白岩吉明オフィシャルサイト
内陸アジアの貌
タクラマカン砂漠
古代シルクロードからの贈り物
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黄砂のタクラマカン砂漠を行く羊飼い
タクラマカン砂漠と天山山脈(空撮図)
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天山山脈(空撮図)
スウェン・ヘディンが登ろうとした「ムスターグ・アタ峰:7500m
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スウェン・ヘディンの中央アジア探検総覧図 出典:深田久弥「中央アジア探検史」P395
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①出典:上図:新・シルクロード展/NHKプロモーション。下図:は内陸アジア中央に位置するタクラマカン砂漠(タリム盆地)の様子です、砂漠は6000~7000m級の万年雪の山脈に囲まれています。万年雪は砂漠の周辺を潤し、人移動の回廊をつくり、シルクロード文化を育みました。此の地の歴史は凡そ4000年近く前には存在していたと確認されてます。②ここに並ぶ画像は、内陸アジア5~8世紀の美術作品です表題を「内陸アジアのルネッサンス」としたのは此の地で、仏陀のエピソードをソースに古代文明復興のモーションあったからです。西欧では此の地の千年後の14世紀に、中世暗黒時代脱皮の欲求が文芸復古を呼び、西欧全土に広がります。改革のエネルギーが 宗教改革を成し、産業革命を産み資本主義を生み世界大戦へと深化します。③其の世界大戦前夜の19世紀末~20世紀初頭、列強諸国は 内陸アジアの領有を画策し、学術踏査を理由に探検隊を送り込みます。その探検隊により砂漠から掘り出され千年の 眠りに終止符を打たれたのが、此処で見る画像です。余談乍ら、 ルネッサンスが産んだ現代社会は「神」は「株価」に変わり、株価は「権力・戦争」の源泉です。何れもルネッサンスが産んだ価値観です。④画像は、タリム盆地と雪の山脈間のオアシス路(概略6千Km)の、分散型ネットワーク上で産まれ、帝国の侵攻で或日砂漠に消えた儚い夢の残滓です。⑤作品は千余年の眠りを経て20世紀初頭に、内陸アジアの砂漠から発掘されたもので、作品のモチーフは仏陀の物語です。物語は永らく語り継がれた後、紀元前3世紀頃に文字化され其の3~4百年後にギリシャ文明の影響を受け、ガンダーラの地で、石像表現に至り、其の後また幾百年後にタリム盆地で彩色美術に進化しました。其れが此処にご覧の作品群です。 |
上図:ホータン王書簡 紙本墨書:963年。ホータン出土。ペリオ探検隊(1906-9)発掘解説抜粋:この書簡は最近の研究により、ホータン王の李聖天が曹元忠に白玉を送る旨を記したものであることがわかった。朱印が2ヶ所に押されており、右の印は「通天萬壽」はホータンの年号(963-67)と関連している。900年代中葉、カシュガルを征服したイスラム勢力の脅威にさらされたホータンは、保全のため沙州を治めていた曹氏と軍事同盟、姻戚関係を結ぶ。しかし、その後ホータンはイスラムの支配下にはいることになる。出典:シルクロード大美術展1996年:東京国立博物館。発行・読売新聞社。画像No:27/p40
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上図:観経変相(部分。舞楽 中唐(781~848年。莫高窟:第112窟 南壁内東側。解説抜粋:仏前の台上で美しく着飾った1体の舞人が琵琶を背にし、右足を高く引き上げつつ身体をやや右に傾け楽に合わせさも楽しげに舞躍する姿がある。舞人は背後で琵琶を弾じながら琵琶を翻して舞うという極めて難しい技を演じており、これは舞踏史を研究する上からも資料と言わねばならない。出典:中国石窟 敦煌莫高窟(二巻)。1981年:平凡社刊。画像No:54.解説:P 253
下図 楽伎図(部分) 唐(618~904年)トルファン・アスターナ230号墓。解説抜粋:長安3年(703)に埋葬された脹礼臣の墓から発見された舞楽屏風の1つ。六弦琴を手にした美人の姿。額に化粧をほどこし、頬と唇には紅を刷き、艶やかに飾り立てているのは、この頃に流行した化粧法をそのまま再現したものであろう。均整がとれた肢体や、華麗きわまる装いなどに特色があり、当時の卓越した表現技巧を目のあたりにする。出典:中国出土壁画全集(七巻:新疆・寧夏・甘粛)2012年:国書刊行会刊。画像、解説:P66。
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上図:ドイツ・トルファン探検隊行程図。1902年11月~1914年2月(プロシア王国トゥルファン探検隊)。出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集。1991年:朝日新聞社刊。画像:P222
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上図。供養菩薩 初唐(616-712年)。莫高窟:第401窟 北壁東側。解説抜粋:蓮台に立つ菩薩は左手に華盆を持ち、右手は垂下して天衣をとるしぐさで、細くくびれた腰部をかすかにひねる三曲法の姿態にあらわされる。細くひかれた眉や伏目がちのおもだちは、いかにも優しく穏やかであるが、小さく結んだ口は意志的ですらある。菩薩は耳環・胸飾・肩飾で飾られ、薄物の天衣をゆるやかに垂らすその表現もなかなか優雅である。なを題記によって、壁画は武徳5(622)頃に描かれたことがわかる。出典:中国石窟。敦煌莫高窟(三巻)。1981年:平凡社刊。画像No:7。解説:P 243 |
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上図:神と乾闥婆。GOTT UND GANDHARVA。出典:画像: ルコック, アルベルト・フォン著作 「 DieBuddhistische Spätantike in Mittelasien 」中央アジアの仏教古代後期: vol.4 :P 0012。1992年刊(別称:ガングルヴァ立像)6ー7世紀。キジル石窟第13窟出土(ベルリン国立美術館・蔵)。左は全身白色系で、王子の宝冠をかぶる裸体の天神、右は全身黒色系で、王女の王冠をかぶり、チョッキ風の胴着ツートン・カラーの裳をつけ、美しく着飾ったガンダルヴァが描かれている。天界の調べが響き渡り、香り豊かな天界の生気が充満しているように感じる。緑色部解説: 「飛天の道」:P61 吉永邦治著 2000年刊:小学館刊。(追記:上記壁画には、縦横に多数の 、ほぼまっすぐな「傷」がある。これはルコック隊が、壁画を漆喰ごと乱暴に剥ぎとって、ドイツに持ち帰ったときの傷で文化財に対する当時の姿勢が伺える。ル・コックは現地で採取した360kg以上にのぼるフレスコ画・像ほかの文化財をのこぎりで切りとって305箱に詰めてベルリンまで運んだ。彼は之を、貸し出しと称し、この「貸し出し」について、探検当時のトルキスタンの紛争によるものとル・コックは正当化している。文化財の一部はプリンツ・アルブレヒト通りの民族学博物館で、1944年まで展示されていたが、ベルリン大空襲によって重大な損壊を被った。上図も現存していないと思う。ここの画像は、ルコックの1992年の著作からの物。)
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上図:ベゼクリク千仏洞のあるトルファンの深い谷
中図:ベゼクリク千仏洞(中図:出典:NATIONAL GEOGRAPHIC 2004/2) 下図:祈願図no.6、第9号窟、ベゼクリク。(上記壁画には、縦横に多数のほぼまっすぐな「傷」がある。これは、ルコック隊が、壁画を漆喰ごと乱暴に剥ぎとって、ドイツに持ち帰ったときの傷で文化財に対する当時の姿勢が伺える。ル・コックは現地で採取した360kg以上にのぼるフレスコ画・像ほかの文化財をのこぎりで切りとって305箱に詰めてベルリンまで運んだ。)出典: 画像:ルコック, アルベルト・フォン著作 「Chotscho」ホッチョ(高昌)」:vol.1:P92。1913年刊 |
上図 天山南路周辺の仏教遺跡地図。出典:ドイツ・トルファン探検隊・西域美術展:展示品集。1991年:朝日新聞社刊 P233
下図 第2次世界大戦のベルリン大空襲で破壊される前のベルリン民族博物館。ベゼクリクの壁画の展覧会の様子。出典:ルコック, アルベルト・フォン著作 「Auf Hellas Spuren in Ostturkistan : vol.1」P0110
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歴史に翻弄されるウイグルとタクラマカン砂漠 |
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上図。仏説法図右脇侍菩薩(部分)。莫高窟第57窟。南壁中央。初唐(618~712年)。解説抜粋:この図は保存の優れていること、その姿の優美なことで、まことに出色の出来を示す。菩薩は宝冠・胸飾・耳環・腕釧などの装身具によって美しく飾られ、薄物の裙を長く垂れて。身体の重心をやや右足にかけ、頭をかしげて腰を曲げた軽い三曲法の姿勢で蓮華座上にたつ。・・・肘を屈した右手は掌を返して連珠の神線をとり、しなやかに曲げた指はいとも優雅である。肉身は淡く肌色に彩色し、わずかに伏目になった目蓋と頬・頤には、うっすらと紅を差し、透き通るような肌を表現している。 出典:中国石窟 敦煌莫高窟(三巻)1981年:平凡社刊。 画像No:13 解説:P244
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上図。阿弥陀浄土変相部分。初唐(618-712年)。莫高窟:第71窟。北壁。解説抜粋:中尊阿弥陀仏の左脇に侍従する供養菩薩を示し、蓮華座上に坐して上体をひねるもの。あるいは安楽座をとって頬杖をついて思推するものなどその姿態はいかにも自由で変化に富む。その中の一部。”蛾眉”と形容されるような美しく弧を描いた眉、切れ長の目、やや厚みがあって小さく結んだ唇など、濃淡と肥痩を生かした描線は特筆され、初唐期の絵画にあっても格別優れた作柄を見せる。出典:中国石窟、敦煌莫高窟(三巻)1981年:平凡社刊。画像No:84。解説:P258
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上図:有翼人物像。祀堂M. IIIの腰羽目のテンペラ画、ミーラン “セリンディア 中央アジアおよび中国西端部における探検の詳細報告.”出典:スタイン, マーク・オーレル著作 「Serindia : vol.4」p0095
スタインが考えた“有翼人物像”の秘密
“有翼人物像”は1907年にスタインが発掘したミーラン遺跡での発見によるものです。彼はこの壁画を「翼のある天使」と呼びました。スタインは “有翼人物像”はギリシア神話に出てくる翼を持った、青年エロスが先祖だと考えました。ひみつ理由のひとつは、この天使像が西洋の原始キリスト教の教会の天使像に似ていることで。理由のふたつ目はミーランに比較的近い、ダーラ地方のギリシアふう仏教美術の彫刻では、エロス像を模した彫像が見られたため、ミーランに、その影響があっても不思議ではないと考えた事です。またスタインは、発掘したこの仏塔の近くで、同じように、西洋風デザインの人物像を見つけてます。 ギリシア風仏教美術は、ミーランにまで伝播していたのです。
下図:スタインが採取の画像の数々
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マーク・オーレル・スタイン(Sir Marc Aurel Stein) |
東トルキスタンを中心とした探検 |
1900年、東トルキスタン地域へ第1回の探検旅行に出発する。新疆省を探検し、ホータン近郊のニヤ遺跡を発掘調査した。1904年1月には、インド古跡調査局(Archaeological Survey of India)入りをしている。1906年には第2回の探検を行い、敦煌の仏画・仏典・古文書類、いわゆる敦煌文献を持ち帰った。 |
1909年には、中央アジアの探検、考古学調査の功績に対して、王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を贈られた。 |
1910年、業績によりC.I.E.(Companion of the Indian Empire)に、1912年にはK.C.I.E.(Kinght Commander of the Indian Empire)に叙せられ、サーを称することを許可された。1913年 - 1916年には、第3回のハラホト(モンゴル語: ᠬᠠᠷᠠ ᠬᠣᠲᠠ、転写: Khara-Khoto、中: 黑城)よりイラン東南部を経てインダス川上流に至る地域の調査旅行をおこなった。
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上図 トルファン古墳群 |
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上図はタクラマカン砂漠と山脈の空撮図で、左図は天山山脈、右下はカラコルム山脈とタクラマカン砂漠の境界風景です。右上は地上図で、黄砂に染まるタクラマカン砂漠です。
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