1話 |
冠松次郎 |
1883年(明治16年)~1970年(昭和45年) |
十 字 峡 |
冠松次郎 「山の旅」大正・昭和編 近藤信行編 p113-120抜粋 岩波書店 |
花崗岩の美しい岩の丘が、大きく六面体の櫓を築き上げている。その側面は袴の襞のように竪に浸蝕され、約八十度の角度で黒部の河身に乗り出している。その上は四坪ほどの平が二段になって灌木が茂り。上流も下流も暫くの間はひと眼で見通せる屈強の物見台、そこを中心として下ノ廊下核心部の、第一関の壮観が展開されているのだ。私はこの岩の丘を峡見ケ丘と名づけた。先刻から、僅か数十間の近くまで迫っても見ることができなかった劍沢の落口が、この岩の丘に上り、戸口のように固められた壁の扉の奥をのぞくようにして、初めてその水を見ることができた。劍沢落口の左岸は直立の青壁が、将棋のコマを立て並べたように削り立って、その上の斜面には黒檀の密林が蔽い茂っている。髪をふり乱したようなこの樹叢の姿は物凄い感を与えた。 |
黒部全流でこんなに黒檜の多く繁殖している所は他にはない。劍沢ほどの深刻な谷の蕗口、豪壮な黒部川下ノ廊下の第一関を飾るには。この幽凄な植物景観を必要とするの’であろう。落口の右岸は灰白色の円い壁が低く本流に乗り出し、その上をまた巨大な壁がrき上げられている。劍沢落口の水は、この狭く、ひしひしと固められた岩壁の中を、十間四方の釜を穿ち、葺の水は瀑布の強圧によって突き動かされ。間歇的に銚子口のような釜の出口から黒部の本流に躍り込んでいる。そこでは流れの輻は三米に過ぎない。釜に躍り込んでいる劍沢最下段の瀑布は、この丘からは見ることはできないが、右手の青壁の屏風の後ろから夥しい水煙りの吹き出しているのが見える。この水煙りこそは雄大な瀑布の潜在を示しているものだと思い、ひと眼でもそれを見たいと思ったが、今日はこの丘から一歩も先へ出られないので残念ながら明日の楽しみに残しておいた。 |
それにしても、劍沢も棒小風沢も、何という狭さを流れているのであろう。黒部の裂谷、その中で最も優れているこの二大支流の水は幅をもって横溢することができずに、深さと厚さとをもって堅岩を穿ち、即ち瀑布となって落下しているのだ。立山の別山東側から劍岳南面の水を集め。仙人山や黒部別山の落水を併せて、その峡間を貫流している劍沢は、たとえ黒部の廊下へ落ち込むにしても。それはよほどの谷幅をもっているものと思っていた。ミ棒小屋沢も同じように、鹿島槍岳、爺岳、岩小屋沢岳の尾根に達する、遠い擴い大斜面の水を集めてくるのだから、源流地に雪は少いとしても、あの幅の広い長大な渓の落口は相当の広さをもって黒部本流に合流していることと想像していた。しかしそれが予想に反して、劍沢落口の水幅は僅かに三米。棒小屋沢のものも同じく‘三米にすぎない。祖母谷川上流に比類のないこの二大支流の合流点が、こんなに狭く黒部本流を差し挟んで十字の廊下を形造ってい灸ということは、私たちに示された渓谷日本に於ける大いなる奇蹟でなくて何であろう。十字の断層線を穿ってつくられた十字峡。私たちはまだ地名のないこの景勝を「十字峡」と名づけた。 |
上図:黒部渓谷のシジミ谷付近、谷を埋める雪渓とボッカの人々。撮影年不詳。冠松次郎「黒部と槍」p-28 東京都写真美術館・2014年刊行 |
上図:「奥仙人谷の吊り橋」冠松次郎 撮影:1925年(大正14年)8月 冠松次郎。「黒部と槍」p-19 東京都写真美術館・2014年刊行 |
上図:剣の大滝を囲む大岩壁 冠松次郎 1926年(大正15)年6月撮影。翹沢の狹い深い廊下が、中央部ですばらしい断落を見せている。そこに大瀑布を懸けているものが剱の大滝二〇〇メートルである。この谷の両岸を直聳して、滝を囲んでいる数百メートルの山壁は、翼なきものの通うことを許さない絶瞼である。黒部本流を大体歩きつくした私は、支流の立派なものを次々に探って見た。そして最後にぶつかったのが剱沢であり剱の大滝である。出典:黒部と剣」P-43 |
上図:白龍渓 冠松次郎 1930(昭和5)年8月撮影。屏風の大岩壁は山頂から幾段にも菱形に断たれた尾根の突端が板状の大壁を成す流に彭んだ最後のものだ。而してその感じは寧ろ直線的の雄渾さにある。併し更に降って白竜渓の最も壮麗なる岩壁を見ると、そこでは岩は全く流水に擦蝕されて塊状岩の美しさを極度に発揮している。出典:「黒部と剣」P-22 |
上図:十字峡 志水哲也撮影 1999年10月 立山の別山及び剱岳東南面の水を併せて黒部川へ合流する剱谷は、鹿島槍岳、爺岳、岩小屋沢岳西面の水を集めて西流する棒小屋沢と共に、黒部本流を差し挟んで十字の廊下を形造っている。剱谷の落口は一条の瀑布を為し瀑壺を為す釜に奔下し更に黒部川へ、僅かに三メートル余の幅員を以て合し、棒小屋沢は四段の滝を連ね落口はニメートル余の奔川となって黒部川に躍人している。出典:「黒部と剣」P-12 |
上図:宇治長次郎 1925年(大正14年)9月撮影。出典:冠松次郎「黒部と槍」p-87 東京都写真美術館・2014年刊行。 宇治長次郎は越中上新川郡大山村和田の人。今や漸く老境に達しているが、日本北アルプス、殊に立山々脈、黒部渓谷に於ける第一のガイドであって、山を見ることの鋭敏、悪場に処する巧妙なる操作は、寧ろ天才に近く、その性格温厚、山人として尊敬すべき好漢である。 |
2話 |
冠松次郎 |
1883年(明治16年)~1970年(昭和45年) |
山人を語る |
冠松次郎 「山の旅」大正・昭和編 近藤信行編 p335-340抜粋 岩波書店 |
今日のやうに登山路が良くつけられ、小屋が多く建設され、道標、指導標などが至る處に建てられてゐる状態では、夏期の登山は、特に人跡稀薄の山地にコースを選ぶとか、岩登りをするやうな場合デイな限り、小屋から小屋へと登山路について行くのならば、山人の必要も少ないし、また山人達の非常の努力に待つと云ふ場合も少ない。併し日本アルプスの連山の、個々の名が判明せすその登山路も定まってゐなかった、昔と云うてもよい二三十年以前では、どうしてもその土地土地で、山を良く知ってゐる山人を伴はない限リ、登山や溯溪の目的を逹することが至難であった。 |
上図:左から:三枝威之介、中村清太郎、人夫頭遠山兵三郎。明治43年7月、後立山縦走。出典:「山の写真と写真家たち」p-23 杉本誠著、講談社刊、1985年 |
實際地圖らしい精密のもののなかった常時、未知の山や谷を跋渉するには、探檢と云ふやうな気分で入り、荊棘を拓き、激流を溯り、岩角を攣ぢ、しばしば意外なる景観に接して、驚異と歓喜に滿だされるやうな樂しい山旅。さうした山旅に附随して、私等の手足にたって働いてくれる山人の努力の賚は大したものであった。書間の登高に際してしも、天幕を營む休養の時にも、良い山人逵と旅を共にしたときの樂しみ、その思ひ出は永久に殘るものだ。山旅と山人、それによって私等は忘れ得ぬ様々な思ひ出を祕めてゐる。今日でも、冬山とか、岩登りの場合、登山者の技術に應じて、ある程度まで山人の協力を待つことは相営にあり得る。従って良い山人の特質、素朴、沈勇、機敏、熟練と云ふやうなものは、至る處で登山者の渇望するところとたる。 |
上図:左より・上條嘉門治・根本清蔵・ウェストン |
山人として最も有名なものは、神河内の上條嘉門治であったらう。穂高山下に庵を結んでゐた彼は、積雪期には山や谷に獵し、夏は梓川の谷に岩魚を漁って、その生活を營んでゐた。穂高の仙人として敬愛されてゐた彼は、私等登山者の爲には、自分の業を捨ててまで好意をよせ、一緒に山に入ってくれたものだ。夏、宮川の池を中心にして、カスミで岩魚を獲れぱ、當時でも私等の與へる日當の倍以上の牧入を得られるのに、先生方が山を研究する爲ならばと、進んで案内をしてくれた。大きくはないが、あのがっしりとした體躯、まかり間違っても登山者は勿論、自分の率いゐてゐる人夫逵の生命までも背負って立つと云ったやうな気慨のある頼母しさは、彼と山行を共にする度に感ぜらるる。 下図:上條嘉門治 |
上図:上廊下スゴウ沢落口上流を進む 1928年(昭和3年)8月 冠松次郎「黒部と槍」p-59 東京都写真美術館・2014年刊行 |
上図2点:小林喜作 牧の小林喜作は、今の喜作新道の開拓者で、山と共に生涯を終った良案内であった。私は彼と行を共にしたことはないが、立山の室堂で吉田晝伯の供をした彼を見た。黒部別山の様子などを聞かれたので、暫らくの間彼と話を交へた。年々積雪期に東谷や棒小屋澤に獵に入ってゐた彼が、鹿島槍ヶ岳の懷の、コヤウラ澤の小舎で、雪崩につかれて死んだのは有名な話であるが、息子と共に犬までも壓死したのは気の毒だことであった。大出の遠山品右衛門なども、嘉門治と恰度同じ時分、黒部川の「平」に小舎を預って、その上下流を可なり廣い範圍まで、岩魚を漁ってゐた。黒部をよく知ってゐた第一人者だった。併し彼は殆ど案内をしなかったやうだ。息子は皆優れた山人だったが、その中で一番達者な兵三郎は素行が惡しく、山案内も出来ず、近頃では黒部をさへ構へられたさうだ。ひとしきり彼はこの方面では唯一の猛者だった。 |
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上図:岩魚 出典:冠松次郎「黒部と槍」p-83 東京都写真美術館・2014年刊行 |
今では先輩の出た大出よりも、大町を中心とした登山案内者は盛んに養成されて末だ。これは對山館の百瀬愼太郎君の隠れたる努力に負ふところが多い。餘計な話のやうだが、夏の忙しい登山期になると、氏は人夫の斡旋で日々遉はれてゐる。併しそれについて何等の報酬を得てゐないぱかりか、却って相當の犠牲を払いつつある。此れは感謝すべきことだと思う。 |
下図:左から2人目:百瀬慎太郎:登山者と人夫 |
上図:登山隊と人夫の一行:右から5人目百瀬慎太郎 |
日本北アルプスの山地へ、最も早くから、そして最も多くの案内や人夫の入り込んだのは、信州方面では大町、越中方面では芦峅だ。大町にはこの間死んだ勝野玉作を頭に、傳刀林藏、黒岩直吉など、古参者で大町案内組合の開拓者だ。併し冬山とか、岩登りなどの盛んになった今日では、人気は寧ろ若い人達の方へ移ってゐる。古株の方は、どちらかと云へば樂な方へ、知れ切ってゐる行程の方へ立ち廻りたがる傾きがあるが、若い者の方は知らたい處、惡くとも立派な處を求めて行くと云ふ勇気と熱心とをもってゐる。學生の人達の問に好評のある櫻井一夫など、この方面の良案内で、可なり頑張る。冬山でも、谷の旅でも、始終にこにこして、いやな顏をしたい彼は、同件者として非常に気分がよい。 |
下図:左から2人目:黒岩直吉 |
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白馬山下の北城にも、大町にまけす古くから案内者は隨分ゐた。その中には白馬岳から祖母谷への道を拓き、後立山の峯伝ひを、不帰やキレ″卜の嶮を越えて、鹿島槍までの縱走路を拓いた者もゐた。併し今ではその古参者の總てが山へ入らなくたった。中年では鹽島鎰司などが中堅で、若手では丸山雌雄などが大町の櫻井一夫に准じてゐる。ここでも冬山が盛んな爲に、若い山人が望まれてゐる。有明では人気者の中山彦一が、惜しいことに常念でナダレにやられた。この方面では大和由松などが良い山男だらう。彼は針ノ木や乘鞍で、兎に角死線を游ぎ拔けただけ、經驗があるぽかりでなく、登山技能も相當だものだ。 |
下図5点:日本アルプス 登山案内のプロ集団 白馬山案内人組合 |
上高地では、何と云うても嘉門次の孫の、上條孫人が最も望まれてゐるやうだ。沮父に似て小柄な彼は、穂高を中心としては先づ申し分がない案内であらう。次に話は越中に飛ぶ。私は長い間越中の山地を歩いた。それ故越中の山人とは隨分なじみ深い。私と立山、劔、黒部方面に行を共にした。大山村の宇治長次郎のグループなど、最も親しみ深い山男達だ。 |
下図:上条孫人と祖母 |
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芦峅の佐伯平藏とも幾度か立山附近を歩いた。劔の平藏谷を降りたのも彼と共であった。これは登山家として最初にこの谷を下りたもので、平藏もこの時初めて平蔵谷を下りたのである。剱の早月尾根を、あてどもなく長大な尾根を辿り、人のまだ入らなかったその尾根筋から、剱の頭を極めた。その時には平蔵の義兄の佐伯軍造であった。平蔵も軍造も今日では大分老いたが、その時分には元気一杯で、十貫目位もある荷を脊負って、悪場を平気で突進する様は見てゐても頼母しかった。
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長次郎は立山、殊に剱方面に精通してゐた。陸地測量部の柴崎氏と共に、この方面は随分歩いた。剱の一角、一石屯そらんじてゐる彼は、芦峅の者が仲語として、主に立山本峯や淨土山、別山だどの樂だ地点を歩いてゐた時、剱岳、仙人山、黒部別山等の人跡未踏とされてゐた立山東面の秘境をしぼしぼ踏破してゐた。剱の平蔵谷なども、私と平蔵とが降りた前年、彼は既に下りてゐた。ハッ峯の名は彼がつけたのだし、大窓、小窓、三ノ窓附近も彼の足跡は遍かった。 |
下図:柴崎芳太郎 |
上図5点:(1907(明治40)年7月、陸軍陸地測量部の柴崎芳太郎(1876~1938)を測量官とする測量隊が三角点埋設を行うため剱岳山頂に挑んだ。難攻不落、人跡未踏とされた剱岳。100年前は山容すら伺い知れない未知の山とされ日本地図の空白地帯だ。明治40年、剱岳の頂きに立って測量を行う困難な仕事に挑んだ男達がいた。山頂には焚き火のあとがあり錆び付いた鉄剣と銅製の錫杖発見。 |
下図:「急造籠渡し作業」1930(昭和5年)8月・・・・位置は黒部別山谷落口上流の屏風岩(立山側)の対岸にして、昭和五年八月、岩小屋沢岳支脈より峻険を突破して下廊下の右岸を下りしとき、徒渉点は案外深くして渉ることを得ず。登山用ロープを二重にして対岸に渡し、急造カゴ渡しを架けたるときの光景。出典:冠松次郎「黒部と槍」p-27 東京都写真美術館・2014年刊行 |
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併しかほど立山の奥に精逋してゐた彼も、黒部だけは全く手をつけてゐたかった。彼が黒部へ入るやうになったのは、事實私等の仲間が黒部をかじり出す、その手足とたってからだ。それ故黒部の下廊下へ入った時には、人夫も登山者も、全く未知の秘境を、日数などの見込を立てずにさよったのである。常顯寺川の荒れ谷で、幼時から鍛え上げた彼等の勇敢な、巧妙な操作がなかったたらば、私は黒部を全流を通じて探勝し得ることは不可能であったらうと思ふ。峻嶮に處した人夫と仝き意味での協同動作に移る。ある場合には生命まで托し切ってしまふ。さう云ふ場合を重ねた山人逹と登山者とは、もう金銭のみで頼むやうな簡単な考へはたくたってしまふ。 |
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上図:宇治長次郎 私の今迄の経験では、平素饒舌で調子のよい者程、いざと云ふ場谷尻込したがるものだ。黙々として後からついて末た奢が、悪場にかかると却って卜ップを切る。長次郎なども口のごく少ない方だが、その彼が勇んで鼻歌を唄ひ出すやうにたると、自然美は本格的になる。自然は漸く深祕の扉を展げてくる。山相を判断することに優れてゐる彼は、自分が初めて歩いた屋根で、再遊した者に下り道を教へたり、全く領分違ひの甫の方の谷へ入って、土着の案内者よりも遙かによく上流の様子を判断したと云ふ話もある。彼が「行けんちあ!」と云ったが最後、十中の九そこは通れたい處だ。一縷の望みがある限り決して後へはひかぬ。岩壁にへばりついて、下から岩を押し上げるやうにして悪場をへつる彼は、ヤモリのやうだと云はれてゐる。彼と行を共にする者に野口松次郎、それから今は死んだ宮本金作、米谷長次郎等がゐた。皆壯者を凌ぐ猛者揃ひだった、若手では軽快な山本甚井がゐる。長次郎第二世とでも云へる男だ。于垣の青木長藏なども、六尺近い長躯で、七十貫位の物を拾ぐと云ふ強の者だが。皆篤實なよい山人達だ。兎に角悪場にぶつかる程、彼等の働きは冴えてくる。以上逑べた他に、飛騨側にも良い案内は相當ゐるし、黒部でも下流に谷に強い良案内はゐる。小川温泉の傍の山崎村には、黒薙川を探るのに缺くべからざる而も有名な者がゐる。兎に角山旅の件侶としての山人は、その好悪によって族行の興味を増減するものであるから、細心の注意を以て選擇したければならない。 |
下図:重荷を背負って黒部本流の側壁を進む人夫の一行・出典:冠松次郎「黒部と槍」p-28 東京都写真美術館・2014年刊行 |
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冠 松次郎(かんむり まつじろう、1883年〈明治16年〉2月4日 - 1970年〈昭和45年〉7月28日)は、日本の登山家であり、黒部峡谷の地域研究、山岳紀行文でも知られる。東京本郷生まれ.経歴1902年(明治35年)頃より登山を開始し、奥多摩、日光、富士山などの山を登った。日本アルプスの初登山は、1909年(明治42年)。1911年(明治44年)、白馬岳に登り、祖母谷を流れに沿って下り、初めて黒部峡谷に入る。その後、黒部の虜となり、本流を中心として支流・尾根を踏査し、秘境黒部の谷や山の全貌を明らかにした。1917年(大正6年)早月尾根より剱岳に登攀。1918年(大正7年)には、立山一ノ越より御山谷を下降した。1919年(大正8年)は赤石山脈の聖岳にある遠山川西沢を初下降する。1925年(大正14年)黒部下廊下を鐘釣より平まで完全遡行(上流登山)に成功する。その他にも、日本アルプスや奥秩父の渓谷の多くを遡行し、多くの探検記録や紀行文を書き、その魅力を広く紹介、登山の中に沢登りという日本独自の分野を開いた。「黒部の父」とも呼ばれる。1953年(昭和28年)、日本山岳会名誉会員。 |
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上図:藤田睦也 |
3話 |
ウォルター・ウェストン |
1861年(万延2年or文久元年)-1940年(昭和15年) |
ウォルター・ウェストン槍ヶ岳へ・1回目の挑戦・1912年(大正元年) |
「日本アルプス」ウォルター・ウェストン著・岡村清一訳 平凡社刊1995年 |
私たちは二〇八〇メートルの高度の所で初めて雪を見た。それからは植物が少なくなるにつれ、路はだんだん楽になった。というのは、乾いた地面に取り付けたからである。左手には、頭の上高く、穂高山の切り立った東の尾根がそびえ、その山腹の輝く雪渓には、頂上の峨々とした大岩から崩れ落ちたたくさんの岩の一斉射撃の跡が刻まれていた。万雷の轟きを立てて岩の滝壺へそそぐ美しい滝のかかった絶壁の下に達した時、ちょっとのあいだ、素瞶しいのぽりとなった。これをよじのぽると広々とした雪原のはしに着いた。その雪原は、荒涼としてしかも峨々とした峰々の円形をした山腹に、白い斜面となってかかっていた。しかしながら、また雨が降り出したので、天気ならいろいろの点から言って、日本のうちで一番素晴しい風景も、ほとんどすっかり隠れてしまい、まもなくびしよ濡れになった。私たちはともすれば滑りがちな雪の上をのぽり、それから右の方に進み、砕けた岩をはいのぽって、尾根の割れ目に達した。この屋根のかなたに「槍の峰」が隠れているのがいま分った。のぽりを続けるとともに、私たちの元気はますます旺盛で、まもなく痩せ尾根を越えると、遥か左に槍ヶ岳の鋭い峰が、雨のなかにぼんやり浮んでいるのが見えた。けれども、その峰はなんと恐ろしく遠いかなたに見えたことだろう、もう二時になったのに、まだまだたくさん歩かなければならなかった。鞍部の北側の雪の斜面を駆けおり、その斜面をふちどる五葉松の平たい塊のなかとかその上を押し進み、やがて岩の荒涼とした所にやって来た。その岩は、分解作用で砕けたり、上の絶壁から落ちたりしたもので、ひどく乱雑に散らばっていた。この荒涼とした所の真ん中に、奇妙な自然の洞穴を見つけた。それは岩が両方からお互いに寄り合ってできたもので、両側からはいれた。ここで私たちのリーダーは、本来の登山ルートにまた出会ったと言った。そこでこのことを祝うために、三人組の猟師たちは坐って煙草をふかし、それから米を煮ようとして松の枝を燃しかけた。しばらくのあいだは、彼らは明らかに動きそうにもなかった。 |
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上図:ヤン・サンセンバッハ(1928年-1998年) |
もう四時だった。風が洞穴にはげしく吹き込んで、私たちは濡れて寒かったが、ぐずついているのは賢明でないと感じた。案内人たちに前進するように言ってみたけれども、あっさり断られた。彼らはもう午後の時間も廻りすぎていると言った。「日が暮れてしまうでしょうし、それに最後の峰にのぽろうとなされば、その険しい岩は濡れているので、よじのぽれないでしょう」と言った。彼らはここで泊って、翌朝のぽり終えたほうがよいとほのめかした。しかし私たち二人はこの動議を否定した。彼らはそれ以上の提案をしようとはしなかったので、ベルチャーと私は、煙草をすい火を起している彼らを残して、二人だけで残りののぽりに着手した。けれども腹がすいていただけに、それは決して容易なことではなかった。持っていたわずかな食べ物は、明日まで私たちの生命を支えるのに取って置かなければならないことが分っていた。なぜなら、私たちの食料品を置いて来た横尾谷に長い時間のあいだ着けそうにないのは、全くはっきりしていたからである。そうではあったけれども、私たちは鋭い固い岩を四つん這いになってよじのぼった。底に鋲を打った長靴で踏んで行くこのなめらかで滑っこい岩の表面は、アルプスの氷河のあの骨のおれる堆石が想い出されて、いやな気分だった。けれども、もっと気持のよい想い出はイワカガミthe Alpine bell。 the Schizocodon soldanelloidesつまりSoldanella alpinaの日本産の類似種で、雪渓はその美しい花で囲まれていた。私たちののぼり路は、時々その雪渓を横切って進むのであった。この日本種のものは、西洋種のものよりもっと大きくもっと可愛らしかった。この花は低い緯度の所でも春早く咲くので、外国に較べて、もっと広い地帯に広かっているのである。 |
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上図:岩間に咲くイハカガミ、過っては登山道でよく見かけた光景 |
五時にはすでに最終の峰の南の肩にほとんど達していた。西に当って、険しい崖が蒲田川の谷間へ険阻に落ち込んでいるが、遠い展望は雲に遮られていた。私たちの目に映ることができたものは、いま通って来た物凄い雪渓のある石の荒原と、私たちが立っている狭い鋸歯状の痩せ尾根と、取り巻く霧を通して見える大きな尖った岩塔の低い部分だけだった。この尖った岩塔が槍ヶ岳にその表示的な名を与えているのである。峰を主として構成する角蛮斑岩のなめらかな岩板は濡れて滑りやすい時には最善の注意をしなければならなかったろうと思う。そのわけは、ちょっとでも滑ろうものなら、すぐ生命を失うことになるかもしれなかったからである。それで自然ゆっくりのぽらねばならないだろうと思った。とうとう私たちは痩せ尾根の不恰好な割れ目に着いた。それは「槍」を征服する前に通らねばならないものだった。私たちがそれを横切ることについて立ち止まって相談していたちょうどその時に、驚いたことには、甲走った叫び声が聞こえて来た。やがて霧のなかから私たちの「案内人頭」の興奮した顔が現われた。彼は苦しみもだえるばかりの口調で、私たちの企てを固執しないようにと願った。「旦那方は、あの上のほうの岩場にはとても近づけないことをご存知ないのです」と漠然と雲のなかを指さしながら抗議し、「今日のような天気にあの岩をのぽるなんて、全く乱暴な冒険です」と言った。猟師の言ったことは、充分割引して考えなければならないとは思ったものの、這いながらなお数メートル進んで行くうちに、自分かちの状態を考え直し、私たちは彼が手真似をして立っている下のほうへおりて行き、それから二人の若い人夫たちが今かと待ち構えていた洞穴へ帰ることにした。帰ってみると、彼らは持ってた米を煮て食べてしまっていたが、絶えることのない一服をなお続けていた。 |
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上図:槍ヶ岳の岩稜 出典:冠松次郎「黒部と槍」p-100 東京都写真美術館・2014年刊行 |
私たちが今おもに目ざすことは、その夜の「素敵な宿り場」が見つかると彼らが言っていた場所に、できるだけ早くおりて行くことだった。その宿り場は、私たちがのぽって来た谷間の西に並ぶ谷間に位し、前にのぽったパよアイが通ったルートにあった。六時少し前にその洞穴を立ち去って、全速力で岩の所や雪渓を急降した。というのは、行く手はまだ遠かったし、それに日没を向うにまわしての競争だったからである。雨は降っていたが、この滑降は面白かった。もっとも猟師たちは、こんな下山の方法には全く相応しくない草の靴をはいていたので、岩伝いにおりだほうがよいと思った。低い「這松」(五葉松が時々そう呼ばれる)に巣を作っているおとなしい雷鳥が、そのそばを私たちが通った時、隠れ家から物珍しそうにのぞいて、一体この見馴れない光景はなんのことかといぶかりながら、急いでひっこんで行った。一〇〇〇メートルかそこらのあいだ私たちの下降は急速だった。けれども山川に着いた時、進行は手間取って来た。そして、待ち焦がれていた目的地にびしよ濡れになって着いたのは、七時過ぎてからだった。人夫たちがその場所の魅力について熱心に説明したのを聞いた後だけに、実際の場所を素早く眺めわたし、案に相違しているのにいささか驚いた。私たちはホテルはもちろん、茶屋さえも望んではいなかった。実際、蒲団や食物があろうなどとも夢にも思っていなかった。事実として、この赤沢の岩小屋(赤い絶壁にある洞穴)は、長さハメートルくらい、高さ五メートルくらいの大岩の楔でできただけのもので、梓川の水源から二、三キロ川しもの左岸にあった。この川の向う岸に、広い露出した溝のような部分が、茂った松林のなかにあるが、これは春の雪崩の跡で、その白い斜面は、下のほうの高い樹間に見え隠れに輝いていた。岩の楔の一方のはしは、その蔭に結構宿を取れるくらいの角度に傾いていたが、地面は濡れており、もっとひどいことには、雨が上からぽとぽと落ちるのだった。しかしながら、夕闇が急に迫ってきたので、私たちの状態をできるだけよくしようと仕事にかかった。 |
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上図:赤沢岩小屋 |
粗朶や松の枝ですぐ快い焙を上げることに成功した。しかしベルチャーも私も、火の前で一枚一枚濡れ着をかわるがわる乾すのにどれほど手間どるかを、初めて体験したと二人で言い合った。とうとうこうして、身体の外部が充分に気持がよくなっだので、その時までに必要に迫られていた内部の要求が目覚めて来た。そのわけは、私たちは十時問以上も食事を取らなかったし、その日の骨おりはいつにないほどつらかったからである。食料袋の中身を調べると、ソーセージの小さい缶と、パンの小さい切れと、コウラーチョコレート(香りは全く土臭かったが)の一と切れと、危急の場合にもと携えてきたわずかのブランデーだった。嬉しかったのは、人夫たちが充分米を用意していたことと、彼らがチョコレートの粘土のような味をちっとも嫌がらなかったことである。食事が終ると、あたりは前よりもつと楽しい光景を呈し始め、どんなちょっとした冗談でも割れ返るばかりの騒ぎで持てはやされた。私たちはそれから床に就いた。言いかえれば、私たちはめいめい松の皮の平たい一とかけらを蒲団の代わりにしたのである。そしてベルチャーはもう一度カメラの箱を枕にしたが、私は一番柔かい手頃な岩の上に安らかに頭を置いた。猟師たちは火の三方のがわを占領したので、私とベルチャーは、一方のがわに我慢していなければならなかった。「松の皮の寝床に就く」や、ベルチャーも私も、ぐっすり寝込んだ。けれども三時間気持よく眠った後、私たちの位置が狭苦しいのを感じ、硬ばった手足を充分に伸ばしたくて、我慢できなくなった。しかし、私たち二人はとても変なふうにくっ付いていたので、足を伸ばすと、火のなかにはいるか、隣りの眠っている人の顔に突き当るのだった。そこで二人は妥協して、時々その場所を変えたり、いろいろに身を縮めなければならなかった、こんなふうにしてこの夜は明けて行った。日光がこの人里離れた谷間に差し込むやいなや、私たちは出発するばかりだった。しかし雨がひどく降っていたので、出発は四、五時間遅れた。いつも朝の食事や荷造りに使う時間は、この時は無用だった。そのわけは、私たちは料理するにも食料が少しもなく、荷造りするにも荷物が一つもなかったからである。しかしながら、大夫たちは持っていた米を私たちに少しばかり分けてくれた。やがて峡谷の上に浮ぶ一つの雲の狭い切れ問が開き始め、青空が現われ、雨がやんだので、私達はおり始めた。 |
上図:小川誠「暮れゆく槍ヶ岳」 小川誠写真集「槍ヶ岳」p-27 1999年/東京新聞出版局・刊行 |
4話 |
ウォルター・ウェストン |
1861年(万延2年or文久元年)-1940年(昭和15年) |
ウォルター・ウェストン槍ヶ岳へ・2回目の挑戦・1913年(大正2年) |
「日本アルプス」ウォルター・ウェストン著・岡村清一訳 平凡社刊1995年 |
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急な流れの川床から二時間たゆまずのぼって行くと、そこから「槍の峰」の岩塔が険しくそびえている尾根の狭い裂け目に着いた。それから北に向い、ベルチャーと私か去年引き返した地点をまもなくうまく通り過ぎた。なめらかで険しい岩板は、雨の時は危険だが、今はすっかり乾いており、都合のよい割れ目や突出部が、いたるところで足場や手がかりになった。二一〇ないし一五〇メートルのあいだ、痩せ尾根のはしに沿って歩き続けたが、上の部分は奇妙な螺旋状になっていてぐっと西に方向を変えなければならなかった。なお十数歩進むと、すべてのものは私たちの眼の下にあった。私たちはついに槍ヶ岳を征服したのである。私たちは、富士の英峰を除いては、この山岳帝国の全表面のうちで最も壮大な地点に立っているのである。この岩峰は、非常に硬くて風化されない角蛮状斑岩でできており、無数の薄い層の珪質岩帯が付いている。この珪土の帯は鋭い角度に傾斜していて、方々で曲ってもいる。この岩峰の高いのは岩が非常に堅いからであり、その鋸歯状の槍のような形は、この珪質岩帯によるのである。この山の高さは三〇九〇メートルである。本当の絶頂は長さ二三メートルの狭い平面で、東西に垂直した絶壁となってくだり、この上もなく雄大で印象的な景観が展開していた。 |
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上図:中村勝久 |
北に当って、峨々とした連峰の長い線が延びているが、これが越中の国と越後や信州の一部分とを分けている。この連峰の基部から放射状に延びている物凄い渓谷は、時々鹿や熊や羚羊などを追う猟師たちが知っているだけで、そのほかはほとんど知る者もない。西には蒲田川の谷間を横切って、笠岳が素晴しい登攀を約束している。その北の肩遥かかなだ、富山平野の向うには、輝く青海原が「大洋の数知れず輝くほほえみ」で、きらきらしている。 |
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上図:小川誠「3000mの夜明け」:小川誠写真集「槍ヶ岳」p-15 1999年/東京新聞出版局・刊行 |
さて、この山の「槍」になっているなめらかな岩盤をくだり、またその基部となっているぐらぐらの尖った岩をおりるには、ずいぶん用心が入り用たった。一度雪渓をおり始めると、進行が楽になり、夜の帳のおりだ六時半頃になって、「赤沢の岩小屋」に帰った。私たちは疲れていた。三十キロの凸凹の山道をのぼりくだりする十三時間のあいだ、ほとんど休憩もしないで歩き続けたからである。しかし登山が立派に成功したので、すっかり上機嫌になり、楽しく野営することができ、その上、今度は食料に欠くことは全くなかった。私たちは楔状の岩間の風蔭で、葉や羊歯をベッドにし、ショールを掛蒲団にし、カメラやリュックサックを枕にして、気持のよい一夜を過しか。頭の上にひろげた傘は、岩のはしにある割れ目から吹き込む寒い夜の微風をふせいでくれ、足の下には気持のよい火が燃えていたので、もうこれ以上何も望むことはなかった。 |
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翌日、橋場に何の差しさわりもなく無事到着した。五十キロの距離を歩くのに十二時間半かかったが、夜の闇が迫らないうちに「清水屋」に着くことができたのは、最後の四、五キロを全速力で歩いたおかげであった。この探検のあいだじゅう素晴しく働いてくれた猟師たちは、私だちよりほんの一時間くらい遅れて着いた。そして彼らがその骨折り仕事をやってくれたやり方は、どんなにほめてもほめ足りなかった。日曜日の休息は橋場で気持よくとっだが、月曜日には、松本平の蒸し暑さのなかに息もたえようとしていた。その時温度は、正午に室内で三二度を示していた。この暑さも近くに浅間の湯があるので、いささかつぐなわれた。これは町の東北の低い山の斜面に集った小さな村である。この温泉にやって来るお客で賑ってるさまざまな宿屋のどれにも、それぞれ内湯はあるが、梅の湯というのが、一番よくて一番大きい。ここでは一人一ペニー出せば共同風呂にいっしょにはいれるし、一人五ペンス出せば専用風呂にはいれる。この温泉の湯は、多少硫黄を含んでいるが、二十八にも及ぶいろいろな特殊な病気に効きめがあると書いてある。その効能の表は脳病に始まって中風に終っている。 |
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上図:1913年、大正2年8月ウェストン夫人撮影「槍ヶ岳坊主小屋で撮影」右からウェストン、猟師・山案内人の清蔵根本、上条嘉門治。出典:「山の写真と写真家たち」p-18、杉本誠著・講談社刊1985年、
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大正二年八月、一高山岳會(一高旅行部の前身)の登山隊は、創始者の一人である大木操氏に率いられられて、中房温泉から燕,常念、槍を經て上高地温泉へ投宿し、解散コンパを催した。駄菓子や煎餅などが出たと思ふが何しろ二昔も前の上高地だから向ふにあったものか、こちらから持って行ったものかはっきりしない。誠に粗末な御馳走で、その埋合はせと言ふわけでもなかったらうが随分賑やかに騷いだ。さうしてゐるうちに、まだそんなに遲くはない、多分九時前だったと記憶するが、突然障子の外の廊下に聲があって。「奥樣明日山へ登ります。皆さん山を愛します。靜かにして下さい。…」云々といふ人がある至極尤もな申込みに、一同一斎に首を縮めて鳴りをひそめた。宿の者にきいてみると、ウェストン氏夫妻が槍ヶ岳登山のため、嘉門治等を連れて翌日早朝温泉を出発すると言ふことであった。日本アルプス開拓者の一人、ウェストン氏の風貌に接するのは甚だ興味深いことである。翌朝、時刻をはからって河童橋の袂に待ち受けてゐると、ウェストン氏を先頭に夫人、従者及び嘉門治の一行がやって来た。大木君が早逹進み出て氏の寫眞を撮したいことを申出たところが、直ちに快諾、橋上に一行を指揮して並べ、自らはシャツの袖をまくり上げ腕を組んだと思ふと、ぐっと穂高の方を眺める姿勢をした西洋人は中々芝居氣がある。そのとき撮った寫眞がこれである。 |
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上図:左から ウェストン婦人 ウェストン 上条嘉門治 河童橋にて撮影:山口成一 |
ウェストン氏は登山靴の上に草鞋を穿いてゐた。夫人はスカートの下は二ッカーで、歩くときにはスカートをまくり上げる仕組になってゐる。寫眞を撮ると言ふので特に下ろしたやうに記憶してゐる。荷物は非常に嵩高なもので 一晩か二晩の露骨であとると言ふのに先行した嘉門治の末子他一名の背負ったものと、寫眞に見る通りも優に八、尢貫目を背負ってゐると言ってゐた。その朝の玄關にあった荷物にはカンバス張りの組立寢臺、日本風の蒲團と言ふやうにその時分としては可成贅澤をしてゐた。嘉門治の末子は何でも始めての槍ヶ岳登山とかで「富士山を見るのだ」と言って元気よく早く出掛けて行った。ウェストン氏も始めて夫人に日本心山を見せる爲めの登山であると言ふやうに記憶してゐる。古い骨董品のやうな寫眞を掲載すると言ふので、敢へて蛇足を加へた次第である。 |
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上図:ウェストン撮影「槍ヶ岳北東面の雪渓を行く1行」右から嘉門次、ウェストン夫人、清蔵。 出典:「山の写真と写真家たち」杉本誠 p18-19 講談社 1985年刊行 |
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ウォルター・ウェストン(Walter Weston, 1861年12月25日-1940年3月27日)は、イギリス人宣教師、登山家。英国山岳会、ロンドン日本協会、王立地理学会会員。日本山岳会名誉会員。日本に3度長期滞在し、日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを執筆、日本アルプスなどの山及び当時の日本の風習を世界中に紹介した。訪日の前後にはマッターホルンなどのアルプス山脈の山に登頂していた。ウォルター・ウェストンがイギリスから来日したのは明治21年(1888)、26歳の時である。宣教師としてやってきたものの、とりわけ彼の活動に目立ったものはない。というのも眼病の治療と称して、わずか2年ほどで辞任しているからである。マッターホルンの登頂など登山経験が豊富だった彼は、その後の活動を山行へと移す。明治23年(1890)に富士山へ登ると、それを足がかりに翌年には飛騨山脈、今日の日本アルプスへの第一歩を踏み出した。明治26年(1893)はウェストンの日本滞在中、最も精力的な登山行の年といえる。富士の積雪期登山を敢行し、夏には針ノ木峠、笠ヶ岳、前穂高岳を単独で登るという計画を立てていた。8月3日に横川の駅に降り立つと、針ノ木峠を踏破。笠ヶ岳は麓の住民の反対によって挫折したものの、次なる目標の前穂高岳に意欲を燃やしていた。ガイドとして上條嘉門次を紹介されたのは、まさにその時であった。当時といえばまだ地図がなく、山中に宿泊施設もなかった時代である。山に精通した案内人を雇うことが、登山活動に必須だった。とはいえ、登山案内人という職業があったわけではなく、登山者は山麓の村に住む猟夫に依頼し、かろうじて山を歩くような状況だった。その猟夫も熊やカモシカを狩るのが仕事で、系統的に山を歩いてはおらず、先導役に向かない場合も多かったという。 |
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上図:ウエストンが愛した徳本峠からの穂高の眺め。 出典:「黒部と槍」冠松次郎・穂刈三寿雄 P-127 東京都写真美術館刊 |
6話 |
大島 堅造 |
1909年(明治42年)- 1971年(昭和46年) |
ウェストン師を偲んで |
「山の古典と共に」 大島堅造 著 p90-94 図書出版社 1992年刊行 |
わが国のアルプス登山は、イギリスの宣教師ウォルター・ウェストン師によって開発された。もちろん、富士山・立山・木曽駒ヶ岳などは、古くから信仰のために登られていたが、近代的日本アルプスの登山は、ウェストン師によって手がつけられたのは周知のとおりだ。北アルプスに登る人は、槍の肩から北西を望むと、富士山のような美しい形をした三〇〇〇メートル近い高峰が目に入るであろう。欧州アルプスの知識のある人が、この笠ヶ岳を見逃すはずがない。ウェストン師はまずそれに登ることを試みた。しかし、里の人に妨げられて目的を達し得なかった。その記事は一八九四年、ロンドンで出版された著書”Mountaineering & Exploration in Japanese Alps"に詳しく説明してある。この著書に次いで出されたThe"Play-ground of Far East" は、その続編とみてよかろう。しかし、われわれの興味をそそるのは前者だ。同書の出版は一八九四年とあるから、明治二七年に当たり、日清戦争開始の年である。われわれが同書を見て度肝を抜かれるのは、その表装だ。ウェストン師が書中で説明しているところによると、それは「巴講」(白岩注;木曽御嶽信仰)のシンボルによるのだという。一見して興味の自ずと湧くのを覚える。ウェストン師は、さすがに常識をもって世界に鳴る英国人のことであるから、未知の高山にとびこむのでは、住民とトラブルを起こすのは必至とみたのであろう。山入りをする前に、東京地学協会のメンバーとなり、明治二七年六月匸一日付の証書を受けて持参した。それには会長大勲位能久親王と。幹事従三位勲二等渡辺洪基氏とが捺印している。これは一種のパッス・ポートのようなものだ。 |
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上図: 笠ヶ岳・6月・中尾峠から。「黒部と槍」冠松次郎・穂刈三寿雄 P-135 東京都写真美術館刊 |
ウェストン師は「日本アルプス」において、一八九三年の登山計画を説明している。その第一は笠ヶ岳の登攀、第二は針ノ木峠の破、第三は穂高登山であった。この三つの計画中、一番力を入れたのは笠ヶ岳である。それについては蒲田村民の妨害もあったが、猟師の援助を得て、とうとう目的を達した。著書では登山路を穴毛谷にとっている。この谷は、今日でもクリヤ谷とともに。笠頂上への登路になっているが、私は先年クリヤ谷ルートをとった。急峻ではあるが、秩父宮様が通られたため、ブッシュなどが苅り取られていて登りやすい。これに反して穴毛谷のほうは、下からみると滝などがあって、若い登山者でないと無理だと思った。 |
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上図:針ノ木岳・蓮華岳より、1943年9月。「田淵行男の世界」p-73 2005年、東京都写真美術館刊。 |
第二の針ノ木峠の登りは、格別困難ではなかったと思うが、著書では記事が簡単に片づけられている。峠から針ノ木谷を下りて黒部に達すると、今日でも釣橋(註・その後黒部ダム完成)でひやひやさせられるから、ウェストン師の時代には渡渉のほかはなかったと思う。しかし、著書にはそれに関する記事は見当たらない。 |
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上図:夏雲の流れと穂連峰、河童橋より、撮影:穂刈三寿雄、「黒部と槍」冠松次郎・穂刈三寿雄 P-120 東京都写真美術館刊 |
穂高についても同様だ。登ったことは確かだが、そのルートは明らかではない。これに反して、常念岳や木曽駒に登った記事が見える。いずれの場合でも上高地方面は嘉門次、他の地域はそれぞれの部落の猟師に案内してもらった。一八九三年といえば、明治二六年に該当する。日清戦争の始まった前年だ。書中にはウェストン師と行をともにしたイギリス人(ミルトン氏が嫩った写真がたくさん掲出されている。私か驚いたことは、当時ウェストン師は、今日と同じアイスーピッケルをもっていたことだ。それを二人の人夫にもたせて、同行の(ミルトン氏が撮った珍しい写真が興味をそそる。それによると、(ミルトン氏もピッケルを携えていたことがわかる。ウェストン師が行った日本アルプス登山のなかで、最高の願望は飛騨の笠ヶ岳に登ることであった。蒲田部落にはいって二度の登山を試みたが、住民の妨害によって失敗に帰した。しかしそこは英国人のことである。少々の失敗ぐらいで素志の貫徹を止めるものではない。一八九三年の登山計画もそれが中心で、ようやく里の人々との話合ができ、穴毛谷を登って笠ヶ岳の頂上をきわめることができた。ウェストン師はその著書においても古い英国の格言を引用し、「一度失敗したら二度試みよ」といっているくらいで、二度目の失敗にも懲りずに三度目でその宿願を達することができたのだ。 |
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上図出典:「画文集 山の声」辻まこと。P-58 1971年(昭和46年) 東京新聞出版局・刊行 かくいう私は、初めて槍に登った時、肩ノ小屋の庭から残雪に輝く富士山形の笠ヶ岳を仰ぎ見てウェストン師と同じように即座に登攀を決意した。その記事は本書の別章に書いてあるから一読を願いたい。笠ヶ岳の登山は、上述のとおり、蒲田の住民に妨げられて二度も失敗し、三度目にようやく成功した。しかしウェストン師は、蒲田以外は行く先々で猟師や村長などに親切に世話された。信州のある村落では、村長の家に宿泊したところ、家人がわざわざ風呂をたてて好遇してくれたという。その写真も書中に出ている。笠ヶ岳登りで蒲田村民の妨害を一度ならず受けたのは、山の神聖が外人によって害されるというにあったので、ウェストン師も別に意に介しなかったようだ。この種の出来事は他の国にもよくあることだ。私はウェストン師と文通していて、署名入りの写真も頂戴した。それは東京の日本山岳会本部に寄贈したが、今でも会議室に飾ってあることと思う。私はウェストン師に登られた北アルプスの登山地図をI揃い贈った。これは往年の日本アルプスの山旅の、偲び草となったことを信じて疑わぬ。 |
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大島堅造は、日本の実業家。住友銀行取締役、経済評論家。来歴・人物群馬県太田市出身。東京府立一中を経て、明治42年(1909年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。住友銀行入行、外国為替畑を歩いてニューヨーク支店次席、本店外国課長、本店支配人常務、専務を経て、昭和18年(1943年)から昭和22年(1947年)まで本社監事。昭和19年(1944年)まで取締役、昭和20年(1945年)まで監査役を務めた。戦後は甲南大学教授、為替審議会委員など歴任。また国際経済評論家としても活躍した。財閥解体:大島堅造は、昭和20年(1945年)の敗戦による財閥解体において、大内兵衛、田村幸策とともにGHQの非公式顧問として、住友財閥解体を見届ける。 |
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上図:田淵行男「くれ行く槍 常念岳より」1973年10月 出典:「田淵行男の世界」p-145 ・2005年・東京都写真美術館・2014年刊行
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上図:「早春の槍ヶ岳、燕岳より」冠松次郎「黒部と槍」p-109 東京都写真美術館・2014年刊行
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7話 |
松方三郎 |
1899年(明治32年)- 1973年(昭和48年) |
喜作の場合 |
「アルプス記」 松方三郎 p244-247 昭和12年3月 平凡社刊 |
羚羊(カモシカ)というものは山に置いてあるんだ、というのが喜作の説であった。だからいつでも鉄砲を担いで山に入りさえすれば、好きなだけの羚羊がとれるというのである。喜作にとってはその羚羊をとって来るのは、例えてみれば、裏の畑に大根をとりに行くといったようなものであったらしい。実際そのぐらい羚羊狩にかけては達人だったのである。神河内の嘉門治去り、黒部の品右衛門亡きのち、信州から飛騨越中と三国を股にかけて、縦横に駆回っていた猟師は数えるほどしかなかったが、喜作はその中での第一人者であった。本当の猟師は一升飯を食わなくちや駄目だといわれたものだが、一度熊の足跡でも見つけたが最後、二日でも三日でもその跡をひたむきに追いかけなければならないのだから、飯は食べられる時に三度分ぐらい一度にかきこんでおく必要があるのである。喜作はこんな伝来の型の、色々な意味で典型的な猟師であった。綿入れの仕事着を着た上に羚羊の生皮を剥いだやつを一皮着込んで、手には羚羊の足首の皮で造った手袋をはめ、足は足で同じ足首製の靴をはき、それにかんじきをつけて、鳶口片手に雪の山から山へと風のように駆けめぐるのである。もっとも彼らといえども泊る小屋が全然ないわけじゃない。例えば雲の平の先だとか、千丈の奧だとかにささやかな手製のかけ小屋があるにはある。 |
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ただそれは自分達が寝る所というよりは、むしろ米や獲物の貯蔵所といった方がいいくらいの貧弱なもので、一度出陣してしまえば、それから先は星空の下に寝るのか、吹雪に叩かれながら凍えて過すのか、見当はつかないのである。しかし道づれの赤犬の一つを足の先に寝かせて、一つを頭のところに枕代りに据えて寝てさえすれば、「なあに結構暖いものさ」というのである。こんなに雪の山に馴染んでしまってみると、恐らく夏の山などはやたらにカラカラで煩瑣に耐えないという気がするに相違ない。喜作はあまり夏の山を案内したなどという話を聞かないが、雪がとけてしまった上に羚羊も撃てない夏山など、おかしくて歩けないというのであったかも知れない。だから喜作に案内などを頼むと、その頃では法外な案内料を払わされたものだ。嘉門治もこの点では別格組の一人だったが、一山につき羚羊何頭と胸算用できめてかかる連中なのだから、このぐらいの貢納金は致し方ない。 |
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上図:小林喜作 |
嘉門治の場合は一日の岩魚のとれ高が標準であつたそうだ。大天井から槍に抜ける尾根伝いの道を「喜作新道」と呼んでいる。里から島川に入って槍へ抜ける最短距離として彼が愛用したルートであるが、「銀座通り」などといわれる燕・大天井の尾根道などは、喜作にとっては本当の意味での銀座通りであった。つまり、晩飯を殺生の小屋ですませ、一服やったあとで提灯をぶらさげて、聯硝までその晩のうちに飛ばしてしまうのである。夏の夕涼みに銀座へ流れてくるその気楽さで、また実際それほど容易に、あの尾根を飛ばすのである。「銀座通り」と名だけはつけても、汗を拭き拭き歩いたり、彭紗じりの夕立に凍えたりす Jるようでは喜作に対してもまったく申しわけない次第だ。そんな喜作も最期は後立山の棒小屋で春の雪崩にやられて、親子ともども敢えなくなってしまった。嘉門治は随分殺生をしたから今更食べ物が喉を通らなくても致し方ない、と言って死んだそうだが、喜作も雪崩の下敷になった時はそんなことを考えなかったとも限らない。いかにも悲惨な最期ではあったが、喜作の生涯や気性から考えてみれば、熊もとれず、羚羊撃ちも御法度で貧乏して死んだとか、神河内行遊覧バスに跳飛ばされて最期を遂げたとかいうよりは、遥かにふさわしい最期であるような気がする。 |
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上図:槍ヶ岳殺生小屋にて、中央は小林喜作 |
死んでから何年になろうか、ともあれ山案内がルックサックを担いだり、ピッケルを持ったりする以前のことである。喜作だけではない、熊や羚羊を追いまくって雪の峰から峰へと駆歩いていた、こんな連中の、冬の山に対しての馴染み方は到底我々の想像もつかないものであった。恋人に会うためには一晩のうちに十里の山も飛ばすという、ものの話にあるあのアイヌと同格なのである。アイヌも雪の山で日が暮れると、雪の上で焚火をして、その跡に寝てしまうのだそうだ。このくらいでなければ、いかに飛道具があったにしたところで、熊や羚羊を追う生活はできまい。 |
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極地天幕が考案されたり、スキーが発達したりして、我々は昔に比べて大分容易に冬の山に入って行けるような状態にあることは事実だろうが、それと反比例して、冬の山に自力で適応していく能力の方は、段々退化していくのではないだろうかという心配も無いとはいえない。昨年のエヴェレスト登攀の報告を読むと、依然として十五年来の酸素吸入器の問題が真面目に取上げられて、英国でも一流の学者、登山家達が一様に頭をひねっているのである。同じく人間の馴致性の限度の問題なのであるが、こんなことを考えていたら、何となく喜作のことを思い出したわけなのである。 |
8話 |
松方三郎 |
1899年(明治32年)- 1973年(昭和48年) |
ウェストンと寺田博士 |
「アルプス記」 松方三郎 p240-242 昭和12年3月 平凡社刊 |
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『寺田寅彦全集』(文学篇)の第一巻にウェストンさんのことが出ていると注意されて、みるとなるほど「先生への通信」という一節の中に、二十八年前のウェストンさんが登場している。この「通信」は一度『薮柑子集』に纏められているのだから読んでいない筈はないのだが、その頃の自分ががむしやら一方で、日本山岳会員の末席を汚しながら、日本アルプスの歴史はおろか、日本山岳会の成立ちにも通ぜず、「ウェストン」などという名前も上の空で読み過ごしていたのであろう。寺田さんの欧州旅行記のあちこちはかなりはっきり覚えているのに、問題のシャモニーの一節は綺麗に忘れていたのである。だからそれから三年経って、ほんもののウェストンさんに対面しても、寺田さんの文章を思い起すわけでもなく、遂に寺田さん亡き今日に及んでしまったのである。 |
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上図:Chamonix station et Glacier des Bossons1890 |
ウェストンさんの登場する下りを引用すると次の通りである。滑らない用心に靴の上へ靴下を穿いて、一人で氷河を渡りました。好い心持でした。氷河の向側はモーヴェーパーといふ嶮路で、高山植物が山の間に花を綴り、処々に滝があります。此処から谷へ下りる途中に小さなタヴァンといった様な家の前を通ったら、後から一人追っかけて来て、お前は日本人ではないかと訊きますから、然うだと答へたら私は英人でウェストンと云ふものだが、日本には八年間も居てあらゆる高山へ登り、富士へは六回登ったことがあると話しました。其細君は宿屋の前の草原で靴下を編んで居ました、問題の氷河は明らかにメールードウーグラスで、寺田さんはモンタンヴェールからドリューの氷河を横断して、アルジャンティエール寄りにシャモニーの谷に下りたのである。 |
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上図:メールードウーグラス J.M.W.ターナー(イギリス人 1775-1851) |
靴の上に靴下をはくのは今日でもよくやる手だが、氷河の上の独り歩きが「好い心持」であったとあるだけで、谷の正面に聳えるジョラスも出てこなければ、ジャルモもドリューも出てこないのはちょっと注意を引く。しかし寺田さんは、スイスでは天気運が悪かったのに比べて、シャモニーでは天気で面白かったと書いているのだし、ことに日頃モンタンヅエールに巣を食って旅の者にたかることを、これこととしている与太案内や、日暮方にアルヴの谷をシャモニーの町へ帰って行く途中の牧場などについてはごく短くはあるが、一流の筆を振っているのであるから、メールードウーグラスから見た、あの古典的風景についても一行でも二行でもの叙述があったならばというような気がしないでもない。ウェストンさん夫妻の一節はまことにその面目躍如たるものがある。 |
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上図:トーマス・モラン (アメリカ人、1837-1926) |
今でももし誰か日本人が、スイスの山の中などでウェストンさんとすれ違ったならば呼び止められることは請合いだ。ウェストンさんの心の中からは日本と、日本の山を愛する人々とはいつも忘れられたことがないからだ。今日では日本アルプス開拓時代の事情も大方明らかにされているし、ウェストンさんの著書の邦訳すらも出ている。「ウェストンだ」と名乗られて寺田さんのようにそのまま異様な英国人だといったぐらいで通り過ぎてしまう人は恐らく少い。しかし話は遠い明治時代の、ほとんど三十年も前のことだ。「ウェストン」と聞いてピッとくる人は指折り数えるほどであったろう。ウェストンさんの方でしきりに日本の山に対する愛着の情を披瀝したにもかかわらず、寺田さんの方には一向反応がなかったらしいことが文章の上から察せられるが、久し振りで日本人にめぐり合いながら日本の山について存分に語り合えなかつたことは、ウェストンさんにとっては大きな不満であったに相違ない。同時にまた、その人が寺田さんであったことをウェストンさんが知らずに過ぎてしまったことも、何となく惜しい気がしないでもない。 |
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上図:ハンス・ライファーシャイト(1901-1982) |
宿屋の前の草原で靴下を編んでいるウェストン夫人は、夏が来るごとに、キーンクールあたりに避暑をしながら宿屋の前で貧民病院の患者や、孤児院の子供達のための編物に日を送るといったふうの、スイスやフランスの山の中でよく出会う英国婦人の一典型-顔は相当太陽にやかれて赤く、白粉などはさきの世に置忘れたといったふうで、つくづく話してるうちに、どうしてなかなか山に詳しく、相手の方がたじたじになるといったふうの型である。日本人が通りかかるのを見かけたのは恐らくウェストン夫人であろう。ウェストンさんは眼が悪いから。「ウォルター、あそこに行く人は日本人じやないかしら」といったふうの夫人の言葉で、ウェストンさんが押取刀で飛上って追駆けた具合が、あの文章を読むと眼に浮ぶ。ウェストンさんは去年のクリスマスにその七十五回目の誕生日を迎えたのだから今年は日本式の数え年七十七、喜の字の祝に相当する。我らの大先輩であり、日本山岳会の名誉会員である氏のために健在をひたすら祈る次第である。 (昭和12年1月) |
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松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は日本の登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長。従三位勲一等瑞宝章。松方家第3代当主。本名は義三郎[1]。筆名として後藤 信夫(G.N.)など。日本の登山界の草分けの一人で、キスリング・ザックを日本に紹介し、その名称を定着させた人物でもある。父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣の松方正義。兄は川崎造船所(現・川崎重工)、川崎汽船、国際汽船などの社長を務めた松方幸次郎(幸次郎は三男、義三郎は十五男の末子である)。系譜松方家松方家は12世紀に島津家に従って東国からやってきた家であり、17世紀に松方和泉守が15歳で主命を受けて長崎に鉄砲製造の術を研究に行って以来、鉄砲製造を監督指導して禄を食んできた。七右衛門は30代目の当主である。郷士の家に生まれ商業に従事していた松田正恭は、藩士松方七右衛門に見込まれ養子となり七右衛門が没した1818年、松方家の家督を相続し、名を改め以来、“松方正恭”と名乗った。正義は非常に子沢山(13男11女の24人という)で、ある日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。正作の妻・繁子は三菱財閥の第2代総帥・岩崎弥之助の長女なので、松方家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係を結んだといえる。なお、松方一族は現在数百人の会員からなる「海東会」という一族会を形成している。 |
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上図:吉村卓志 |
9話 |
武田久吉 |
1882年(明治16年)~ 1972年(昭和16年) |
武田久吉の1905年~1927年・尾瀬探訪記の解説「近藤信行」 |
「山の名著」知の系譜 p70~72 2009年 自由国民社刊 |
植物学者の眼と自然を愛する情熱の記念碑的作品 |
明治三八年、著者二二歳の夏、尾瀬ヶ原、尾瀬沼を一巡し、高山植物、景色美を詳細に報告した本書は、日本初の尾瀬紀行報告から昭和二年にかけての記録である。このときすでに、壊されてゆく自然と、そこなわれてゆく景観を著者はいち早く警告している。日本の自然保護への意識と視点がここからはじまる。 水力発電計画とか道路横断を止めた恩人 |
明治三八年の夏、日光の金精峠をこえて、丸沼、戸倉を経、鳩侍峠をこえて、はじめて尾瀬にはいった武旧久吉は、「尾瀬紀行」(『山岳』第一年第一号、明治三九年四月)に次のように書いている。「尾瀬ヶ原の一部は今我が眼の前に展開されたり、ミヅゴケのじくじくと湿りたる処にコミヤマリッダウの紫の唇綻ばせて、天を仰いで笑をもたらせる、此の世のものと思われず、……三四尺に余れる草の間をふみわけて行けば、行く手には燧ケ岳の巍然として雲表に聳えたるが、其の裾まで一望尽くミヅゴケの原にて、其の間には川あり、湖あり、沼あり、林あり、これぞ尾瀬ヶ原の主部にて、紅白紫黄の花すき間もなく咲きっづき、中には北海道の外内地にては他になきものあり。 下図:コミヤマリンドウ |
武田は早田文蔵の「南会津並二其ノ附近ノ植物」という論文に触発されて尾瀬探索行を試みたのだが、この「自然の楽園」を発見したときの驚きとよろこびは「此の世のものとは思われず」という表現から察することができる。『尾瀬と鬼怒沼』(昭和五年、梓書房)にはこの「尾瀬紀行」を基に口語文の新稿とした「初めて尾瀬を訪ふ」のほか「尾瀬と鬼怒沼」「尾瀬再探記」「春の尾瀬」「秋の尾瀬」、そして館脇操の筆になる「尾瀬をめぐりて」がおさめられている。尾瀬の最初の紹介者であり学術研究と景観保護につくしてきた武田のこの著作には、尾瀬にかんする記念碑的な意味あいがこめられている。序文に「今から四分の一世紀程前に、尾瀬の片鱗を紹介する最初の機会を有したが、今またその真価を広く世に伝える好機を得た」とあるが、刊行が遅きに失したことがあるにせよ、尾瀬およびその周辺に関する基本的な文献としてはまず第一にあげなければならない。尾瀬は永遠に清く美しく。「尾瀬再探記」は大正十三年七月の紀行であり、「春の尾瀬」は昭和二年六月の、「秋の尾瀬」は同年九月から十月にかけての訪問記である。最初の尾瀬行からかなりの時間的空白のあるのは、著者の英国留学その他のことがあったからだが、植物学者の眼で、尾瀬の生態をあらためてみつめなおし、燧ヶ岳、至仏山、会津駒ヶ岳、景鶴山などに登って、この山域の自然景観のすばらしさを情熱的に語っている。 |
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上図:砂漠渓 |
「尾瀬と鬼怒沼」の章では、破壊されてゆく自然、そこなわれてゆく景観のありさまを憂えている。道がひらけ、交通が発達し、「日本の高山と深谷とは開けて行く、これ時代の有難さの一端」としながらも、「尾瀬に遊ぶ人は特にこの地の自然を破壊しないように深く注意をしてほしい。火を大切にすることは勿論であるが、紙片や空箱などを路傍に棄てたり、無暗と樹枝を折り又は草むしることは厳重に遠慮せられ度い。」「尾瀬は永遠に清く美しく保ち度い。」と書いている。水力発電計画とか道路問題などで、尾瀬はさまざまにゆれうごいてきたが、開発から守り得たのは武田をはじめとする人々の尽力があったからだ。その点、『尾瀬と鬼怒沼』は日本の自然保護運動の烽火であった。本書には明治三八年から昭和二年にかけての四回にわたった尾瀬紀行がまとめられたわけだが、百葉の写真(巻頭一葉、巻末九九葉)と著書の補正になる地図がくわえられている。ことに、かずかずの写真からは、往時の尾瀬と槓物の生態を知ることができる。 「近藤信行」 |
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上図:武田久吉博士の書籍より 下図:砂漠渓 |
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10話 |
武田久吉 |
1882年(明治16年)~ 1972年(昭和16年) |
本沢温泉とマルメロ |
山 第2巻 第2号 p83~p91抜粋 昭和28年刊 梓書房 |
八ヶ嶽登山者と馴染の深い本沢温泉が、昨年十月の、半ば晩秋の山風が粉雪を木々の梢にサラサラと撒く頃、火を失して全焼してしまったと聞く。本深温泉は何年頃から開かれたものか知らないが、明治以前からあったものであらう。渓間から湧出する鑛泉は數種あり、その中三つ、即ち本深、北洋、鹿之湯が浴用とされてゐた。何れも温度は低く、四十度以下であるから、幾分温度を加へて入浴したらしい。療養本位で、この山麓の諸温泉同樣、遠近から浴客が集まり、昔は恐らく自炊式であったことであらう。この温泉が、八ヶ嶽登山の根據地として、遠来の客を迎へたのは、明治十二年の事で、R W. Atkinson氏を以て嚆矢とするらしい。その後二十除年を經て日本山岳會發起人の一人である故城敷馬氏が、明治三十四年の秋、松原、澁湯xxxxxxxxxxxxxxxっん(稲子)を經て本津迄の踏査を試み、翌年七月硫黄岳に登り、更に足を伸ばして横岳の北端に逵したのが、近代の八ッ嶽登山にこの道を選ぶことの直接の動機となったのであって、私と、同じく山岳會の發起人の河田默君とが、城氏の足跡を辿って、終に赤岳を極めたのは、翌明治三十六年七月二十七日の事であった。
下図:本澤温泉の野天風呂 |
尤も八ヶ嶽登山は、明治三十年八月に、現信濃山岳會長矢鐸米三郎氏が行者小屋を經て赤岳に逵して以来。長野師範の人人は再三この蓮峯の探檢に努力し(主として植物採集の目的で)。或は直接赤岳に登って山頂に野臥したり、又は本鐸温泉を經て登山を試みた人もあったらしいが、その詳細は知る由もない。その他故山崎直方博士も、明治二十九年頃、八ッ嶽火山の調査に當って、本鐸を訪はれたことは必然である。明治三十五年には、城敷馬氏のみでなく、その頃の山草界の第一人者であった故松平康民子爵も本沢を訪はれた樣に記憶する。それでいぶせき二階建のこの温泉宿も、東京の客人を迎へて大いに裂匱する目的から、三十六年には索晴らした平家建を、旧屋の上手に新築したものである。立てば屋根裏に手の屈く許りの旧家屋とは全く別の様式で、天井を思ひ切って高くし、釣壁の高さが六尺もあらうといふ建築である。その新座敷の未完成のところへ招じられたのが我々兩人。繖の雨戸が十分には閉てることが出来ず、この天井の高い寒冷なそして濕っぽい室に、消え勝な炭火を擁して。胴震いをしてゐた事を思ひいたすと、全く今昔の感を深うせざるを得ない。客室は斯くの通り、叉浴室は不潔で足を踏み入れる氣にもなれず、更にまた、食膳に上るものは到底美味と稱するには遙に距離のある品物許りであったその當時、殊に山村の粗貪には餘り慣れてゐなかった我々は、相常の困苦を味はったものである。加えて二人共に、腸カタルを發し、登山の勞苦も加はって、牛死牛生と形容してもよい饋裁で、下山したのも、寔に笑止な話である。その本沢滞在中、唯一つ口舌に上して佳品と認めたのは、吾々には未見の果物の一種で、輪切りにして皿に盛られた處は、一見梨の如くでもあり、水気こそなく、硬質ではあったが、甘酸宜しきを得てゐだので、これ丈は最後の一片を餘さず口に入れたのである。そして、これは晞詰のクワリンであることを、宿の者に聞かされて、物珍らしく感じたのであった。その翌月。単身東駒に登る爲めに。甲州臺ヶ原に宿った時、この缶詰を手に入れ、歸京して開いて見ると、例の崘切れの果實が、丁度梨や桃の孅詰のやうに、なみなみと盛られた甘酸っぱい汁の中から現れた。これによって思ふに、本鐸温泉では。その甘い汁を悉く宿の者が吸ってしまひ、バサバサした果實だけを客に供した訳で、如何にも本澤式な手口である。 下図:マルメロの果実と花 |
なを、かのクワリンであるが、これはその後諏訪を訪ふに及んで、多く湖畔に近い濕地に栽培され、果實は生食に向かないので、主として隍詰にされることを知ったが、それと共に、これは本當のクァリソではなくて、マルメロであり、叉正真正銘のクワリンも信州に稀には植ゑてはあるが、その方は逆に、マルメロと呼ばれることを知て、あの教育に熱心な國としては、誠にに不可思議なことだと、私に思ってゐる。・・・處で、マルメロの方は、東洋には自生することなく、叉支那には植ゑられてもゐないらしい。従って普通に用ひる橿悖なる漢名は、これに充つ可きものではないかと思はれる。されば、それが我が國に渡来したのも、恐らくオランダ人の手によって、長崎に齎らされたものではあるまいか(寛永十一年長崎に来るといふ記録がある)。そしてその名も、ポルトガル語Marmeloをそのまま使用してゐる點も、渡来の經路を物語るやうに考へられる。 下図:花梨 |
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武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年(明治16年)3月2日 - 1972年(昭和47年)6月7日)は、日本の植物学者、登山家。略歴東京府出身。イギリスの外交官アーネスト・サトウと日本人の武田兼との間に生まれた次男。1901年に府立一中を卒業し、東京外国語学校で語学を学ぶ。1910年にイギリスに留学、キューガーデンで植物学の研究を始める。1913年に帰国、1915年に再び渡英し、バーミンガム大学で研究し、1916年に色丹島の植物の研究で東京帝国大学より理学博士の学位を授与される。1916年京都大学臨湖実験所講師、1920年北海道大学講師、1928年から1939年まで京都大学の講師を務めた。1905年(明治38年)に日本山岳会を創立し、のちに同会の第6代会長を務めた。また、初代日本山岳協会会長、日本自然保護協会会長を歴任した。1970年(昭和45年)に秩父宮記念学術賞を受賞する。1972年6月7日、死去した。89歳没。墓所は日光市浄光寺。千代田区富士見2丁目の武田邸跡は法政大学に買収され、80年館(図書館・研究室棟)が建てられた。各地の山を登り高山植物の研究を行い、尾瀬の保護に努めたことから「尾瀬の父」と呼ばれている。 |
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11話 |
川口慧海 |
1866年(慶応2年)~1945年(昭和20年) 1回目のチベット旅行記(1899年-1902年) |
西蔵旅行記(抄)第17回 西臓国境に入る |
「山の旅」明治・大正編 近藤信行編 p107-120抜粋 岩波書店 |
西蔵国境の高雪峰を踰えねばならぬ私は荷持に対し「私はこれからドーラギリーの山中に在る桃源郷に行かなければならぬ、だから「お前は帰ってくれろ」といったところが荷持は一緒に帰ることと思い、私が外ドーラギリーヘ行くと聞いて吃驚愕き「ソレはいけません、あンな処へは仏様か菩薩でなければ行けやしません、貴方もソウいうお方か知りません、彼処へは昔から一人か二人しか行ッた者がないという話です、恐ろしい処だそうですから行けば必ず死ンでしまいます、ソウでなくとも桃源郷の外を守ッておる猛獣のために喰われてしまいますからお止しなさい」といッて親切に止めてくれましたけれども私の目的は其処に在るのだからとていろいろといい聞けますと彼は涙を流しながら立去りました。私はその朔日の朝彼の去るのを影の見えなくなるまで見届けましてソレから八貫匁ばかりの荷物を脊負い桃源郷には進まずに予て聞いてあります北方の山の間へ進ンで参りました、これからは実に言語に尽し難いほど困難を極めたけれども山はそれほど厳しくなかッたです、突兀たる岩などは誠に少なかッたから割合に安楽でありましたけれども何分雪の中ばかり一人で進ンで行くのですから堪らない、夜は雪の中へ寝た事もありまた幸に岩影でもありますと其処へ泊り込むことにしてただ磁石を便りに予て聞いてある山の形を見ては段々北へ北へと進ンで行きましたが聞いた通り少しも違わず荷持と別れてから三日路を経てドーラギリーの北方の雪峰を蹈破しいよいよ西蔵とネパールの国境たる高き雪山の頂上に到達することが出来ました。 |
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上図出典:NOMADS OF WESTERN TIBET SERINDIA PUBLICATIONS Putner,London P-30 |
(下図:川口慧海がチベット入境の目標としたダウラギリ峰 出典:「ヒマラヤ」p-108 毎日新聞社) |
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西蔵国境無限の感想:此処は即ちネパールの国端れで西蔵の国の始まりという絶頂です、ソココデ1番に遣らにならにゃあならぬ事は自分の背負ッておる荷物を卸す事ですがソレはちょつと何処へでも卸すという訳にはいかぬ、その辺は一面の積雪で埋ッておりますから……デ都合の好い石のあるような処を見付けて其処の雪を払ッて先ずその処に荷物を卸しヤレヤレと其処で先ず一息して南の方を眺めますとドーラギリーの高雪峰が雲際高く虚空に聳えておる。高山雪路の長旅苦しい中にも遥に北を眺めて見ると西蔵高原の山々が波を打″だ如くに見えておるです、その間には蜿蜒たる河が幾筋か流れておりましてその由ッて来る所を知らずまたその去る所をも見ることが出来ない雲の裡に隠れておるという有様でござりますが実にその景色を見た時には何となく愉快なる感に打たれて先ずその南方に対してはこれより遥か以南なる釈迦牟尼如来が成仏なされた仏陀伽耶の霊場を追想し曩日彼の霊場に於て誓願を立てたがこの国境までには先ずドウにか無事に着いたかと思うとかつて郷関を辞する時分には今より三ヵ年の後には西蔵の国境に這入ることが出来るであろう。何かの準備を整えなくては到底望みを達することは覚束ないから先ず三ヵ年と見積らねばなるまいという考をして参りましたが丁度その予考通りに三ヵ年の日子を費した、明治三十年六月廿六日に出立して明治三十三年七月四日にこの国境に着いたのであるから自分の予期の違わざりし嬉しさに堪えられなかったです。 |
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上図出典::HIMALAYAS A GUIDE TO THE FINEST ROUTES Milano,Italy P-81 |
下図は川口慧海が目指したチベットの首府ラサの「ポタラ宮殿」、彼が訪れた当時の1900年の画像。 |
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下図は現代のラサ市とポタラ宮殿 (白岩吉明:2006年撮影) |
12話 |
2回目のチベット旅行記(1913年-1915年) |
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第七章 ラッサ・セラ大僧院
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1902年(明治三十五年)五月中旬のとある夜更けのことである。ラッサ郊外にあるセラ大僧院の学寮ペトゥプーカムツェンの一室で、シェ上フプ・ギャムツォこと慧海は、座り机に広げた大判の紙に竹ペンを走らせていた。ことは二日前に遡る。行きつけの薬舗天和堂に泊まった慧海は、そこの女主人から気になる話を聞いた。気が触れたと噂の大貴族パラ家の公子が、セライアムチ(セラの医師)はチベットを探りにきた日本の役人だと言い触らしているというのである。慧海はチベットに入る前にダージリンで彼に会ったことがあった。実は昨日も彼は、商人ツァールンバの家で、来合わせた隊商長に正体を疑われ、ツァールンバが思わず「この方は日本人だ」と口を滑らせてしまうハプニングがあった。ツァールンバは慧海が日本人と知りつつ、その評判の高さを頼んで、彼の手紙をダージリンのダースやラマーシヤプドウンに届けたり、日本へ送ったりして協力していたのである。その場は何とか収め、その晩は、寄寓している前大蔵大臣チャムバーチョエサン邸に泊ると、彼は翌日直ぐにセラ寺の僧坊に戻った。近頃名医と評判のセライアムチ、貧乏人からは薬料も取らず、活きた薬師如来様かと崇められ、ついにはダライーラマに拝謁してその脈まで診たという高徳の医僧が、実は外国の秘密探偵だったとは。噂高いラッサの町人の好餌ではないか。慧海は夜分人々が寝静まるのを待って、ダライーラマ宛てに上書を認めはじめた。それは、いざという時、自分は仏法修行のためにこの国に来たということを証拠立てる用意であった。彼は、かつて一度拝謁したことのあるダライ・ラマ十三世の眉目の釣り上がった精悍な顔つきを思い浮かべながら、思を込めてペンを動かした。「この浄土より山と海とをいくつも越えた束の涯の海原の中に、尊師釈迦牟尼仏の教えが太陽の光のように輝く毘盧遮那仏の化現した浄土があります。大日本、あるいはジャパン、あるいはジッポンと呼ばれています。訳して、大いなる旭日という意味です。その国の真実無上なる仏の教え(に帰依する)釈迦族の比丘慧海仁広、すなわちシェーフプーギャムツォ・チャムバギェーパが百拝し、大いなる尊敬を込めてこの手紙を差し上げます」慧海は、世界の諸宗教の現状から説き起こし、キリスト教を批判し、仏教徒の責務に筆を進めた。 下図はセラ大僧院(撮影:2006年白岩吉明撮影。
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河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。 |
日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。その旅行記は英訳もされ、チベットの聖地伝説化に拍車をかけた。 |
『西蔵旅行記』『在家仏教』『正真仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。 |
経歴:1866年(慶応2年)、摂津国住吉郡堺山伏町(現・大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁)生まれ。父は川口善吉、母の名は常子、父の善吉は桶樽を家業とする職人であった。6歳から寺子屋清学院に通い、その後は明治時代初期に設置された泉州第二番錦西小学校へ通学した。12歳から家業を手伝いつつ、その傍らで14歳から夜学へ通学した。その後、藩儒であった土屋弘の塾へ通学して漢籍を5年間学び、米国宣教師から英語などの指導を受けた。1886年(明治19年)、京都の同志社英学校に通学を始めるが、学費困窮から退学し、同年堺市に戻り、再び土屋と米国人宣教師のもとで学んだ。 |
1888年(明治21年)に宿院小学校の教員となったが、更に学問を修めるべく翌年に上京、井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として苦学した。1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺(当時は東京本所にあった)で得度し、同寺の住職となる。1892年(明治25年)3月、哲学館の学科終了に伴い住職を辞す。同年4月から大阪妙徳寺に入り、禅宗を学ぶ傍ら一切蔵経を読む。その後、五百羅漢寺の住職を勤めるまでになるが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指す数々の苦難の末2度のチベット入りを果す。帰国した後、1921年(大正10年)に還俗する。 |
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上図:畦地梅太郎
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13話 |
島崎藤村 |
1874年(明治5年)~1943年(昭和18年) |
夜明け前 第1部 序の章 一 |
藤村全集 第11巻 p-3 |
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、あるところは數十間の曾川の岸であり。あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いてゐた。東ざかひの櫻澤から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里餘に亙る長い谿谷の間に散在してゐた。その道路の位置も幾度か改まったもので、古道はいっの間にか深い山間に埋れた。名高い棧も、蔦のかづらを頼みにしたやうな危い場處ではなくなって。徳川時代の末には既に渡ることの出来る橋であった。新規に新規にと出来た道はだんく谷の下の方の位置へと降って来た。道の狹いところには、木を伐って並べ、藤づるでからめ、それで街道の狹いのを補った。長い間にこの木曾路に起って来た變化は、いくらかづゝでも嶮岨な山坂の多いところを歩きよくした。かはり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。その度に旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して。道路の開通を待つこともめづらしくない。この街道の變遷は幾世紀に亙る封建時代の發逹をも。その制度組織の用心深さをも語ってゐた。鐵砲を改め女を改めるほど放行者の取締りを巌重にした時代に、これほど好い要署の釶勢もないからである。 |
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上図:木曾街道・馬籠駅・・・・・下図:馬籠の宿 |
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藤村全集 夜明け前 第一部 |
藤村全集 第11巻 序の章 二 p-5
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山里へは春の来ることも遲い。毎年舊暦の三月に、恵那山賑の雪も溶けはじめる頃になると。にはかに人の往来も多い。中津川の商人は奥(三留野。上松、禰島から奈良井邊までを指す)への諸勘定を兼ねて、ぽっく隣の國から登って来る。伊那の谷の方からは飯田の在のものが祭禮の衣裳なぞを借りにやって来る。太紳樂も入り込む。伊勢へ、津島へ、金毘羅へ。あるひは善光寺への参詣もその頃から始まって。それらの團體をつくって通る旅人の群の動きがこの街道に活気を注ぎいれる。西の領地よりする参覲交代の大小の諸大名、日光への例幣使、大坂の奉行や御加番衆などはこゝを通行した。吉左衛門なり金兵衛なりは他の宿役人を誘ひ合せ、羽織に無刀、扇子をさして、西の宿境までそれらの一行をうやうやしく出迎へる。そして東は陣場か、峠の上まで見迥る。宿から宿への繼立てと言へば、人足や馬の世話から荷物の扱ひまで。一通行ある毎に宿役人としての心づかひもかなり多い。多人数の宿泊、もしくは御小休の用意も忘れてはならなかった。水戸の御茶壺、公儀の御鷹方をも、こんな風にして迎へる。しかしそれらは普通の場合である。村方の財政や山林田地のことなぞに干渉されないで済む通行である。禰島勘定所の奉行を迎へるとか、木曾山一帯を支配する尾張藩の材木方を迎へるとかいふ日になると。ただの逞り迎へや繼立てだけではなかなかく済まされなかった。 |
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上図:府瀬川秀司「ブナ林の四季」より |
藤村全集 夜明け前 第一部 |
藤村全集 第11巻 序の章 三 p-7 |
山の中の深さを思はせるやうなものが、この村の周園には數知れずあった。林には鹿も住んでゐた。あの用心深い獸は村の東南を流れる細い下坂川について、よくそこへ水を飲みに降りて来た。古い歴史のある御坂越をも。こっから恵那山脈の方に望むことが出来る。大實の昔に初めて聞かされた木曽路とは實はその御坂を越えたものであるといふ。その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山の裾の方には。霧が原の高原もひらけてゐて、そこにはまた古代の牧場の跡が遠くかすかに光ってゐる。この山の中だ。時には木曽路とは、荒くれた猪が人家の並ぶ街道にまで飛び出す。鹽澤といふところから出て来た猪は。宿はづれの陣場から薬師堂の前を通り、それから村の舞臺の方をあばれ廻って、馬場へ突進したことがある。それ猪だと言って、皆々鐵砲などを持出して騷いだが、日暮になってその行方も分らなかった。この勢のいゝ獸に比べると、向山から鹿の飛び出した時は、石屋の坂の方へ行き、七廻りの藪へ這入った。大勢の村の人が集まって、到頭一卜矢でその鹿を射とめた。ところが隣村の湯舟澤の方から抗議が出て、しまひには口論にまでなったことがある。 |
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島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本における詩人又は小説家である。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠[注 1](現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。帝国芸術院会員。『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる[2]『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。 |
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上図:大沢武士「阿蘇山」
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14 話 |
夏目漱石 |
1867年(慶応3年)~1916年(大正5年〉 |
二百十日(抜粋) |
「山の旅」明治・大正編 近藤信行編 p75-106 抜粋 岩波書店 |
「どうも君は自信家だ。剛健党になるかと思うと、天祐派になる。この次ぎには天誅組にでもなって筑波山へ立て籠る積りだろう」「なに豆腐屋時代から天誅組さ。----貧乏人をいじめるような----豆腐屋だって人間だ----いじめるって、何らの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく」「いつそんな目に逢ったんだい」「いつでもいいさ。桀紂(けっちゆう)といえば古来から悪人として通り者だが、二十世紀はこの桀紂で充満しているんだぜ。しかも文明の皮を厚く被ってるから小憎らしい」「皮ばかりで中味のない方がいい位なものかな。やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな真似がしたくなるんだね。馬鹿に金を持たせると大概桀紂になりたがるんだろう。僕のような有徳の君子は貧乏だし、彼らのような愚劣な輩は、人を苦しめるために金銭を使っているし、困った世の中だなあ。いっそ、どうだい、そういう、ももんがあを十把一とからげにして。阿蘇の噴火口から真逆様に地獄の下へ落しちまったら」「今に落としてやる」と圭さんは薄黒く渦巻く烟りを仰いで、草鞋足をうんと踏張った。 |
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「まだ何か注文があるのかい」「うん」「何だい」「君の経歴を聞かせるか」「僕の経熈って、君が知ってる通りさ」「僕が知ってる前のさ。君が豆腐屋の小僧であった時分から……」「小僧じゃないぜ、これでも豆腐屋の伜なんだ」「その伜の時、寒磬寺の鉦の音を聞いて、急に金持がにくらしくなった、因縁話しをさ」「ハハハハハそんなに聞きたければ話すよ。その代り剛健党にならなくちゃいけないぜ君なんざあ、金持ちの悪党を相手にした事がないから、そんなに呑気たんだ。君はヂッキンスの両都物語りという本を読んだ事があるかい」「ないよ。伊賀の水月は読んだが、ヂッキンスは読まない」「それだからなお貧民に同情が薄いんだ。----あの本のね仕舞の方に、御医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」「へえ、どんなものだい」「そりゃ君、仏国の革命の起る前に、貴族が暴威を振って細民を苦しめた事がかいてあるんだが。----それも今夜僕が寐ながら話してやろう」「うん」「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃああなるのは自然の理窟だからね。ほら、あの轟々鳴って吹き出すのと同じ事さ」と圭さんは立ち留まって、黒い烟の方を見る。濛々と天地を鎖す秋雨を突き抜いて、百里の底から沸き騰る濃いものが渦を捲き、渦を捲いて、幾百トンの量とも知れず立ち上がる。その幾百トンの烟りの一分子が悉く震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものと共に頭の上へ躍り上がって来る。 |
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(上図:小山敬三「阿蘇山」........下図:夏目漱石・書斎にて) |
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夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の小説家、英文学者。武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)出身。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した官僚出身の政治家中村是公の親友としても知られる。 |