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チベットのヒマラヤ:2

ロールワリン山群

上図・下図  チョー・ラプサン 6587m

エヴェレストの西北西40km,ネパールとチベットを結ぶ交易路上のナンパ・ラから北北西6kmの中国チベット自治区にある。東麓にはチョー・オユーから流下するキャプラ氷河がある。チョボ・ラプザンChobo Rapzangともつづるが、「チョー」あるいは「チョボ」はチベット語では「神」のことをさす。中国名は卓那布桑峰とする。1952年舂,イギリスのチョー・オユー隊(E.シプトン隊長)が分散山行の際に,E.ヒラリーとG.ロウが5月中旬に初登頂した、登った記録はない。

 

上図:左隅:ギャチュンカン 7952m  右隅と下図:チョーユー 8201m

上図&下図2点チョーユー   8120m
チョ・オユー(ネパール語: चोयु; チベット語: ཇོ་བོ་དབུ་ཡ; ワイリー方式:jo-bo-dbu-yag; 中国語: 卓奥友峰)は、ネパールと中国チベット自治区にまたがるヒマラヤ山脈の山。標高は8201 mで世界第6位。チョー・オユーとも表記される。シェルパ語で「トルコ石の女神」の意味。

概要:全部で14座ある8000 m峰の中では最も登りやすい山とされ、多くの公募隊が組まれている[。エベレストの前哨戦として選ばれることの多い山でもある。ただし登りやすいといっても、それはノーマルルート(北西稜)のことであって、南西壁は標高差2000 mの大岩壁となっており、技術の卓越した登山家のみが選択するルートとなっている。他の8000m峰に比べると山頂が広く、最高地点が不明瞭なため、背景にエベレストとローツェが写りこむように撮影することが登頂の証明として好まれている。初登頂はエベレストが登られた1年後の1954年である。この登頂で特筆すべきなのは、隊員3人、シェルパ7人、隊荷の総重量1トンという、当時としては少人数・軽装備であること。8000m峰としては唯一、秋に初登頂されたことである。

チョーユーBCの脇を、ヤクのキャラバン隊が行進している。彼らがナンパ・ラ峠を目指しているのかどうかは定かではないが、彼らは鈴の音を響かせながらゆったりと進んでいる。前方にはチョーユー峰がそびえ、その右側にはナンパ・ラ(峠:5717m)があり、その先はネパールである。地元の人々は、峠を越えての往来が可能だと言うが、もちろん峠には国境を守る軍事基地が存在する。さらに、チョーユーBCの奥深くには、より大きな軍の本部があり、近づくと緊張感が増す。また、下図の右手の稜線上には監視所があり、複数の軍事基地が隠されている。下図はこの地域の鳥観図で、右にチョーユー(8201m)、中央にチョーアウイ(7354m)、左ににチョーラプサン(6587m)が描かれている。

上図   チョーユー 8120m

上図  チョーアウイ 7354m
エヴェレストの西北西32km,ナムチェ・バザールの北北西31km,ナンパ・ラの南東4.5km,チョー・オユーとナンパ・ラを結ぶ中国・ネパール国境稜線上にあり,この山塊をナンハイ・ゴスムNangpaiGosmという。チベット語で「ゴ」は「頭」,「スム」は数字の「3」,つまり「ナンパ峠のそばの三つの峰」・で西からI, II,Ⅲ峰とする。中国の地図では高度を順に7354m, 7312m, 7275mとしており,チョー・アウイはこれらの最高峰であり,西峰でもある。現地ではチョー・ウィと呼ぶらしいが,「チョー」は「神」の意で,中国語で弃鳥衣峰をあて る。三角錐の山姿はひときわ目立つ。 

下図  メルンツェ 7175m

下図はタン・ラ(峠):標高5050mから撮影のメルンツェ(7175m)。此の山はネパールとチベットの国境にあり、ロールワリン・ヒマールに分類される。下図は此処で扱う山々とタン・ラ(峠)の位置関係を見る為に Googl Earth を使い作った。タン・ラ(峠)は西側にシシャパンマのあるジュガール・ヒマール山裾の平野部を持ち、東側はチョーユーのあるクーンブ・ヒマール北西山裾だ、之等東西の低地(4600m前後)を仕切る山脈の一画に在るのがタン・ラ(峠・5050m)だ。下図を見るとこの様子が解かる。タン・ラ(峠)が在る山並みの続きにラプチカン山群(ラプチカン・ヒマール)がある、広義にはタン・ラを含めた地域全体がラプチカン域なのかも知れない。しかし日本のヒマラヤ文献ではこの部分の記述は少なく、独論で先に進む。下図で見られる様に、この地域にはクーンブ、ロールワリン、ラプチカン、ジュガール、ランタン・ヒマールと数多くの山域がひしめき、興味深い地が数多く眠る。地形ばかりか、気象も特殊であり多くを学ばされる。更に、野生動物・高山植物・山岳の暮らしにも未知の世界が山盛りだ

 

 

 

下図 タンラ峠から望む シシャパンマ 8013m

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上図:土漠に咲く青いケシ。標高5000mの厳しい環境にも生命は息つく。

下図:国道318:中尼公路から望むロールワリンの山並み。

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上図:タン・ラ峠 5000m     下図:ラルン・ラ峠 5000m

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上図上  チョ・オユー 8201m
チョ・オユー(ネパール語: चोयु; チベット語: ཇོ་བོ་དབུ་ཡ; ワイリー方式:jo-bo-dbu-yag; 中国語: 卓奥友峰)は、ネパールと中国チベット自治区にまたがるヒマラヤ山脈の山。標高は8201 mで世界第6位。チョー・オユーとも表記される。シェルパ語で「トルコ石の女神」の意味
概要 全部で14座ある8000 m峰の中では最も登りやすい山とされ、多くの公募隊が組まれている。エベレストの前哨戦として選ばれることの多い山でもある。ただし登りやすいといっても、それはノーマルルート(北西稜)のことであって、南西壁は標高差2000 mの大岩壁となっており、技術の卓越した登山家のみが選択するルートとなっている。他の8000m峰に比べると山頂が広く、最高地点が不明瞭なため、背景にエベレストとローツェが写りこむように撮影することが登頂の証明として好まれている。初登頂はエベレストが登られた1年後の1954年である。この登頂で特筆すべきなのは、隊員3人、シェルパ7人、隊荷の総重量1トンという、当時としては少人数・軽装備であること。そし8000m峰としては唯一、秋に初登頂されたことである。
登頂史 1954年の初登頂は、ネパールからナンパ・ラ経由でチベットに不法越境して行われた[4]。当時、ナンパ・ラを越える通商はよく行われており、違法だったが黙認されていた。その後も、ナンパ・ラを経由した無許可登山は繰り返し行われた。中国が正式に登山許可を出し、規制を強化したのは1987年になってからである[5]。ネパールがチョ・オユー登山を解禁したのも遅く、1981年になってからである。その後、登りやすい8000 m峰という評判が広がったため登山者が急増した。2012年3月時点での登頂者数は延べ3138人で、8000 m峰の中ではエベレストに次いで2番目に多い。
1954年10月19日 - (初登頂) - J.ヨヒラー、パサン・ダワ・ラマ、H.ティッヒー。無酸素。
1978年 - エドゥアルト・コプルミュラーとアイロス・フルトナーが南東壁初登頂、アルパインスタイル。無許可登山のためネパール入国禁止処分となる。登頂自体も一部で疑問視されている。
1983年 - ラインホルト・メスナーら3人が西稜からアルパインスタイルで登頂。
1985年2月12日- (冬季初登頂) - マチェイ・ベルベカ、マチェイ・パフリコスキ、(二次隊 アンジェイ・ハインリフ、イェジ・ククチカ 2月15日登頂)。
1988年2月6日 - (冬季単独初登頂) - フェルナンド・ガリド。8000メートル峰初の冬季単独登頂。
1987年9月21日 - 高橋和之が山頂からパラグライダーで下山。5200 m地点に着地。当時、地上からのパラグライダー飛行の高度記録となる。
1990年 - (南西壁初登頂) - ヴォイテク・クルティカ、ジャン・トロワイエ、エアハルト・ロレタン、アルパインスタイルで1日で登頂。
1993年2月10日  (冬季女性初登頂) マリアンヌ・シャピュイザ。女性初の冬季8000メートル峰登頂。
1994年 - カルロス・カルソリオ ベースキャンプから18時間45分の最速登頂記録。9月22日 - (南西壁単独初登頂) - 山野井泰史。
9月24日 - (南西壁登頂・無酸素) - 長尾妙子、遠藤由加。
2004年9月27日 - マーク・イングリスが両足義足により登頂。
2006年10月2日 - パヴレ・コジェックが南西壁新ルートを単独登頂。コジェックは中国武装警察隊によるナンパ・ラ銃撃事件を目撃し、帰国後に証拠写真を公開、この事件が知られるきっかけとなった。
 

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上図:メルンツェ:7175m     カトマンズの東北東115Km、ガウリサンカルの東9.5Km,ヘディングの北東9.5Kmに位置するロルワーリン山群の最高峰。中国チベット自治区内にある。この山に最初に接近したイギリス隊(E.シプトン隊)が命名した。1951年秋,クーンブ氷河からエヴェレストの南ルートを偵察したあと,メンルン・ラを越えてメンルン盆地(トクパ・ナクツアン氷河)に入り,そこで山姿の立派な山を発見した。その山名は谷の名前からきており,チベット語で「メンmen」あるいは「マンman」は「低い」,「ルン」は「谷」または「地域」を,「ツェ」は「頂上」の意味である。ウィーンの地図はチョボ・ガルーnとしている。チベット語で「チョボ(JoあるいはChodo」」は男神の一般名称で,「ガルー神」ということ。このウィーン図は東峰を7181m,,西峰を7023mとするが,中国は門隆則((メンルンツェ)峰)あるいは昇格茹(チャオゲルー))をあて,高度を東峰7175m7西峰7021mとする。チベット領内とはいえ,国境からわずかのところで,エヴェレストのマウンテン・フライトでも機窓からよく見える。

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上図:ラブチェカン:7367m (Labuche Kang)ラブチェカンI峰 は、 中国 ・ チベット自治区 にある ヒマラヤ山脈 の北の外れの 山 である。 ロールワリン・ヒマール の北西、 シシャパンマ の東に位置する。ラブチェカン(Labuche Kang)またはラブチェカンI峰は、中国・チベット自治区にあるヒマラヤ山脈の北の外れの山である。ロールワリン・ヒマーの北西、シシャパンマの東に位置する。この山は、ヒマラヤ山脈の中でもあまり知られていない区域に存在する。この区域は、ラブチェ・ヒマール(Labuche Himal)、パマリ・ヒマール(Pamari Himal)、ラプチカン(Lapchi Kang)と呼ばれ、タマコシ川の西側の谷から、スンコシ川の谷とニャラムトン・ラまで伸びており、アラニコ・ハイウェイ・中尼公路がヒマラヤ山脈を横断している。この区域は、アラニコ・ハイウェイの東にあるネパールに南下する。ガンジス川の支流であるコシ川の流域内にある。ラブチェカンは1987年に日本・中国の遠征隊により西稜から初登頂された。その後2010年10月にアメリカの登山家ジョー・パーイヤーが登頂中に滑落して死亡した他には、登頂に挑戦した記録はない。

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上図  ガウリシャンカール 7134m 
ロルワリン・ヒマールの中ではメルンツェ(7,181メートル)に次ぐ第2の高峰である。ネパール標準時(UTC+5:45)は、この山を通る子午線を基準としている。
位置 ガウリシャンカールは、カトマンズの北東約100キロメートルに位置するロルワリン・ヒマールの西端近くにある。カトマンズとエベレストのほぼ中間に位置し、カトマンズからも見える。山頂の西には、ロルワリン・ヒマールの西の境界であるボテ・コシの谷がある。ロルワリン・ヒマール最高峰のメルンツェは北にある。南側からタマコシ川の支流のロルワリン・チュー(ドイツ語版)が流れており、テシ・ラプチャ峠を越えてクンブ地方に行くことができる。
名称 名前の由来は、ヒンドゥー教の女神であるパールヴァティーの別名のガウリーと、その夫のシヴァの別名のシャンカールであり、ネパールの人々がこの山を神聖視していることを表している。シェルパ族はこの山をチョモ・ツェリンマ(Jomo Tseringma)と呼んでいる。
「ガウリシャンカール」という名前は、19世紀中頃のドイツを中心とするヨーロッパにおいて、世界最高峰のエベレストを指す言葉として使われていた。これは、ドイツのヒマラヤ探検家ヘルマン・シュラーギントヴァイト(アドルフ・シュラーギントヴァイトの弟)が、世界最高峰であることが判明したばかりのピーク15(現在のエベレスト)と当山を混同し、この山の名前が「ガウリシャンカール」であると地元住民に教えてもらったことから、「世界最高峰ガウリシャンカール」と勘違いして発表したためである。
山頂 この山には2つの山頂があり、北側の高い方の山頂はシャンカール(シヴァの別名)、南側の山頂はガウリー(パールヴァティーの別名)と呼ばれている。ボテ・コシの谷から5キロメートル程度しか離れておらず、四方を急峻な斜面と長い角状の尾根に囲まれている
登頂史 1950年代から1960年代にかけてガウリシャンカールへの登頂が試みられたが、天候や雪崩、登攀困難な氷壁などのため、全ての登山隊が登頂に失敗した。1965年から1979年までは、公式に登頂が禁止されていた。
1979年に登頂が許可され、5月8日にアメリカとネパールの登山隊が西壁を経由して初登頂に成功した[5]。このルートは、技術的に非常に難しいものだった。ネパール観光省の登頂許可証では、両国から同数の登山者が登頂チームに参加しなければならないと規定されており、初登頂にはアメリカ人のジョン・ロスケリーとネパール人シェルパのドルジェが参加した。
同年、ピーター・ボードマン率いるイギリスとネパールの登山隊が、長く困難な南西尾根からの登頂に挑戦した。11月8日、ボードマン、ティム・リーチ、ガイ・ニードハルト、ペンバ・ラマの4人は、南のガウリ(7,010メートル)に到達した。イギリス隊はシャンカールへは行かなかった。
1983年にスロベニアの登山隊が登頂した。11月1日にSlavko Cankar(隊長)、Bojan Šrot、Smiljan Smodišが、その3日後にFranco PepevnikとJože Zupanが到達した。スロバキア隊は南壁の左側を登り、南西稜に到達した後、ガウリー山頂へ進んだ。スロベニア隊もまた、シャンカールへは行かなかった。
ヒマラヤン・インデックスによれば、主峰シャンカールへの登頂は、1979年の初登頂の後2回行われている。2回目の登頂は1984年春、ワイマン・カルブレスとアン・カミ・シェルパが南西面の尾根に設けられた新ルートを使って行った。3回目の登頂は、1986年1月、韓国のチェ・ハンジョとシェルパのアン・カミによって行われ、初の冬期登頂となった。
2013年秋、4人のフランス人登山家によって、南壁の完全な登頂が実現した。10月21日午後4時に南壁の頂上に到達したが、その先のガウリー山頂(7,010メートル)への登頂は断念した。南壁の下まで降りるのに11時間を要した。

文学での言及 ロシアの作家アンドレイ・ベールイの小説『ペテルブルグの中で、一日に起きたたくさんの出来事の喩えとしてガウリシャンカールに言及

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タン・ラを下り、チベットとネパールを結ぶ歴史ある中尼公路(318号線)を南下し、50Kmほど進むと、標高3700mのニャラム近くで、シシャパンマから西へと続くシュガール・ヒマールの端が深い谷間から望める。その端にある山がプルビ・チャチュ(6637m)である。プルビ・チャチュの下に描かれた4つの点は、ミラレパ寺院(ニャラム・ぺルギェリン)を示している。寺は村を見下ろす傾斜地に位置している。ミラレパ(1052~1135)はチベットで最も著名な宗教詩人であり、彼の「十万歌」はチベット密教の宝とされている。私の手元にはそのうちの6000歌の日本語訳がある。千年以上前からこの回廊は利用されていたが、2005年4月25日のネパール地震はこの回廊の国境地帯で多くの崖崩れを引き起こし、回廊の機能に大きな損傷を与えた。

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チベットとネパールの国境の町「ダム」の姿2景、上図は2005年、下図は現在。

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