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フンザ物語:2


フンザ(Hunza, ウルドゥー語: ہنزہ‎) は、パキスタン・イスラム共和国北西部ギルギット・バルティスタンのフンザ=ナガル県(英語版)に位置する地域。広義では、藩王が1974年まで支配していたフンザ藩王国の版図、狭義では王都があったカリーマーバード(Karimabad)を指す。①地理:北で中華人民共和国、北西でアフガニスタンとの国境と接し、面積10,101平方キロメートル。中国のカシュガルへ向かうカラコルム・ハイウェイ沿いに、観光ホテルや安宿の集まるカリーマーバード、ゴジャール(Gojal)にあるパスー村、グルミット村などの集落が点在している。ワハーン回廊へは、カランダル峠、イルシャード峠で夏期のみ連絡されている。また、ワフジール峠でバダフシャーン州(アフガニスタン)とタシュクルガン・タジク自治県(中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 カシュガル地区)が連絡されている。②住民:フンザ人の長寿性は幾つかの文献で注目されているが、それ以外からは出生記録が残っていないことから発生した長寿神話(longevity myth) だと否定されている。ブルショー人と関わり続けた著名な作家であるジョン・クラークは、彼らは全体的に不健康であったと報告している[4]。ただし長寿であるとの推定が正しいかどうかに関わらず、フンザ人が健康的な生活スタイルを送っていることは疑いようがないとされている。この謎を解決するために多くの研究者がフンザ人と共に生活しており、その一人であるロバート・マクキャリソンは癌や胃潰瘍、虫垂炎などの症状を持つ個人を誰一人として発見できなかった。③:クンジュラブ峠(中国語: 红其拉甫山口、ウルドゥー語: درہ خنجراب‎)は、カラコルム山脈を越える標高は4880メートルの峠である。パキスタンのギルギット・バルティスタン州と中華人民共和国の新疆ウイグル自治区に跨る。
 

上図:2点 カラコルムハイウェイ
①カラコルム・ハイウェイ (The Karakoram Highway: KKH) は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区最西部とパキスタンのギルギット・バルティスタン(旧称:北方地域)をカラコルム山脈を横断して結ぶ道路である。途中、中国=パキスタン国境となっている海抜4,693メートル(15,397フィート)のクンジュラブ峠を通り、国境を横断する舗装道路としては世界一の高所を通る道路でもある。 ②概要:ハイウェイの大部分はパキスタンのギルギット・バルティスタン(旧称:北方地域)を通っている。このハイウェイは、古代シルクロードを結ぶ通商路でもある。延長はウイグル自治区のカシュガルからパキスタンアボッターバードのハヴェリアン(英語版)まで約1,300キロメートルである。その先のハッサンアブダル(イスラマバード西方の都市)で大幹道に続く。③歴史:ハイウェイはパキスタンと中国政府によって建設され、建設開始から20年が経過した1978年に完成した。多くのパキスタン人および中国人労働者が、建設中の地滑りや転落事故で死亡した。ハイウェイは古代のシルクロードをなぞっている。④パキスタン側では、道路はパキスタン陸軍工兵隊を雇用したFWO(Frontier Works Organization:国境作業組織)により建設された。まもなく、パキスタン軍のチーフエンジニア分隊がカラコルム・ハイウェイの歴史を記録するプロジェクトの作業を行っている。建設時に働いていた古参兵のMuhammad Mumtaz Khalid准将(退役)は、カラコルム・ハイウェイの歴史を書いている。インドとパキスタンの間に跨るカシミール地区を巡る対立が非常に切迫しているため、カラコルム・ハイウェイは戦略上重要な拠点となっている。また中国にとってはパキスタンへの輸出入の経路として重要なほか、パキスタン南部に中国の支援で建設されるグワーダル港と新疆ウイグル自治区とを結ぶ経路でもあり、中東やアフリカへの資源へのアクセスを確実にする上でも戦略的に重要な経路である。中国政府はパキスタンへ援助を行って拡幅工事などを行っている。
 

下図:アルチット城
下絵柄3点はアルチット城、城の左はインダス川です、川の上の細い道は過ってのシルクロード古道で、今はカラコルム・ハイウェイに変身したものです。昔ここはシルクロード古道の要衝で、城は中国からインドへの内陸交易路を仕切ってました。道は中国の資金でカラコルム・ハイウェイに進化し中国のウィグル自治区の最西部からパキスタンのギルギット迄を繋ぐ自動車道になりました。ギルギットの南1500Kmはインド洋のペルシャ湾で、この道には中国の戦略的意図が匂います。平穏に見えるこの地の背後には中国軍・タリバン軍・CIA(米情報機関)・パキスタン軍・インド軍・諸軍閥の軍事力や信仰・宗派や資源・資本の力学が蠢きます。フンザ村の平穏の背後はアレキサンダー大遠征の時代以来今も変わりませんが村人は此の世情を意に介さず淡々と暮らしています

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上はフンザ村のケシ栽培の姿
パキスタンのケシ栽培の実情
中村哲医師の西日本新聞社「新ガリバー旅行記」への寄稿連載随筆
パキスタンにおける阿片(あへん)の流行は一九八〇年ごろから始まった。一時は深刻な社会問題となった。国民の一割が阿片耽溺(たんでき)者というから、大変なものである。その直前、アフガニスタンではソ連軍の侵攻でアフガン戦争が始まり、パキスタンでは軍事政権下で禁酒政策が徹底された。ケシ栽培はパキスタン北部とアフガニスタンで普通にあったが、それまで阿片は辺境で鎮痛剤に使われる程度で、主に輸出用だったらしい。ペシャワルはこの阿片供給ルートの要(かなめ)である。郊外のバザールで堂々と販売していたし、初めのころ、さほど高価でなかったから、庶民のお手軽な社会逃避の手段となった。アフガニスタンではソ連兵の間で流行し、ゲリラたちが石油や弾薬を阿片と交換する姿は普通に見られた。いずれにしても、良いことではない。欧米諸国でもまた、麻薬は深刻な社会問題で、供給源の壊滅にやっきとなった。しかし、ケシを作る農民側にも、何分かの理はある。麻薬栽培の拡大は、現金生活の浸透と切っても切り離せない。わがPMS(ペシャワール会医療サービス)の五つの診療所はおおむね国家の目が行き届かぬ辺境にあり、例にもれず、一時盛んにケシ栽培が行われた。小麦の代わりに作付けすると、約十倍の収入が得られる。そこで、農民がケシ栽培で多額の収入を得、町のバザールで穀物を買うという珍現象さえ現出した。大声では言えないが、ダラエ・ヌール渓谷に診療所を作るころ、ケシの収穫期には職員たちも手伝って、農民と親交を深めたことがあった。麻薬撲滅が世界的な課題とされた一九九一年、畑のケシを刈り取ると国連が褒賞金を出した。この噂(うわさ)が広まると、何とケシ畑は至るところで急増した。褒賞目当てにわざわざ小麦畑をつぶしてケシを植えたのである。これは豊かな農村地帯で多く、完全に自給自足の村では見られなかった。当たり前だがそんなことをすると自給自足できなくなる。ケシ栽培はカネ社会の浸透。つまりカネの多寡が生活の豊かさを決る世界的な趨勢(すうせい)と不可分である。根は想像以上に深い。●中村哲医師特別サイト「一隅を照らす
 
 アヘン余話 18世紀後半から,イギリス東インド会社がインド産アヘンを中国向けに輸出した貿易。実際は,中国からの茶の輸入の資金として,英国がインド(ベンガル地方と中央インドの藩王国など)につくらせたアヘンを中国に売り,インド人の受け取る代金で英国のつくった工業製品の消費を可能にさせる,という三角貿易であった。また,植民地インドにおける英国の歳入の17%(19世紀平均)はアヘン専売収入が占め,中国への輸出は清朝の禁令のため,中国人商人を介した密貿易で行われた。

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