になると反對に大きな奴でも一撃でポカく面白い樣に割れる。径二尺玉二尺もある木を割るのは愉快極りないものだ、大マサカリをふりあげて、根心一撃を加へた瞬間、カラカラと快的なひびきと共にサヴと割れる時の氣持のよさ。いつか或雑誌で見だのだが、獨逸のカイゼルの趣味と題してマキワリをして居られる寫眞が出てゐるのを見たけれども、あんな小さなマサカリであんなちっぽけな薪を割つても面白いのだから、こんな大きなやっを割らせたらどんなによろこんだらうと思った。いつもならもうスキーをはいて薪をきりに出かけるのだが、今年は二月になってもまだゴム長(長ゴム靴)でも結構である。薪切りには樂だが気持はよくない、冬は雪がどっさりないとさびしい。 |
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上図: Mr.Youngtree-北海道原生林の大海原 |
23話 |
坂本直行 |
1906年(明治 39年)- 1982年(昭和 57年) |
北海道の飯場の話 |
山 第1巻 第11号 p726~p730 抜粋 昭和28年刊 梓書房 |
開けたと云っても、まだく原始林の鬱蒼たる北海遉に於ては、冬になると山中至る処一斉に造材が開始される、と同時に飯場も開始される。ここに書かうと思ってゐる飯場の話はその造材の飯場であって、土工だの其他の飯場ではない。そしてそれは又飯場その物の話よりも、登山に関聯した飯場の話を中心にして書かうと思ふのである。下図:登別市のオロフレ峠は標高1230mのオロフレ山の峠-上家二三夫 |
下図:明治時代の移住移民小屋掛之光景(北海道大学附属図書館所蔵)飯場も似たつくり |
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北海逍で最もスキー登山の盛な(恐らく日本中でも最も盛であらうと思はれる札幌近郊でも、今でこそヒュッテの數は十五六を敷へるけれども、七八年前迄はヒュッテの一つさへも無かったのだった。それで私達は、どうしてもこの造材小屋即ち飯場に泊めてもらってでなければ、登山する事が出来なかった。もっとも今でも札幌近郊を除いた他の奥地の登山になると。ヒュッテなどは無いから飯場に泊めて貰ふと至極便利なのである。 |
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上図:「画文集 山の声」辻まこと p194-195 東京新聞刊 昭和46年 |
平地でさへ零下三〇度はさして珍らしくない冬季のキャヤンプは、なかなかゆるくない。それでかうした飯場の存在は、私達登山者にとっては、實にうれしい存在なのである。だがこの飯場以外に北海逍には驛遞(原始的な遞洽機關)といふものがある。この驛遞を利用する事もあるけれども、それは交通の發達と共に裂れて。もう幾らもさうした驛遞は殘って居ない。 下図:当時の郵便図 |
飯場は實に私達にとって、うれしい存在である。それは大抵の場合、驛の眞近に夏か或は秋になって建てられる。そして小屋は一冬か或は長くもって二冬で、大抵ぶっつぶれたり、あばら屋に成ったまま捨てられてしまふのだ。構造はだから至極簡單だ。幅三聞か四間に長さは十間二十間といふ長屋で中には柱は一木も無い。屋根は普通長柾と云って、長さ二尺位もある長い大きな柾を無造作にぶっつけてある。サタリは昔は粗末なものになると。卜ヾの枝を押付けただけのものもあったが、近来は警察の干渉がある樣で、サクリは大抵枝をぶっつけてある。そして下は大概土間にトド松の枝を敷いてその上にムシロを敷くのが普通である。窓は有る小屋も無い小屋もある。眞中に一間幅位の瀘ーこれは槙を積んだり、通路になったりするーがずうっと通ってゐる。そして大きな底無しの、三尺位の薪をどしくぶち込める程のボイラーの樣なストーブがいくつも据ゑられてある。そして小屋のI隅にめしたき揚がある。 下図:「画文集 山の声」辻まこと p205 東京新聞刊 昭和46年 |
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大抵は針葉樹林のあたりに建てられる、これもうれしい事の一つである。その他の建物としては。事務所、風呂場、便所、厩等で、これが造材飯場の全貌なのである。事務所は山子逵の飯場より數等立派で、硝子窓もあるし、障子もはまってる更に疊迄上って居るといふ樣な都會の住宅然とした立汲なのもある。ここには飯場の持主、即ち親方の手紙でも一札持參しなければ、さうも易々とは泊めてくれないが、私達にはさうした處より山子どもの澤山ゐる飯場に泊る方がずっと好ましいのである。事務所の棚には、何百足といふ軍手や、大した數の焼酎がぎっしりと押込れまてゐるのをよく見受ける。これは米味噌の他に山子どもの最も大きな淌耗品なのである。ツルツルと鏡の様にしばれた玉道(馬橇遉ともいふ)を、大きな材木をひいて下って来る幾つもの馬に道を避けながら飯場に辿り着くのであるが、その途中でもう飯場の中の色々と愉快な有様などが想ひ浮んで来る。 |
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何處の飯場へ行ったって彼等山子達は快よく席を開けて仲間へ入れてくれるのだ。それが私達に一番うれしい事なのだ。「えれエ荷物かっいでお前さん方何處サいぐんだ。探檢か。」いっもかう云ふ言葉がお定りだ。ピヴケルなどを見ると鑛山師と間邃へられる。「いや山登りに来たんだよ。」といふと「冬山さ登って何があるべいか。」成程掘って来る可き草や木もないのだから山登りといふ事を何等知らない彼等にとって大きな疑問に邃ひないのだ。八貫も十貫もといふ大きなリをかついで汗だくで歩く私逹の姿を見ては、其れがどうしたって遊びや樂みには見えないのは當り前かもしれない。飯場で泊るのは實に愉快な事には濃ひないけれども、又一面から考へると、かくも山の中に迄入り込んで正月といふ正月も持たず孜々として働いてゐる彼等の間に、遊びに来た私達の体を横たへるといふ事は。どう考へたって済まない気持がしてならない。働く者こそ大手を振って何處でも歩けるのだ。だが初めのかした気持も、彼等の素朴。快活、放瞻さに柔らげられてつひには打ち寛いだ氣持になってしまふ。彼等はいささかのひがみをも持だない。「飯場さ来て遶慮つる奴あっか」の彼等の1言で私はいつもその親切をしみぐとうれしく思ふのが常だ。出入りする時に彼等の後でも通ると「遠慮せんと前を通れ、それが飯場の礼儀だ。かくして私達は常に愉快な時を持つ事が出来る。責に素朴な彼等ではないか。 |
上図:「画文集 山の声」辻まこと p69 p185 東京新聞刊 昭和46年 |
彼等は農閑期を利用して来る百姓のせがれだとか。雪が降るとあがったりになる商賣を持ってゐる人間とか。海岸に近ければ春の鰊時迄の閑散を利用して集って来るといふ樣な人が多い。尤もかうした事ばかりで渡世して歩く人間も居るが。全く各地から集って来てゐるので、その話を聞いてゐてさへ結構退腿を知らない。さうでなくとも、ざっくばらんな荒くれ男ばかりの所帯であるのだのも。其の時は春硬雪になってからだった。まだ小樽内(札幌近郊)にヘルヴェチヤヒュッテが出来る前の時分だ。 |
ヘルブェチヤ・ヒュッテの由来:1927年(昭和2年)、スイスの建築家マックス・ヒンデル、北海道大学講師アーノルド・グブラー、同大学教授・山崎春雄らによって建てられた。ヒンデルが横浜に転居する前の、札幌在住中最後の作品である。山崎の名義となっているのは、当時の日本では外国人名義が許可されなかったため。その後、1934年(昭和9年)に北海道大学に寄贈され、1985年(昭和60年)に改修を受けた。ヘルヴェチア・ヒュッテ(ドイツ語 : Helvetia Hütte)は、北海道札幌市南区定山渓にある山小屋。「Helvetia」とはスイスの古名。北海道道1号小樽定山渓線沿いのシラカンバ林の中にひっそりと建つ。朝里岳・余市岳・白井岳登山基地として愛好された。屋根は柾葺き。入り口や脇の雨戸には、白地に赤の放射線模様が施されている。また入り口の上には魔除けの人面彫刻と、竣工年を示す「1927」の文字が掲げられている。 |
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上図:冬の手稲山より凾館湾を望む |
私逵は友達と三人して奥手稻へ銭函の峠の方から登る可く出かけた。その年には峠を小樽内川へ下りて一番最初の澤に飯場があった。其處を訪れたら昨日オヤヂ(熊)が鑞れたから肉を御馳走するといふわけでちようどうまい處に出くわした。山子は鉈でオヤジの肉をぶっりぶっりと切ってくれた。穴熊(冬眠の熊)とは云ヘー頭の肉は大したものだった。新らしいので少々硬いが、私達は飯盒の萓でそいつをバターでいためて散々に食べた。この熊篦りの騒ぎは又大した傑作で。なんでも穴の中からほえる奴を口の中めがけて散弾を無茶苦茶ぶちこんでとうとうやっけてしまったんださうである。熊を散弾でとった話は初めて聞いて大笑した。何んでも小鳥を打つ散弾しかなかったんで随分苦心散弾したんださうな。お蔭樣で奥手稻の登山はふいに成りオヤヂで満腹した腹をか&へて山を降りてしまった。 |
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國道直しもなかなかゆるくない商賈である。殊に吹雪の谷などは全く忙がしいのである。高い処は削り、低い処には雪を入れ、馬糞はさらって置くといふ具合だ。道が悪いと藪出逋中に始終もんくをいはれる。銭函峠を降る國道は全く急傾斜であるからそれだけ道もいたむので仲仲骨が折れるのだ。急な谿を通るので毎年二三頭の馬が材木と一緒に轉り落ちて死ぬんだといってゐた。傾斜が急な處は危險なので角(材木)チン(山子逹はチェーンを訛ってかう云ふ)を卷いてプレーキにする。物凄いひびきと共に大きな角の連結されたのが、下りの苦手な馬の後からつぎつぎくと追ひまくる樣に滑り落ちる。角と角が衝突して凄い音をたてる。馬にしても人間にしても危険な仕事だ。一日十五圓も二十圓もと昔の景氣のよい時代には金になったのだが、今ではなかなかゆるくありませんよと彼等は滾す。百石單位で賃金をもらふのだ。これはデガクを作る牙でも同樣である。つまり造材の仕事は、山子と藪出とから成立ってゐるのである。山子は立木を倒してサッテと称する鉞の首の長い恰好をした物で枝をおろし、所要の長さに切り、面をハピロと腓する見るからに恐ろしい大鉞ではっる(けづる)のであるが、かうして出来た角材をデガタと称するのである。ハピロは全く物凄く切れ味のよいものである。上手になる程はつる敷少くして仕上げるといふわけである。(ビロを使ふ時は、(ビロハ間と稱してその附近入間は氣を付けろといふいましめがある。手から誤って滑って飛んだ楊合は八間も飛ぶんださうな。傾斜が急な處は危險なので角(材木)チン(山子逹はチェーンを訛ってかう云ふ)を卷いてプレーキにする。物凄いひびきと共に大きな角の連結されたのが、下りの苦手な馬の後からつぎつぎくと追ひまくる樣に滑り落ちる。角と角が衝突して凄い音をたてる。馬にしても人間にしても危険な仕事だ。一日十五圓も二十圓もと昔の景氣のよい時代には金になったのだが、今ではなかなかゆるくありませんよと彼等は滾す。百石單位で賃金をもらふのだ。これはデガクを作る牙でも同樣である。つまり造材の仕事は、山子と藪出とから成立ってゐるのである。山子は立木を倒してサッテと称する鉞の首の長い恰好をした物で枝をおろし、所要の長さに切り、面をハピロと腓する見るからに恐ろしい大鉞ではっる(けづる)のであるが、かうして出来た角材をデガタと称するのである。ハピロは全く物凄く切れ味のよいものである。上手になる程はつる敷少くして仕上げるといふわけである。(ビロを使ふ時は、(ビロハ間と稱してその附近入間は氣を付けろといふいましめがある。手から誤って滑って飛んだ楊合は八間も飛ぶんださうな。 |
坂本 直行(さかもと なおゆき、1906年〈明治39年〉7月26日 - 1982年〈昭和57年〉5月2日)は、北海道出身の画家。北海道開拓民。郷士坂本家8代当主。討幕運動の立役者として知られる坂本龍馬は、直行の祖父・坂本直寛のおじになる。龍馬の姉・高松千鶴が、直行の曽祖母となる。来歴・人物1906年、のちに郷士坂本家7代当主となる坂本弥太郎(木材商社であるKing & Schulze商会釧路支店(本社 函館市 1910年設立)が発祥の坂本商会代表)・直意夫妻の次男として現在の釧路市で出生。1911年に郷士坂本家5代当主の坂本直寛(母・直意の父で、直行の祖父)が死去、1913年釧路大火で自宅家財を焼失し直寛の経営していた農場の施設の管理・処分のために、坂本家は1914年に札幌区に転居し、札幌二中(現・札幌西高)に通った。1924年、直行は父の勧めで北海道帝国大学(現・北海道大学)農学実科に進学。在学中は山岳部に在籍し、登山に親しんだ。1927年の北大卒業後は温室園芸を学ぶために東京府(現・東京都)の温室会社に就職。その後、札幌で温室園芸会社を起業するが、父の資金援助がなかったこともあり頓挫する。1930年、北海道帝国大学の同窓とともに農場経営をするため、札幌の実家に帰らないまま十勝支庁の広尾郡広尾に転居し、同地の野崎牧場で働きながら牧場経営を学ぶ。1936年に25町歩の土地を取得し、自ら牧場を経営を始める。同年、石﨑ツルと結婚し、五男二女の7人の子どもを儲ける。また、この時期、北大山岳部OBとしてペテガリ岳登頂計画に参加したほか、北海道の自然をモチーフとした風景画や植物画を書き始める。1957年、第一回個展を札幌市で開き、その成功を受け、1959年には東京で個展を開催。以降は画業に専念することになる。1960年より札幌市にアトリエを構え、画題を求めてヒマラヤやカナダなどを旅行し始める。1974年、北海道文化賞受賞。1982年、膵臓癌のため、札幌市で死去。 |
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上図:辻まこと |
24話 |
辻まこと |
1913年(大正 2年)- 1975年(昭和 50年) |
山からの言葉 |
山からの言葉 辻まこと1996年 平凡社刊 |
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上図「風と木」川口邦夫 昭和50年6月 燕岳にて「山の写真と写真家たち」p-98 平凡社刊 |
森林限界をぬけると、あとは雪と岩と青空だけの世界になる。つまり鉱物の世界だ。これ以上にサッパリして清潔な環境は考えられない。山男というのはあまり衛生的な観念のないきたならしいものだとおもわれている。事実ナリフリをみれば、アカじみてもいるし、無精ひげなどはえていて、一見不潔ふうなものだが、見掛けよりは実際的な点を重視する気質なので、根元のところがチャンとしていれば多少の失礼はかえりみないのである。快適で清冽な環境で、きびしい生活条件というのは、人に活気をあたえ、無駄をはぶくものだ。不自由な自分か自由に闘うのはいい気持だ。汚れたマスクに化粧しているような世間で、自由な自分が不自由に闘っている不快感を自覚するには、この酷烈な二月の山の上ほど信頼できる場所はない。世界中どこの地方でも、海を母とよび、山を父とたとえるところをみると、あまり温かくはないが、正確な教訓を人々は、いつも山の方から受取るのかも知れない。 |
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上図:「冬の雷鳥」柴崎高陽 昭和13年3月 乗鞍岳にて「山の写真と写真家たち」p-50 平凡社刊 |
あなたはアノ白く気高い雪山のようだ。いつも私の眼の中にありそうながら近づこうとすれば遠くなり、離れようとすれば一層高く姿を見せる・・・。これはヒマラヤ山麓に住むインド人の民謡である、と一人の友人が私に教えてくれた。土地に住む人々が「近づこうとすれば遠くなり……」とただ憧れているうちに、遠い遠い海の彼方の島国か「近づけば登れるものだ」とばかりやってきて本当に登ってしまう。かくて象徴は表徴として別の姿を見せることにり、土地の人の眼も今までとは違った意味で白い山を眺めるようになってくる。こうした文明と自然の接触の進展のタイプも別に今はじまったことではなく、たとえば日本アルプスの歴史の中にも充分見られる。民謡は実際には死んでしまうが活字にはなって山麓どころか世界中に拡かって歌われる。白い山の原始性はだんだん失われて自然は公園化され、気候も地質もそこに住む動物も植物も調査され数えつくされる。世界の山国は将来スイスのごとく大きな美しい一葉のエハガキとなるかも知れない。それが良いことか悪いことかは私には判らない。ただそうした世界の変化も一層巨大な自然の批判の前にはあまり意味がない・・・と感じさせるのもまた白い山の姿にはある。上甲平谷という人の句にこういうのがあった。 |
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上図:「早春の白馬大雪渓上部」穂刈三寿雄「黒部と槍」p-119 東京都写真美術館刊 |
最初は武田久吉博士の『明治の山旅』に掲載されている写真を見たときに、そして先日、戦前の古い山関係の雑誌や書籍を整理しながら往年の写真を眺めていてまたそれに気づいたのだが、どの写真を見てもそこに現代とはまったく違った別の感触、流行のいい回しをすればフィーリングというやつが写っている。町や人の服装や建物のごとき文明を対象にしたものならともかく、写真家の目つきや思想が、自然景観をそれほど一律な趣向に傾いて表現するものとは考えられない。とにかく、どの写真を見ても不思議に静かなのである。スキー場の人込みは今日ほどではないが、それでも当時の岩原など相当込んでいるところが写っている。にもかかわらずそれは妙に静寂で写真の枠の外には深い沈黙があることが感じられるのであった。表現の技術、印刷の進歩はまったく比較にならないけれども、これら古い写真とくらべて現代の写真には、それがたとえ人跡未踏のヒマラヤの氷雪を写したものであっても、そうした静寂が写っていない。なぜだろうか。この比較写真考はもう少し研究してみる価値がありそうだ。フィーリングなどといっても写っていないものに根拠がある筈はないからだ。 |
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上図:「氷雪の山」川口邦夫 昭和38年12月 五竜岳にて「山の写真と写真家たち」p-96 平凡社刊 |
下図:「雪原のカラマツ」山本和雄 昭和49年1月 上高地「山の写真と写真家たち」p-100 平凡社刊 |
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雪の降る季節に清水トンネルを抜けると、大抵の人は川端康成の小説を思い出すらしいが、私はいつも鈴木牧之の『北越雪譜』を思い出す。明和に生れて天保に死んだ人だから、江戸時代といってもそう古い頃ではない。とにかく克明な記述はいろいろな意味で面白い本だ。これに惹かれて『秋山紀行』も搜して読んだことがある。これは実に当時の山住いの風俗がこと細かく書かれ、牧之の筆になるスケッチも秀抜である。ところがこの牧之という人物、どうしても私は好きになれない。田舎インテリの半可通が鼻について、随分と丹念で実証的な珍しい努力家であるが虫が好かないのである。文体の悪くしつこいことと、趣味のよくない下手くそな漢詩は、別にとり立てて悪口をいうほどのことはないけれど、山村の人々に対する尊大な文化人ぶりは耐えがたい。「すでに発たんとする時、置土産に牛に対して琴を弾ずる如く、短冊五、六枚書いて読み聞かせ、ここ元を立ち出でぬ」。昼食って昼寝し、うやうやしく差し出す茶にケチをつけながらもご馳走になった道端の農家、文盲とわかっているのにその人々に、茶代がわりにさも偉そうに声を上げて短冊を読み聞かせ、牛に向かって琴を弾ずる如し・・・などとほざくこの鈴木牧之というのは何という野郎だろうとおもうのである。ヒマラヤや東南アジアにこんなのは出かけていないだろうな。 |
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上図:The Higt Himalaya p-37 「Moonest-Over Lingtyen-Nepalese border」 |
雪はほとんど切れ目を見せず、昼も夜も降りつづけた。積りつづける雪の白に消えるのは、ものの象(かたち)だけではない。ものの声、ものの音もちいさく次第に響きを失っていく。この世界は急に大きな静けさをつくる。人々は静寂という基底音の存在に気づく。・・・・・彼にとっては、慣れない遠方から一つの思想がこの静けさと一緒に訪れてきた。もっと若かったころからの登山の経験の回想に挟まって忘れていた、一つの思想がいまやってきたのだ。雪に埋もれた小屋の中で、ちいさい赤い炎をあげて燃えているストーブのような、自分たち登山者の情熱は一体どこから、何時自分たちの心の中に棲みはじめたのか? 人の生甲斐が高い氷雪の頂を目指すのは何故か、岳人タチにはいくら考えてもわからなかっか。わかるということは、二月のこの深い雪の下で三月の山頂への行動をととのえるために、自分たちが、燃やしている情熱の燃料になるだろうか? 新しい薪をくべなが |
下図:田淵行男の世界 p-90 「大キレットに沈む月 蝶ヶ岳」 東京都写真美術館刊 |
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私は東京の生れで、家は代々、浅草にあったが、維新以来零落して、私の代になった今は、東京とは名ばかりでボーダーラインインすれすれの多摩の西山を切崩してできた団地の片隅に、やっとひっかかって暮している。この辺の丘をほじくり返している不動産屋のおかげで、何千年も前の原始住民の穴居跡が出てきたなどと、新聞の地元版に新発見のごとく、ときどき報道されるが、行って見ると私のところと一向に変わってはいないような気がする。コンクリートと土の違いだけで、穴居という点ではまったく同じだ。むしろ周囲穴だらけという点で、昔より非文化的である。裏の小山の稜線に立つと、風の強い日には丹沢山塊がすぐ目前に並び、蛭ケ岳の肩から富士山がぬっと顔を出している。この遠望だけはおそらく二、三千年前も同様だったろう。往年の穴居人は、この風景の前で何を感じて暮していただろう。五情の好悪もなお古のごとしとすれば、自然は大した批評家だ。 |
下図:「ZANSKAR」 A Himalayan Kingdom 1958 p-16 |
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サウジアラビアの方から帰ってきた人の伝聞だが、あの砂漠の国では、人々は時々ラクダの背中に天幕を積み、昔ながらの皮袋に水を入れ、近代化された都市を離れて先祖の方式そのままの支度で一週間くらいの旅を楽しむそうである。きらめく星空のもと、昔ながらの生活を確かめるのが、砂漠に住む近代人のレクリエーションで、それはかなりぜいたくなスポーツとされているとのことだ。われわれの島は砂漠を持だないが、山も川も森も海もあって、やはり無意識ながら自分たちの生物的健康を確かめるために、自然の中で心身を洗ってみようとする。多分、砂漠にはビニールやポリエチレンの袋は見えないだろう。そして山のように登高に苦労することがないにしても、それにかわる苦労があるだろう。われわれの方がもっと快適だろうとおもう。それはわれわれが単純な快適を好んで、祖先の苦痛と苦悩を見ようとしないからだ。この辺にわれわれと砂漠の人々との間にある宗教に対する心構えなどの相違も感じられる。アラーの神は唯一で偉大で狂暴だそうだ。われわれの神々はヤオヨロズで、道端の道祖神や地蔵さんのようにひ弱だ。 |
下図:THE HIGT HIMALAYA p-84 「Concorda, Karkoram Range」 Pakstan |
上図:THE HIGT HIMALAYA p-104 |
アナタは山へいくとかならずなにか珍しいことに遇うようですが、本当ですか? とたずねられたことが一度ならずある。なにか話したり書いたりするのはタネがあるからするので、山へ出掛けるたびに、そうそう他人に聴かせておもしろいことに遇うわけはない。たいていは無事平穏に歩いているわけである。しかしクマに出会ったり、鹿を見たキツネのランデブーを見たり、ビッコのカモシカと話をしたりした経験は、たしかに珍しいといえるだろう。考えてみると私はたいてい一人で歩くから、ガヤガヤ話す相手もなく、服装は万事古着で、派手な色の帽子やシャツなんぞ着ていない。すこしでも早く頂上……なぞと急がない。くたびれないように静かに遠慮しながら歩かせてもらっている。だから物音や声など相手より先に気づくことが多く、それで団体などで賑やかに登る人たちからみれば、自然を自然な状態で見受ける機会にめぐまれているのかも知れない。何ということもなく、谷川の石にもたれて二時間も坐っていれば、山の一呼吸ぐらいの息吹きは感じられるのがあたりまえだと私はおもっている。 |
下図:田淵行男の世界 p-218 東京都写真美術館刊 |
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私はマゾヒストではないから、苦痛や苦労はやはりただ苦痛であり、苦労としかおもわれない。しかし登山にもし苦痛や苦労が伴わなかったら、悦びは発見できないだろうとおもう。健康の爽快さは重荷なしには確かめられない。苦味や塩辛さが旨味を作るようなもんだ。登山家は山を降りると素直に苦労や苦痛を忘れてしまうもんだ。そして山や谷や風や雲のことばかりおぽえていて忘れないのである。自然には無限に人の知識を吸収する力があり、人は簡単にちっぽけな一身だけの問題を放棄してしまうことができる。自分を抜けだして一本の樹に同調し、山頂に光る残雪と化し、あるいは谷間に漂う霧にとける……というような自由が一体どんなことに役立つのか……と、山を知らない人は質問するかも知れない。それが何の役に立つのかは、私にも解らない。おそらく何の役にも立たないのかも知れない。しかし、それは人に健康な精神を与えるだろう。自分の穴からいつも覗き見するような、へんな眼つきで世界を眺めるようなことはあるまい。 |
下図:Where Heaven and Mountains Meet Lobsong on the Frozen River,ofter a snowstorn |
上図:「白神岳のブナ」 水彩の山 p-41 中村好至恵 白山書房刊 |
たとえネコの額ような藪山でも、自然にませられた場所には公園にはない魅力が備わっているわっている。そんな山かげから飛びだしてくる小さな兎は、動物園のライオン以上に私の心をドキンドキンとさせる。笹の中のウグイスの声は、カナリヤのトレモロよりも私の魂をふるわせる。山道の小さなスミレは、鉢に植えられたどんなバラよりも共感する。いったん自然の生命を壊れるほどいじくり回したあげく、いかにも自然を愛しているかのように木を植えてみたり、花壇を設計してみたり、植木鉢を並べてみたりして、いい気になっている人間。ハサミやナイフでチョキン、チョキンと植物の手や足を切りとって床の間にさらし物にするのが、しとやかな趣味や風流だとおもっている人間。まあどんな生き物だって、弱肉強食は運命なのだからしかたがないが、それを生き物の業とも原罪とも考えてみる自覚がなく、何か自然を愛し、存在のすべてを美しくする善意ででもあるかのような、ヒポクリシーが公園や花壇にはある。動物を可愛がりましょう・・・という説教じみた立札が動物園にあると私は吐気を感じる。自然を破壊から守れ・・・などと不特定な他人に説教する立札をみると、ヘドをはきたくなる。自然破壊と称するムダな行為よりも、これらの言葉の持つ人間の、あつかましい偽善の方がよっぽどハラがたつのである。 |
下図:「白神岳のブナ」 水彩の山 裏表紙 中村好至恵 白山書房刊 |
上図:クロード(C)カレーボム |
お天気のいい三月の雪山ぐらい、のどかで清浄な天地はちょっとほかに比較できない世界だと私はおもって、一年のうちで特別にだいじにしている。だから心掛けて充分に山旅の日数がとれるように考える。帰りの日や時間まできめるような旅は元来したことがないけれども、何か期限のはっきりした約束でもあると、どうしても気持が落着かない。旅に充分身心をとけ込ませられないくらい不経済なことはないとおもう。人の好みはそれぞれだから、何ともいえないけれど、なるべく軽いスキーを穿いて、ゆるい斜面の続く人気の少ない森や林の中を、のんびりと歩いては宿をさがし、またつぎのコースを考えては朝をまち、天気でも悪ければ、沈澱もまた一境遇と考えて楽しむ……というのは私の趣味で、幸いなことには、あまりこんなのは人気を呼ばないから、出掛けて他人のシュプールにまどうこともない。雪の上こそ唯一無二の自分の道をえらぶぜいたくができる。そしてこの道はすぐ消えて、大にも自然にも迷惑はかけないのである。 |
下図:Walter Launt Palmer |
上図:「秋田駒山頂よりの岩手山」水彩の山 p-29 中村好至恵 白山書房刊 |
六月になると、日本列島は梅雨前線を首飾りのようにかけて、煙雨のベールに包まれる。ジューンブライドのイメージにぴったりである。雨のない日でも空気はしめっているから、稜線から遠近新緑の山々を眺めると、霧霞の中からボーツと形がにじみ出て、目の悪い人間が見る夢の情景のようであったり、海にただよう島かげだったりする。こうした風景は、物体の量感や質感を喪失させて目を情緒的な陶酔へ誘う。この酔い心地というのは決して悪いものではない。現実と夢の入りまじった、こんな山路をぼんやり歩いている時、ガスの中から小鳥の声がしたりすれば、古人がこの上ないぜいたくな世界に遊んだ気持になって喜んだのも理解できる。たぶん、他国にはあまりない、日本の山旅の一得であろう。歩く足もとの淡い緑のしめった色ッヤなども、ずいぷんと繊細なエロティシズムである。残念ながら油絵になりにくい。 |
上図:「飯盛山より北岳」水彩の山 p-61 中村好至恵 白山書房刊 |
上図:THE HIGT HIMALAYA p-11 Blankett flowers(Gaillardia spp,)Indus River Valley |
どの季節がいちばん好きですか? とよくきかれるが、いつも返答に困る。山はいつだってそれぞれの趣があって、春夏秋冬みたいのだから。秋になると観光地のポスターはたいてい、紅葉の写真をかざる。自然の豊富な色彩は実際秋に最もケンランとしているが、不思議にサイケデリックな気分にはならず、沈静した寂しさを感ずるのはどうしたわけであろうか。われわれは自然の派手な色彩の表面を通過して、おそらくもっと深く世界を感覚するからだろう。紅葉の山旅は勿論美しいが、秋の澄んだ月夜に涸沢あたりの天幕をでて、彫りの深いどっしりとした山の大きな姿を眺めるのは、また別趣の感動だ。生命の底の底にある力にふれる想いがする。こういう立体感のある宇宙感覚を古来多くの人々が経験しなかった筈はあるまいが、それについて書かれたものは案外にすくない。きっとそれは文字や言葉には表現しにくいからだろう。そんなとりとめのない思いを反芻しながら秋の山道を雨にうたれながら歩く。すこし自分がコッケイで、すこし残念だが、こんなとぼけた散歩も山でなければ楽しめない。 |
下図:秋の涸沢カール |
上図:「早春に咲く・エゾノリュウキンカ」北海道花の大地 奥田實 p-7 1989年 山と渓谷社刊 |
雪がまだらになり緑色が萌えはじめ、カレンな花が顔をだす。春という言葉の価値は山に近づかないと一向に本当の魅力がわからない。春といえばホコリつぽい風が吹いて、なんとなくザワザワしたいやな季節だという意見は、無思慮に混雑した都会にいる不幸な人生から生れるツブヤキであろう。落葉松の秋の金色の針は絶品だが、春の山麓に夢のような烟となる微妙なエメラルドグリーツは更に幽雅である。コブシの白い花は万人の好むところだし、杏の花の香気も、シャネル五番どころではない。私は牧草にまじって青や淡黄の炎をつけたイヌタデのローソクが大好きだ。自然の方角にあまり顔をむけない友達がいたとしたら、そいつを連れていくのにいちばんいい季節は、早春がまだ帯のように流れている五月の山だ。街の喫茶店でコーヒー茶碗を前にして、彼に「自然」の解説をくりかえすよりその方が手取り早く、おまけに何もしやべらないで納得させることができるだろう。 |
下図:雲竜沼 岡本洋典 写真集 p-028 亜璃西社 1992年刊 |
上図:雲竜沼 岡本洋典 写真集 p-037 亜璃西社 1992年刊 |
晩秋の澄んだ空気を感じた朝は、近くの丘の上に散歩に行く。望遠鏡で山襞の一つ一つをたんねんに観察していると、いつまでもあきない。光の移動、雲の影などが、山もまた生きて表情を変えるものだと教えてくれる。そして何よりも深く感じながら意識の上では明確に言葉にできないのは、古い古い生命の記憶によみがえってくる懐しい想念である。ことごとく知悉していながら新鮮な、ある安らぎである。不安定な傾きの中で、水平な、また垂直な確定を感じる安心である。歴史という文明の経験の中に生きる教訓をさがすのは現代の流行であるが、そこに記載されているのは、いかなる強力な帝国も、富んだ国家組織も、社会制度も、かならず転覆し崩壊する事実である。文明は壮麗であろうがなかろが、滅亡する。しかし人類は、どんな社会組織にしばられても、けっして全面的には崩れない。人は人として自ら復元する力をもっている。それは文化的な動物だからではない。未開な自然を内部に精霊としてもっているからだと、小さな丘の上で私はおもっか。 |
下図:雲竜沼 岡本洋典 写真集 p-051 亜璃西社 1992年刊 |
辻 まこと(つじ まこと、本名:辻 一〈読みは同じ〉、1913年〈大正2年〉9月20日 - 1975年〈昭和50年〉12月19日)、は、日本の詩人、画家。山岳、スキーなどをテーマとした画文や文明批評的なイラストで知られる。日本におけるダダイスムの中心的人物で餓死した辻潤と、婦人解放運動家で甘粕事件で大杉栄とともに殺害された伊藤野枝を両親にもつ。生涯伊藤野枝と息子の辻一(まこと)。1915年頃。1913年、辻潤と伊藤野枝の長男として生まれる。なお、両親の戸籍上の婚姻は1915年、出生地は母親の郷里福岡県である。このころ、父の辻潤は翻訳出版『天才論』がベストセラー化しており、また母の伊藤野枝も雑誌『青鞜』の主力執筆編集者として活躍していた。1916年、母・野枝は大杉栄のもとに出奔し、1923年の関東大震災時の混乱下、大杉と共に軍部に惨殺される(甘粕事件)。辻まことは生活力に乏しい父親と放浪生活を共にすることもあった。その間静岡工業学校あるいは法政大学工業学校にも在籍したがいずれも中退している。静岡の中学時代の2年間は、父の友人であり元海軍予備中佐の飯森正芳家の厄介になり、このとき山に興味を持つ。飯森は秋山真之を大本教に引っ張り込んだという曲者で、海軍機関学校卒のエリート軍人だったが、殺人を業とする軍人という職業に疑問を抱き、駆逐艦の機関長時代に大正天皇即位記念の大観艦式で艦列を離脱したことで処分され除隊、大杉栄らとも交流したアナーキストだった。1928年(昭和3年)静岡工業学校中退後、父親に伴ってパリに滞在し、父の友人の武林無想庵と連れられて来ていた山本夏彦などを知る。無想庵と宮田文子(当時は武林姓)の娘、武林イヴォンヌも知る。パリでは読売新聞の松尾邦之助が面倒を見た。この時15歳のまことが著した辻潤とソ連の作家イリヤ・エレンブルグとの会見記「エレンブルグに会ふ」が雑誌『文学時代』に掲載されたりもしている。1929年(昭和4年)、父と共に帰国。村松正俊が同行し1932年(昭和7年)、辻潤が天狗になったと言って二階から飛び降り怪我をする。精神異常が顕著。オリオン社に入り絵描きの仕事をする。竹久夢二の息子・竹久不二彦らと登山をするようになる。 |