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横断山脈:1

ガンゼチベット族:1

文章は1990年代に中国の文献に掲載されていたものです。 現代史に刻まれた道 文/万新軍 ~抜粋~ 1950年 までチベットには自動車道路がなかった。内陸の場合は自動車道路がなくても、駅道いうものがあり、大体5kmごとに宿場に似たような村があった。しかし、チベットには駅道もなければ、宿場もなかった。チベットの道路といえば、ほとんど長い間に人間や動物が歩いて出来た曲がりくねった小道や桟道などくらいであった。当時、青海、あるいは四川からラサまでの間で、1往復するのに大体1年かかった。一略一 中国人民解放軍が1950年にチベットへ進駐することを計画した際、毛沢東は「軍隊の進駐をしながら、道路をつくる」という命令を出した、命令を受けた人民解放軍第十八軍と地方政府の道路建設局、それから10万人あまりの民工は、すぐに成都~雅安間の自動車道路の修復工事に手を付け、4月10日には雅安まで開通させた。康蔵公路(後に川蔵公路)「注:上記グラフ図」は2 2 7 1 kmあり、清蔵高原の横断山脈と谷間を延々と貫き二郎山、雀児山、ダマラ山、サラジ山など14の高山に渡っている。海抜は二郎山の峠で3 2 12m他はみなほぼ4 0 0 0m以上である。当時の道路建設工事の難関は建設ルートの選定と酷い泥流にあった。当時は詳しい地図は無<、必要な水流地質資料も無く、1952年~1954年にかけ、測量チームは200以上の山を登り、1万km以上の道路を歩き、やっと現在のルートをきめ、完成させたのだ。昌都から西へ行<と、500km圏内の泥流の多発地帯は合計200箇所以上あり、世界中でも類がなく、難工事は「康蔵公路には1Kmごとに1人が埋葬されている」と言われているの程犠牲者を出し、さらに完成後も日々修復に行われているのだ。

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